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怪我と屋根裏部屋

 屋根裏部屋――母の残した物が無造作に置かれていた部屋が私の部屋です。

 侯爵はきちんとした部屋を与えてくださったのですが、どうも肩身が狭いと言うか……。当時のことを知る使用人が一切おらず――家令は別です――何も知らない使用人たちの無言の圧力と言いますか、中にはあからさまに嫌味を言う使用人もおりますから。

 とにかく、ここが一番心地良く落ち着くのです。


 妹が出て行ってから、再びゆっくり感傷に浸ろうと思ったのですが、中座されたせいかその気になれませんでした。なので、先ほどから荷物を纏めています。

 私自身は母の残した物以外にほとんど物を持っていないので、それらをイスマエルへ持っていくことになります。もちろん壊れたネックレスも。

 さて、衣装箱に衣装と宝飾品類を詰めてノートとペン、インク壺を詰めるともう荷物らしい荷物はなにもありません。


 あとは、母の書いたと思われる文書や手紙類です。

 衣装ケースの底に無造作に置いてあったのですが、誰にも荒らされた形跡はありませんでした。まぁ、毒婦の持ち物など恐ろしくて誰も触れられなかったのかもしれませんが。


 何が書いてあるのか想像するだに恐ろしく、未だに開けてすらいません。

 父侯爵の毒殺計画について書かれているのか、侯爵夫人追放について書かれているのか。何よりも、私の実の父親について書かれているのか、と思うと……。

 いずれにしろ、これも持っていかねばなりません。

 王国中に恋愛譚が広まっている今、さらに母のことを面白おかしく書きたてることの出来得る代物ですから。

 おかしなことに、母のことなど記憶にないのに、私には彼女を恨むことができません。虚像しか知らない彼女が実在の人物と認識することができないのです。それが幸いして、母のことでどれだけ罵られたり蔑まれても実感が湧かないのです。

 もしかして、彼女の手紙や文書を開けることができないのは、彼女の実像を知ることが恐ろしいせいかもしれません。


 さて、文書類はそれほど多くありませんから、しっかりと肌身離さずに持っていくのが良いでしょうね。


「ノエル」


 やはりノックもなしに入ってきたのはジュスタンです。妹が出て行ってから鍵を閉め忘れていたようです。本当に突然入って来たので、文書類を慌てて衣装箱へ押し込めました。

 いつになく上機嫌です――もちろん、私が相手でもジュスタンは優しい素振りを見せてくれますが。


「何か用? ジュスタン」


 いつもの感じで尋ねると、彼はあからさまに顔を顰めました。そればかりか、足音も荒く詰め寄ってきました。


「いやしい人間が僕の名前を気安く呼ぶんじゃない!」


 彼はそう怒鳴ったかと思うと、衣装箱を蹴りました。久し振りに見る彼の荒っぽい行動に、一瞬体が竦みました。そんな私を見て目を細めて笑う彼の姿は、それでも美しく見えます。


「怒鳴って悪かった」


「い、いえ……」


 今度は猫でも撫でるような柔らかい声で謝りました。その、ころころと変わる態度が恐ろしく感じられます。


「お前と結婚しなくて済んで嬉しくてつい、ね。ベルトラム侯爵もお人が悪い……ふふ。今回のことがなくともお前と僕を結婚させるつもりはなかった、とおっしゃっていたよ」


 彼が私に本音を告げるなどいつ振りでしょうか。彼はよほど嬉しいのでしょう、矢継ぎ早にそう言いました。

 初めて聞かされた侯爵の本音に愕然としつつ、心のどこかで納得してしまいました。

 ジュスタンとの婚約は口約束だけでしたし、いつになっても具体的な話が出てこなかったからです。でも、聞きたくありませんでした。


「そもそも、その怪我だって態となのだろう?」


 突然怪我のことを持ち出す彼に、私の思考が止まってしまい、「違う」という一言が言えません。


「薄汚い娼婦が使いそうな手だね……いや、お前みたいに美しくも可愛くもない女は娼婦にすらなれないか。娼婦以下だね」


 彼は優しい声で私を罵りながら嬉しそうに笑っています。私に向って心からの笑みを向けるなど初めてです。思わず見惚れてしまいました。


「……反論もしないんだね。いや、できないのか」


 それにしても、彼の独壇場はまだ続くのでしょうか。

 いえ、終わったようです。彼は満足そうな顔で、入って来た時と同じように突然部屋から出て行きました。

 あんまりな言い種と、彼の美しい微笑みに私はしばらく呆然としていました。


 態とであのような痛い思いなどするものですか。私がまだ六歳の頃、彼が私を突き飛ばしたのです。そのとき運悪く、そこにあった熊手で手から肘に掛けて怪我を負ったのです。キャンデロロ侯爵家がその謝罪とお詫びに私と彼を婚約させたのです。

