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第19話 体育祭④

 太陽がだいぶ傾き、運動会も終わりに近づいていた。


 そんな中、俺は2人しかいない保健室で寝ている紗恵の隣から窓を見ながら、椅子に座り考え事をしていた。


 紗恵は病気な訳ではないが、安静にしていたところ眠ってしまった。顔を見るととても疲れているように見えて、今はすやすやと眠っている。


 だいぶ朗らかな顔をして寝ている紗恵の顔を見ていると、ゆっくりと瞳を開けた。それはまだ夢の中にいるかのよう表情だ。それを見ていると、すぐにここを離れてもよかったのに、結局俺は紗恵の隣に居座ってしまった。笑ったり怒ったりせず、安らかに睡眠を取る紗恵はとても新鮮だからかもしれない。


「あ、あれ…。夜彩…?」


 紗恵は横にいた俺を見つけ、驚いたように見つめる。寝起きのせいか、心なしか目は潤んでいるように見えた。


「紗恵、起きたか。怪我の具合はどうだ?」


 俺はそういうと、紗恵は無言で足の方を見た。まだ疲れているようにも見える。紗恵の休息の邪魔になるのならば良くない。俺は早めに去った方が良いだろう。


「え、ああ。まだ痛いよ…」


 紗恵はそう答えた。幸い骨が折れたりしているような訳でもなく大事には至っていない。保健室で冷やして、様子を見ることになった。養護教諭によると痛みが引かないのであれば病院に行ったほうが良いだろうとのことだ。


「そうか。お大事な」


 それは俺の心からの本心だ。怪我だけではなく疲労も含めて。


「夜彩。そのずっと居てくれたの?」


 紗恵は申し訳なさそうに俺も見てくる。ベッドに横になる紗恵の視線は自然と上目遣いになる。


「そうだな。なんか流石にその…そんな顔して寝られるとな」


 それはいつのことだったか、紗恵に言われたことだ。懐かしさを感じて自然と落ち着いた声になる。


「え、私もしかして泣いてる?!」


 紗恵が素で慌てていた。それを見て思わず俺も笑ってしまった。久しぶりに紗恵と話して余計な邪推などせずに俺は笑った気がする。


「泣いてない」


 笑いながらそう答えた俺に紗恵は拗ねたような顔をする。


 紗恵はまた横になって毛布に潜ると、毛布を顔まで被った。何をするのかと思って見ていると、ちょこっと目の下あたりまで毛布から顔を出した。


「なんか立場逆だね、春のあの時と」


 そう、紗恵は俺を見て言った。春はもう大分前だ。そう思うと、何かがこみ上げてくる。頭の中の感情は決して言葉にはできない複雑なものだった。


「ああ、そうだな。逆だ」


 俺はそう感慨深く言った。昔のことなど考えても仕方がないのに、考えずにはいられない。人間とはそういう生き物だろう。過去を振り返らない人は本当に少数だ。


 紗恵は俺から少しだけ目を逸らして、悲しそうな顔をして言った。


「私そんなに辛そうだったかな…」


 それは何か懐かしむような、もので、未知なものへ遭遇した時の不安にも見える。


 紗恵は何を思っているか分からない。でも、疲れているときにそれを考えるのは得策じゃない。そして、そのことを考えすぎて自滅しては意味が無い。


「ああ、疲れているように見えた」


 俺からは何も言うことはない。紗恵の悩みを解決してあげることはできないし、自己の悩みは自分で解決しなければ意味がない。ただ、俺から見た紗恵の主観的情報を述べるに留めた。


「そっか…」


 紗恵は力なくそう答えた。


「だから今は休んでろ」


 それは紗恵の抱える問題を先送りにすることだが、疲労があってはきっと紗恵はその問題を解決するのは難しくなるだろう。俺ができる最大限の助言だ。


「うん、そうする」


 紗恵は俺の助言にそう微笑んで答えた。


 紗恵は寝始めようとしたとき


「リレー、大丈夫だった?」


 と俺に聞いてきた。


 大丈夫かと言えば大丈夫では無かったし、そもそもうちのクラスの補欠も用意しておかないガバガバ体制に問題があっただけだ。むしろ、紗恵には申し訳ないくらいだ。


「大丈夫だ。今は心配しなくて良い」


 俺はリレーに関して言いたいことをグッと飲み込むと、それだけ答えた。疲れているなら今余計な事を言って考えさせるべきではない。


 そして、俺が居続けては紗恵の睡眠の邪魔だろう。そう思って、俺は立ち上がった。


「じゃあ、俺は…」


 紗恵は流石にまだ寝ていないだろうから、そう一言言って立った。あまり音を立てないように出ていこうとする。


「待って!」


 俺は腕を掴まれ、進むのを止めた。振り向くと、毛布から紗恵の手が俺の腕を掴んでいる。紗恵は俺を掴むためにベッドから上半身を置き上げていた。


「その、もうすこしだけ居て…くれない…かな?」


 紗恵はそういうと手をゆっくりと放した。あくまで強制はしないという事だろうか。その不安そうな顔は雪憐を連想させた。いや、紗恵の顔は紗恵のままだ。今までと何も変わらない。だから、これは表情が似ていたのだと思う。


