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ライク・ア・ハリケーン前日譚 (ライク・ア・ハリケーンⅣ)  作者: ままま


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5/8

迷い道

夏が過ぎても、相変わらず勉強には身が入らなかった。

大学に行く意味も、行かない理由も見つからないまま、惰性で予備校へ通う。


夏休み明けのクラス分けテストで、一つ下のクラスへ落ちた。

進学校出身の仲間たちは順調に成績を伸ばし、上のクラスをキープしている。

僕は一人きりになったせいもあって、予備校の授業もさぼりがちになる。


まだまだ夏の勢いは衰えず、教室の窓から見える街路樹は、真夏の濃い緑色の葉を茂らせている。

だが、むせかえるような夏の緑の中に居て、僕は、どこか寒々しい。



ある晩、六畳の部屋が急に狭く感じられた。

深夜ラジオの声も、今日はなぜか遠い。

布団の上で天井を見つめていると、胸の奥がじわじわと冷えて、息苦しくてたまらなくなる。


息が出来なくなる前に、財布をポケットに突っ込んで外へ出た。

まだ夏の名残を残す空気は、夜になっても、蒸し暑く湿っている。


歩いて駅へ向かうと、一番安い切符を買い、来た列車にそのまま乗った。

目的地はない。

ただ、どこかへ行きたかった。


列車は東京方面へ向かった。

窓の外を街灯が流れていく。それを見ながら、僕はただ座っていた。


東京駅で降りると、人の流れに飲まれそうになった。巨大な空間の中で、自分がどこにいるのか分からなくなる。

しばらく迷ったあと、上野駅へ向かうことにした。


東京から山手線に数分乗っただけなのに、上野駅の空気はなぜか優しい。東京駅に比べて、まばらな人影と、そのせいで薄暗く感じる電灯のせいだろうか。

ここでも、適当に選んだホームから列車に乗った。


車掌が検札に来なければ、行けるところまで行こうと思っていた。検札に来たら、何食わぬ顔をして乗り越しの切符を買って、次の駅で降りればいい。

そんなつもりだった。


高崎駅で終点になり、さらに乗り換えた。結局、検札は来なかった。

夜中の列車は寝ている人が多い。車掌は、疲れて寝ている乗客を起こしてまで、検札をする気はなかったのかもしれない。


真っ暗な山を越えると、軽井沢の駅に着いた。

やがて軽井沢の駅を出発すると、窓の外はまた真っ暗になる。深い闇の中に、時々、民家の灯りらしきものが浮かんで見える。闇の中を潜るように列車は走り続けた。


やがて、小諸という小さな駅に着いた。

時刻は夜中の3時を過ぎている。

空はまだ暗い。


列車を降りる。同じ列車から降りた数人の人たちが改札から出ていくと、ホームには人影が無くなった。駅員さんの姿も見えない。


少し迷ってから、ホームの端へ向かう。

ホームの一番端、係員室からも遠く、暗がりになった箇所から、そっと線路へ降りた。

線路わきの柵を乗り越えて外へ出る。

誰も見とがめる者はいなかった。


誰もいない街を、あてもなく歩いて行く。

何故こんなことをしているのか、本当に分からなかった。

ただ、僕は歩くしかなかった。


やがて、懐古園と書かれた、立派な門にたどり着いた。

太い木材でできた、お城の入り口の様な門は、開けたままだ。扉が重すぎて閉められないのかもしれない。

暗い公園の中を歩く。

足音だけが、砂利の上にかすかに響く。

石垣の脇を歩いていることに気づき、ここが本当に城跡だと知った。


暗闇の中を彷徨っていると、いくつもの句碑があることに気づいた。

月明かりが届かない樹の下にある碑は、何が書いてあるか分からなかったが、若山牧水や、高浜虚子の句碑は何とか読めた。

室生犀星や有島武郎の碑があるのを見て、軽井沢の駅が近かったことを思い出した。


ひと際大きな石碑があった。

近づいて見てみると、島崎藤村の句碑だった。

月明かりで辛うじて読める。


「千曲川旅情のうた」と書いてある。


緑なす はこべは 萌えず

若草も 藉くに よしなし

しろがねの 衾の岡辺

日に溶けて 淡雪流る


藤村が見た春は、温かさよりも、侘しさの方が濃かったのだろうか。


あたゝかき光はあれど

野に満つる香も知らず


僕もまた、春を知らない。そしてまた、夏の光にも置いて行かれそうになっている。

藤村の、侘しさが、胸の奥の寒さと重なるような気がして、息苦しくなる。



展望台と案内板の出ている方へ向かう。

足元に気を付けて数段の階段を上ると、四阿があった。ここが展望台なのだろうが、真っ暗であたりは何も見えない。

ただ、どこからか川の音だけが聞こえる。

千曲川だろうか。夜の底を流れるように、静かな音だ。



四阿のベンチに座り、ぼんやりしていると、やがて、空の端がわずかに明るくなっていることに気づいた。

見ていると、空は薄く紫がかり始める。日が昇るにつれて、紫から、ゆっくりと蒼へ変わっていく。


山の影が見えるようになって、やっと気づく。

山に囲まれているここでは、朝日は赤くならない。薄い紫から蒼へ、そして碧へと変わっていく。やがて青になって夜が明ける。


それは不思議な光景だった。

この街に住んでいる人にとっては、ごく当たり前の朝に違いないが、僕にとっては、信じられないほど、静謐で美しかったのだ。


あたりが明るくなってくると、ここが千曲川を見下ろす展望台だと分かった。

遠くの川面が、朝の光を受けて静かに揺れている。

川の音だと思っていたのは、はるか下を流れ落ちるダムの水音だったことを知った。



ふと我に返る。

帰ろうと思った。

理由は分からない。

ただ、何か、気が済んだような気持ちになっていた。



小諸の駅へ行くと、駅前のロータリーに小さな喫茶店があった。

始発列車に乗る人のためなのだろうか、朝日も上りきらないうちから店を開けている。

まだお客さんのいない店へ入って、モーニングを頼んだ。

マスターは、見慣れない客に一瞬不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。


コーヒーカップを手に取り、一口飲む。

その熱さが、ゆっくりと身体に染みていくのを感じていた。



最低運賃で小諸から乗車する。

財布の中身が少ないので心配していたが、今回も車掌は検札に来なかった。


山手線の駅を適当に歩くと、切符が落ちていることを知っている。

一番多いのは神保町か秋葉原の駅だ。誰かがキセルをして、要らなくなった切符を捨てていく。

千葉方面の駅の切符を見つけて拾った。代わりに小諸から乗った切符を落としておく。

誰かがこれを使って、小諸の方へ行ったら面白いなと思う。



部屋に帰ると、まだ午前中だった。

布団の上に座り、しばらく天井を見つめた。


そして、思った。

―午後の授業に出よう。


理由はない。

でも、行ける気がした。


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