夜の底は柔らかな幻
一週間後、納車されたその足で、僕は海へ向かった。
もともと住んでいるところから海まで十キロほどだから、遠くへ来たわけではない。
それでも、自分でバイクを走らせてたどり着く海は、どこか特別だった。
砂浜の端にバイクを停めて、ヘルメットを外す。
海風を顔に浴びながら、波を眺めて、コンビニで買ってきた缶コーヒーを飲む。
それだけの、小さな旅だ。
昼間は予備校に通う。
夜は毎日のようにバイクで走る。
それが日課のようになった。遠出をするわけではない。
たいていは一、二時間走って、近くの海や峠へ行く。真夜中の海辺には大きな駐車場があって、たくさんのバイクが集まっていた。
駐車場では、パイロンを立てて大きな八の字がつくってある。何台ものバイクが膝を擦りながら走っている。
時には僕も一緒に走らせてもらうことがある。
知らない同士が一緒に走り、ミスをしたり転んだり、名前も知らない同士が助け合ったりもする。
昼間の僕なら、こんな輪の中に入れなかったかもしれない。
でも、ここでは、顔も名前も知らない相手も、一緒に走る仲間だった。
自然にそう思えたし、そのことが、一人で過ごすことが増えた僕にとって、いくらかの慰めになっていたのだと思う。
夜中にふと走り出して、山の上で朝日を見ることもある。
山の向こうから赤い光が滲んで、やがて雲の底を染めていく。
小諸で見たような青い朝焼けではないが、一晩中走ったあとに一人で見るその朝日は、やっぱり特別だった。
誰にも見せられないことが、少し残念だった。
ちゃんと予備校の授業が始まるまでには家に帰る。
台所で顔を洗って、パンをかじったら教室に向かう。
夜の闇の中を走りつづけることが、昼の机の前に座る僕を、かろうじて繋ぎ止めてくれている。
縁側の窓を閉めようとすると、猫が入ってきた。
いつもは夜にはどこかへ行くのに、珍しいなと思う。
相変わらず興味のなさそうな目で僕を見てから、部屋の隅で丸くなった。
「…今晩は」
そう言うと、かぎ裂きのある灰色の耳だけがピクピクと動いた。
夜が更けていく。
夜中のラジオでは、相変わらず、みゆきがはしゃいでいる。
「こんばんにゃー」緑色のランプの灯りだけが揺れる。
部屋に誰かがいるというのは、意外といいものだ。
それが例え一匹の野良猫でも、部屋はすこし暖かくなり、暗闇がすこし隅に追いやられる。
眠りの中に落ちていきながら、僕は、あの青い朝の情景を見ていた。