「まあ、いるだけでいいなら俺はいる。今は彼女もいないし」


 俺は紗恵の顔から目を逸らしながら俯き気味に答えた。すべての人を助けられない、だから自分が一番大切な人を優先的に助ける。俺には雪憐がいて、大切な人が既にいる。"今は彼女がいないから"など理由として、全く意味が無い。


「それに、紗恵には世話になったから。こんな簡単なことで喜んでくれるなら、せめての礼で」


 俺は本当に心にも無い事を言った。あれだけ紗恵を信用しないでおきながら、最後の最後で"紗恵への感謝"を理由に俺の行いを正当化しようとしているのだから。


 きっと、俺がこの選択をしたのは"紗恵の悩み"に関して一つの馬鹿げた仮説を思いついてしまったから。そして、その仮説が馬鹿げていると分かっていながら、否定しきれない自分がいたから。


「ありがとね、夜彩」


 紗恵が安堵するように笑った。それを見て俺の心は締め付けられ、血液でさえ通らなくなったような気分になる。心臓の鼓動が少し早い。


「どういたしまして」


 俺はそう答えるのがやっとだった。締め付けられる心が気になって、立つ気力がわかなかった。自然と紗恵の隣に座る。


「夜彩は私と友達で楽しい?」


 紗恵はそう落ち着いた、ゆっくりとした声でそう俺に聞いた。とくんとただでさえ早い心臓が瞬間的に高鳴る。


「なんだよ、急に?」


 俺はそう答えた。俺は少し焦ったような声色になってしまったと後悔した。


「いいから」


 紗恵はそう有無を言わさずに答えを俺に催促した。


 紗恵との時間はどれも疲れなくて、表面的なもので、大きなトラブルが起きる事もない何気ない日々だ。それは果たして楽しいと言えるのだろうか。表面をなぞるように生産性の無い話をする俺達は。


「どうなんだろうな…。楽ではあるけど」


 言える自信がわかなかった。だから、確実で間違いようのないことを言った。1年半近く、俺と友達を続けてくれた紗恵に対して、俺はとても軽薄な人間だと感じた。


「そっか」


 紗恵はそう嬉しいのか悲しいのか寂しいのかよく分からない声でそう言う。それが俺の不安をかき立てた。俺の選択は正しかったのだろうか。


「紗恵友達いるだろ。俺にこだわる理由が無い」


 今度は俺が質問した。昔からずっと不思議で、不可解だったこと。俺には結局分からなくて、答えを出せずにいた。


「そうだね。でも私は夜彩といて楽しいよ」


 紗恵の答えは答えになっていない。それは"俺にこだわる理由"でない。楽しい人なんて他にもいるじゃないか。わざわざ面倒な俺と友達になる必要性は無いのではないか。


 俺は知りたい。何故紗恵が俺と友達になってくれたのか。だから、何も言わずに俺は紗恵を見つめていた。


「運命的な事はなくて、何気ない日常だけど」


 少し間が空いて、紗恵がぽつぽつと小雨が降るように語り出した。


 それはこの1年半の紗恵との人間関係の答え合わせだ。


「私はこの時間がずっと続けばいいのになって」


 紗恵はそう言うと一度言葉を区切る。紗恵は息を吸った。息が少し震えているような気がした。


「…思うんだよ」


 紗恵は全てを吐き捨てるように言った。小さい声だったのに、とても良く聞こえて、俺の頭の中を反射した。


 紗恵は泣いていた。何故泣くかなんて、聞くのは野暮だった。俺がすでに仮説を立ててしまっていたのだから。


 "きっと、そんな関係では、君も紗恵君も望む結果は得られない。君も紗恵君もとても後悔する"


