迷い道
夏が過ぎても、相変わらず勉強には身が入らなかった。
大学に行く意味も、行かない理由も見つからないまま、惰性で予備校へ通う。
夏休み明けのクラス分けテストで、一つ下のクラスへ落ちた。
進学校出身の仲間たちは順調に成績を伸ばし、上のクラスをキープしている。
僕は一人きりになったせいもあって、予備校の授業もさぼりがちになる。
まだまだ夏の勢いは衰えず、教室の窓から見える街路樹は、真夏の濃い緑色の葉を茂らせている。
だが、むせかえるような夏の緑の中に居て、僕は、どこか寒々しい。
ある晩、六畳の部屋が急に狭く感じられた。
深夜ラジオの声も、今日はなぜか遠い。
布団の上で天井を見つめていると、胸の奥がじわじわと冷えて、息苦しくてたまらなくなる。
息が出来なくなる前に、財布をポケットに突っ込んで外へ出た。
まだ夏の名残を残す空気は、夜になっても、蒸し暑く湿っている。
歩いて駅へ向かうと、一番安い切符を買い、来た列車にそのまま乗った。
目的地はない。
ただ、どこかへ行きたかった。
列車は東京方面へ向かった。
窓の外を街灯が流れていく。それを見ながら、僕はただ座っていた。
東京駅で降りると、人の流れに飲まれそうになった。巨大な空間の中で、自分がどこにいるのか分からなくなる。
しばらく迷ったあと、上野駅へ向かうことにした。
東京から山手線に数分乗っただけなのに、上野駅の空気はなぜか優しい。東京駅に比べて、まばらな人影と、そのせいで薄暗く感じる電灯のせいだろうか。
ここでも、適当に選んだホームから列車に乗った。
車掌が検札に来なければ、行けるところまで行こうと思っていた。検札に来たら、何食わぬ顔をして乗り越しの切符を買って、次の駅で降りればいい。
そんなつもりだった。
高崎駅で終点になり、さらに乗り換えた。結局、検札は来なかった。
夜中の列車は寝ている人が多い。車掌は、疲れて寝ている乗客を起こしてまで、検札をする気はなかったのかもしれない。
真っ暗な山を越えると、軽井沢の駅に着いた。
やがて軽井沢の駅を出発すると、窓の外はまた真っ暗になる。深い闇の中に、時々、民家の灯りらしきものが浮かんで見える。闇の中を潜るように列車は走り続けた。
やがて、小諸という小さな駅に着いた。
時刻は夜中の3時を過ぎている。
空はまだ暗い。
列車を降りる。同じ列車から降りた数人の人たちが改札から出ていくと、ホームには人影が無くなった。駅員さんの姿も見えない。
少し迷ってから、ホームの端へ向かう。
ホームの一番端、係員室からも遠く、暗がりになった箇所から、そっと線路へ降りた。
線路わきの柵を乗り越えて外へ出る。
誰も見とがめる者はいなかった。
誰もいない街を、あてもなく歩いて行く。
何故こんなことをしているのか、本当に分からなかった。
ただ、僕は歩くしかなかった。
やがて、懐古園と書かれた、立派な門にたどり着いた。
太い木材でできた、お城の入り口の様な門は、開けたままだ。扉が重すぎて閉められないのかもしれない。
暗い公園の中を歩く。
足音だけが、砂利の上にかすかに響く。
石垣の脇を歩いていることに気づき、ここが本当に城跡だと知った。
暗闇の中を彷徨っていると、いくつもの句碑があることに気づいた。
月明かりが届かない樹の下にある碑は、何が書いてあるか分からなかったが、若山牧水や、高浜虚子の句碑は何とか読めた。
室生犀星や有島武郎の碑があるのを見て、軽井沢の駅が近かったことを思い出した。
ひと際大きな石碑があった。
近づいて見てみると、島崎藤村の句碑だった。
月明かりで辛うじて読める。
「千曲川旅情のうた」と書いてある。
緑なす はこべは 萌えず
若草も 藉くに よしなし
しろがねの 衾の岡辺
日に溶けて 淡雪流る
藤村が見た春は、温かさよりも、侘しさの方が濃かったのだろうか。
あたゝかき光はあれど
野に満つる香も知らず
僕もまた、春を知らない。そしてまた、夏の光にも置いて行かれそうになっている。
藤村の、侘しさが、胸の奥の寒さと重なるような気がして、息苦しくなる。
展望台と案内板の出ている方へ向かう。
足元に気を付けて数段の階段を上ると、四阿があった。ここが展望台なのだろうが、真っ暗であたりは何も見えない。
ただ、どこからか川の音だけが聞こえる。
千曲川だろうか。夜の底を流れるように、静かな音だ。
四阿のベンチに座り、ぼんやりしていると、やがて、空の端がわずかに明るくなっていることに気づいた。
見ていると、空は薄く紫がかり始める。日が昇るにつれて、紫から、ゆっくりと蒼へ変わっていく。
山の影が見えるようになって、やっと気づく。
山に囲まれているここでは、朝日は赤くならない。薄い紫から蒼へ、そして碧へと変わっていく。やがて青になって夜が明ける。
それは不思議な光景だった。
この街に住んでいる人にとっては、ごく当たり前の朝に違いないが、僕にとっては、信じられないほど、静謐で美しかったのだ。
あたりが明るくなってくると、ここが千曲川を見下ろす展望台だと分かった。
遠くの川面が、朝の光を受けて静かに揺れている。
川の音だと思っていたのは、はるか下を流れ落ちるダムの水音だったことを知った。
ふと我に返る。
帰ろうと思った。
理由は分からない。
ただ、何か、気が済んだような気持ちになっていた。
小諸の駅へ行くと、駅前のロータリーに小さな喫茶店があった。
始発列車に乗る人のためなのだろうか、朝日も上りきらないうちから店を開けている。
まだお客さんのいない店へ入って、モーニングを頼んだ。
マスターは、見慣れない客に一瞬不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。
コーヒーカップを手に取り、一口飲む。
その熱さが、ゆっくりと身体に染みていくのを感じていた。
最低運賃で小諸から乗車する。
財布の中身が少ないので心配していたが、今回も車掌は検札に来なかった。
山手線の駅を適当に歩くと、切符が落ちていることを知っている。
一番多いのは神保町か秋葉原の駅だ。誰かがキセルをして、要らなくなった切符を捨てていく。
千葉方面の駅の切符を見つけて拾った。代わりに小諸から乗った切符を落としておく。
誰かがこれを使って、小諸の方へ行ったら面白いなと思う。
部屋に帰ると、まだ午前中だった。
布団の上に座り、しばらく天井を見つめた。
そして、思った。
―午後の授業に出よう。
理由はない。
でも、行ける気がした。