 それを教訓にしたのか、彼はそれから私にも表面上は紳士的な態度を貫くようになったのです。


 それにしても、あんまりです。

 当時のことは今でもはっきり覚えています。あのとき屋根裏部屋という安息の場を発見しておりませんでした。かと言って屋敷の中にいたくなかったので、裏庭でじっと身を潜めて過ごすのが常になっておりました。

 ある日、それをたまたま見掛けた若いメイドが、薄笑いを浮かべながら近付いてきてこう言いました。


『前の奥様にそっくりね。こうして裏庭から男を引き入れて、馬小屋で汚らしい男と逢引してらしたんでしょう? やはり娼婦の娘は娼婦なのね。ああ、嫌だわ』


 当時の私には「娼婦」が何かなど分かりませんでしたが、一言一句覚えております。普段から使用人たちは私に冷たかったのですが、こうもはっきりと言われたことはありませんでした。

 妹に対する「お母様ジョゼットにそっくりね」という言葉が褒め言葉なのに、私に対する「母にそっくり」という言葉は貶める言葉であることを知り、無性に悲しくなりました。

 泣きたかったのですが、その場で泣くのも悔しくて馬小屋へ向かったのです。見たことのない母が「逢引」とやらをしていた馬小屋へ。そこへ行けば、母の何かが残されているかもしれない。母が他人に罵られるような人間ではない証拠を見付けられるかもしれない。

 いえ、ただ母の面影を追いたかっただけかもしれません。

 ですが、そこにそのような物など残っているはずもなく、とうとう私は泣き始めてしまいました。

 どれだけ泣いていたのか、しばらくすると「どうして泣いているんだい」という優しい声が聞こえました。

 あまりの優しい声に振り向くと、ジュスタンが小屋の入り口に立っていました。それは心から心配してくれている声で、私は何ともいない気持ちで涙を堪えてじっとジュスタンを見つめました。あれほど優しい声を掛けて貰ったのは初めてでした。しかも、いつもは意地悪ばかり言うジュスタンが、です。

 しばらくひっそりと立っていた私に焦れたのか、彼は近付いてきました。私は悲しい気持ちが霧散して彼に、なんでもないことと心配してくれたお礼を言おうと思って口を開こうとしたのです。

 ところが彼は近付いてきて私を見るなり怒り出したのです。


『泣いているからマリーかと思った、僕を騙したんだな!』


 一瞬なぜ彼が怒りだしたのか分かりませんでしたが、私と妹と勘違いをしたことにすぐに気付きました。私と妹は金髪で髪の長さも背丈も同じくらいでしたから、薄暗い馬小屋で彼が間違えってしまったのでしょう。

 すぐに彼に謝ろうと思いましたが、一歩近付いた私に彼は更に怒鳴りました。


『そうやって、泣いて人の気を引こうとするなんて! 寄るな! 汚らわしい「娼婦」が!』


 そうして、彼は闇雲に私を突き飛ばして出て行ったのです。そこに熊手があったのですよ。それから先はうろ覚えです。

 とにかく熱くて痛くて、しばらく我慢していましたがとうとう気を失ったのです。

 気が付くと寝室のベッドの上で、数日痛みと熱で魘されていたようです。左腕には丁寧に包帯が巻かれていました。医者の話ではあまりに熱がひどく、生死の境をさまよっていたらしいです。屋敷中が私が死ぬのを待ち構えていたようでしたが、私は死にませんでした。

 本格的に気が付くと、神妙な顔をしたジュスタンと彼の父キャンデロロ侯爵が見舞いにやってきてくださいました。キャンデロロ侯爵は非常に真面目な方で息子がしでかしたことを詫び、婚約の運びとなったのでした。

 そしてそれ以来、私は人目があろうとなかろうと決して泣かないことを誓ったのです。


 すっかり元気になると、家令の年老いた父が私に屋根裏の鍵を寄越しました。決して親切心からではありません。外をうろつかれてまた怪我をされても困るし、屋敷内で使用人たちの気持ちを逆なでされても困るから、という理由です。私にそんなつもりは一切なのですけれど、屋根裏へ入ると衣装箱が置いてあり母の物が手つかずで放置されておりました。

 怪我をしても悪いことばかりではなかったのです。ジュスタンからも優しい言葉を掛けて貰えましたし。彼の優しい声が、妹に向けられたものでも私には忘れることができません。

 ですが、もう十分でしょうか。


 因みに左手は普通に動きます。さすがに長時間物を握ることができませんし、冷えると指の動きが悪くなりますが不自由はしてません。




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