 いつか、藤堂先輩の言葉が虚しく俺の頭の中で響いた。


「紗恵…」


 俺は何も言えずに、意味もない呟きを吐いた。頭の中で嫌な結末が現実のようにくっきりと予想できる。


「夜彩とたわいのない会話をしてる時が一番楽しい」


 紗恵はそう言葉を紡ぐ。きっと、それは紗恵にとって初めてな想いで。


「でも夜彩に彼女ができたらできないでしょ?」


 それは、紗恵が選んだ選択。


「そうだな。それは浮気に近いから」


 大切なものを守るために人は選択するんだ。


 紗恵も俺も…


「うん。だから」


 紗恵はそう区切りをつけた。もう、分かってる。この先が嫌でも分かる。


「私は夜彩が…」


 紗恵は言葉を振り絞る。それは心の奥底から出しているような声で、悲痛さすら感じるほどの力強さだった。


「私は…」


 紗恵は俯いて続きを言わなかった。言ってしまえば、紗恵の見た事のない世界が広がってる。良いか悪いか俺には分からない。


 だが、今言うべきことじゃない。


「紗恵、とりあえず休め。きっとそれはちゃんと考えるべきことだから」


 俺は酷いやつなのだと心から思った。俺は紗恵の想いを封じ込めた。恨まれても構わない。俺にはこの先の紗恵と向き合える自信が無い。


 俺はそう言い終わると、何も言わずに立ち上がる。紗恵は何も言わなかった。保健室に響く俺の足音が"これで良かったのか?"と責め立てる。


「私は夜彩が好きだよ…」


 その、聞き取れるかどうか微妙な独り言にも近い声。だが、俺は聞き取れてしまった。頭が真っ白になる。聞こえなければ良かった。聞こえないふりをすれば良かった。


 俺は立ち止まってしまった。真剣に向き合う事もせず、騙し続ける事もせず、中途半端に、何も言わずに俺は立ち止まったのだ。


 そんな自分に激しく嫌気がさして、乱雑な足音で保健室のドアを手にかけ外へ出た。紗恵が今どんな顔をしているのか分からないのに、何故か悲しんでいる表情しか浮かんで来なかった。


 紗恵が今どんな気持ちなのかと考えると胸が痛む。紗恵に今俺がどんな行いをしたのかと考えると罪悪感に苛まれる。しかし、紗恵の告白を聞いてしまえば、紗恵を信じて向き合うことができる気がしない。結局最後の最後まで紗恵のことを信用することができなかった。


 こんな失礼な終わらせ方で良かったのだろうか。もう一度戻って伝えるべきではないだろうか。頭の中でぐるぐると思考が空回りする。ドアから出てすぐに立ち尽く。


 夕陽に照らされた廊下は虚無感しか残してくれなかった。夕陽は感傷を呼ぶような暖かいものではなく、ただただ目がちかちかするだけのオレンジの線。


 俺は振り向き、手を保健室のドアにかけるが力なく落ちる。今戻っても、もう決まっている。俺は雪憐が好きで、紗恵のことは好きじゃない。


 俺の答えは決まっていて、紗恵を傷つけるのは明白だった。なにかを選択することはなにかを選択しないこと。選択は可能性を減らし後悔を増やす。


 しかし、だからといって選択しなかったことと向き合おうとしないのはとても不誠実なのではないか。ちゃんと向き合うべきなのだろうか。


 俺は…最後まであいつのこと信用できなくていいのか?最後まで俺を信じて、向き合って、最後の最後にちゃんと本当の気持ちを伝えてくれた人にする態度なのか?


 俺が手をもう一度かけようとした時だった。ドアが俺の手を触れずに動く。まるでそれは呪われた俺を救済しにきてくれたようで。開けたのは、俺が薬物と呼び最後まで信じることが出来なかった友達。


 松葉杖をついて、無理に笑う紗恵が目の前にいた。


「紗恵、休んでろよ。まだ痛いんだろ」


 紗恵が無言で首を横に振った。それが今までの紗恵とは違って異様で俺はひどく動揺する。


「夜彩のことだからきっとそんなことだと思った」


 紗恵が俯き気味に松葉杖に重心をかけるようにして…


 俺を押した。


 とても弱々しいものだったが、まるで魔法が込められているのか、よろけるように俺は後ろに一歩後退…いや、結果的に保健室のドアの前から踏み出せずにいた一歩を踏み出した。


「夜彩はちゃんと選択したんだよ」


 紗恵の声は押したときのように弱々しく、自分で決めた選択が信じられない俺を心から哀れむようだ。


「じゃあね、夜彩」


 紗恵の声は呪いのようで衰弱し切った病人のようで吐き捨てるようにそういうとドアを閉めようとする。


「紗恵!」


 俺がなんとかドアを手で止めた。考えではなく直感で動いたこの行動がせめて事態を悪化させないことを俺は信じた。


「最後まで信じてやれなくて悪かった」


 俺は罪を犯したことを後悔するように、もうどうしようもないこの状態をただただ悔やんだ。


「いいんだよ。それが夜彩の選択なんだから」


 紗恵は静かに独り言のように呟いた。それはもうなにかを諦めたようで見て、こちらの心が締め付けられる。


 その姿を見て俺はただただちゃんと信じて向き合えば良かったと、後悔する。俺が力なくドアの手を落とした。


「私は夜彩を信じてたよ」


 紗恵がドアを閉めた。


 それは1年半の紗恵との関係の終焉で、雪憐以来の唯一の友達を失ったことだ。


 残ったのはより増えた虚無感と徒労感である。1年半の歳月が嘘のように、関係性がそもそも存在していないのかと思うほど何も残らない。


 寝た紗恵を1時間待てたくせに、結局大切な一瞬はろくに向き合えない。紗恵を信じられなかった。最後まで紗恵を信じることが怖かった。紗恵が俺を信じてくれていたことさえも俺は信じられなかった。


 紗恵を信じなかったくせに紗恵といるのが楽で、ずっとずっと紗恵に甘えていた。

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