ゴロワーズを吸ったことがあるかい
翌朝は、少し早く目が覚めた。
窓の外はまだ薄い灰色で、夜の名残が部屋の隅にとどまっている。
布団から起き上がると、畳の冷たさが足の裏に触れた。
台所で湯を沸かし、コーヒーを淹れる。
パンをオーブンに入れて、焼けるまでの短い時間をぼんやりと過ごす。
コーヒーカップの湯気の向こうに、部屋の隅で丸くなった猫の、灰色の背中が見えている。
朝の光で見るその背中は、なんだか少し頼りなげに見えた。
ふと思いついて、小皿に牛乳を少し入れると、猫の前にそっと置いてみる。
猫は一瞬だけ僕を見たが、すぐに視線を皿へ移し、牛乳を舐めはじめた。
その素直さが、少し意外だった。
牛乳を舐める音が、静かな朝の空気に溶けていくのを聞きながら、トーストをかじる。
一緒に朝食をとるなんて、考えたこともなかったなと思う。
しばらくの間、ぼんやりと、灰色の背中を眺めていた。
予備校へ行く時間になり、硝子戸を開けたが、猫は出ていく様子はなかった。
朝日の当たり始めた部屋の隅で、丸くなっている。
どうせ盗られるものもないので、戸を少し開けたままにして出かけることにした。
授業を終えて帰宅すると、猫はもういなかった。
空になって乾いた小皿だけが転がっていた。
夜になっても、翌日になっても猫は現れなかった。
それまでも毎日来ていたわけではないので、しばらくの間は、別に気にしなかった。
しかし、夏が過ぎ、秋になっても、猫は現れなかった。
風が少しずつ冷たくなり、庭の草の色が変わっていく。
ある日、庭掃除をしている大家のおばさんに声をかけた。
「猫、見なくなりましたね」
おばさんは帚を止めて、少しだけ考えるような顔をした。
「そうね。前はあなたのところによく来ていたものね」
しばらく猫の話をした。
あの猫は、僕がここに住むようになる何年も前から、この辺りによく来ていたらしい。
以前は、時々ひどい怪我をして現れることもあったという。でも、治療もさせてくれなかったし、餌をあげても食べなかったという。
それを聞きながら思う。
やっぱり、あいつは、あの写真の狼なのかもしれない。
群れを捨てて、誰にも媚びず、雪の上を一人で歩いていく。
耳のかぎ裂きも、顔の傷も、全てを黙って飲み込んで、縁側で一人で日向ぼっこをしている。
最後に、おばさんが言った。
「もしかしたら死んじゃったのかもね。結構いい歳だったはずだし。
猫って、死ぬときはいなくなるっていうでしょ」
僕だって、それを考えなかったわけではない。
あの夜、部屋の隅で丸くなった猫は、最後のあいさつに来たのかもしれない。そんな気がしていた。
その日、はじめて煙草を買った。
煙草なんて吸ったことがないから、銘柄も知らない。
タバコ屋のカウンターの前でしばらく迷っていると、「ゴロワーズ」という名前が目に入った。
古い歌で聞いたことがある名前だった。
それで、青いパッケージのその煙草を買った。
夜になって、縁側に座って煙草を取り出す。
肌に触れる夜風には、もう秋の気配が深い。日々、冷たさを増していくようだ。
煙草をくわえて、軽く吸い込みながらライターの火を近づける。
肺の奥に、強烈な刺激が落ちてきた。
フィルターのない葉の味が、喉の壁をざらりと削るように通り抜ける。
身体が勝手に震え、激しくむせる。
咳が止まらなくなって、涙がにじんだ。
煙にむせながら、煙草を吸う。
見上げると、星が涙で滲んだようになっている。
煙草にむせたせいなのか、あの野良猫のための涙だったのかは、分からない。
縁側の板の上に落ちた灰が、夜風に吹かれて静かに散っていった。




