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【神域の試練と魔王の残影】

【神域の試練と魔王の残影】


絶対の禁忌と静寂の誓い


「――本日は、ここまで」


風間楓のその冷徹な一言が、道場内の極限まで張り詰め、ねじ切れる寸前だった十人の意識を、現実の世界へと引き戻した。


ザァァァ……ッ。


道場の床板に沈み込んでいた黄金の残光が、まるで潮が引くように楓の身体へと吸い込まれ、霧散していく。それと同時に、合気武道部の十人の口から、堰を切ったような荒い息が一斉に漏れ出した。


「ハァ……、ハァ……、ハァ……ッ」


ドサリ、と大文字鉄平がその巨体を畳に沈め、肩を激しく上下させた。

筋トレと合気武道で鍛え上げられた、鋼を思わせる肉体すらも、乳酸と魔力の過剰なオーバードライブによって小刻みに震えている。

純白だったはずの彼の白装束は、すでに滝のような汗で完全に肌へと張り付き、その限界の凄惨さを無言で物語っていた。それは主将の門蒼真も、アタッカーである阿部凛花も同様だった。

指先の一ミリ、足の運びの数センチのズレすら許されない神楽の型は、彼らのスタミナを底の知れない深淵へと削り落としていたのだ。


楓は道着の乱れ一つない完璧な姿勢のまま、床に伏し、あるいは虫の息となっている後輩や先輩たちを絶対零度の瞳で見下ろした。

その冷たい視線が空間の重力を再び数倍に跳ね上げたかのような錯覚の中、彼女は淡々と宣告を続ける。


「今後、この氷川神社の隠し道場は、あなた達に解放します。……私がここにいても、いなくても、許可コードは土御門副社長を通してシステムに同期させてあるわ。自由に立ち入り、使用しなさい」


その言葉に、門はかろうじて上体を起こし、汗に濡れた前髪の隙間から楓を見上げた。

主将として、道場の解放自体はありがたい措置のようにも思えた。しかし、楓の次の言葉が、その僅かな安堵を木っ端微塵に粉砕した。


「ただし――この『舞』に関しては、この道場以外での稽古は、いかなる理由があろうとも一切禁止です」


ピクッ、と南原紗良の眼鏡の奥の瞳が、驚愕と緊迫に揺れた。


「……学校の格技場はもちろん、スノーの本社地下訓練場、あなた達の自宅、あるいは、誰一人として見ていないであろう完全な個室や防音室であっても、絶対に、みだりにこの舞を踊ることは許しません。これは絶対の禁忌よ」


道場内の空気が、物理的に凍りついたかのように冷たく張り詰めていく。

誰もいない個室すら禁止。それは、あまりにも理不尽で過酷な縛りに思えた。

だが、彼らはすでに教えられている。この舞が、裏社会を牛耳るトップクラン【TIA】、その根幹たる風間家が神話の時代から秘匿し続けてきた「絶対の秘術」であることを。


「あなた達の安全のためよ。……意味は、分かるわね?」


楓の低い声には、明確な「殺意」の雛形が宿っていた。

風間家の秘術を、防護結界の及ばない外の世界で展開すれば、その高密度で特異な光の波長は周囲の霊脈を激しく揺るがす。そうなれば、流出を察知した風間家本家、あるいはその影として暗躍する『風魔裏隠衆』の暗殺者たちが、容赦なく彼らを「技術流出者」とみなして即座に首を刈りに来る。


この場所の限定は、生き残るための最大限の「配慮」であり、「防壁」だった。


「……っ」


南原紗良は、恐怖で引きつりそうになる喉を無理やり鳴らし、確実に頷いた。門も、阿部も、桐生蓮も、蒼白になりながら無言で同意を示した。

殺されないため、この理不尽な禁忌を完璧に遵守するしかないのだ。


「もし、ここ以外の場所で稽古をしたければ――舞は、あなた達の『心の中』で舞いなさい」


精神の深淵におけるシミュレーション、イメージの完璧な固定。肉体を動かさずとも、脳内だけで光の魔力の循環を構築する高度な内観を、彼女は求めていた。


「また、明日以降、無理に毎日ここへ通う必要はありません。スノーでの芸能活動や個人的な事情を最優先しなさい。……何か質問は?」


誰も声を発することは出来なかった。

生存への細い綱渡りの重圧と、楓自身が放つ圧倒的な威容の前に、彼らの思考は完全に飽和していたのだ。


「……ないようね。解散。速やかに着替えて戻りなさい」


その一言だけを残し、彼女は音もなく襖の向こうへと去っていった。


【修羅の溜息と魔人の兆候】


バタン……。


社務所の裏手へと続く重厚な扉が閉まり、合気武道部の十人の足音が完全に遠のいた。

広大な隠し道場には、外界の喧騒から隔絶された完全な静寂だけが戻っていた。


「……はぁ」


道場の中央にただ一人残された風間楓は、張り詰めさせていた背筋の緊張を緩め、深く溜息を吐き出した。

サングラスを直すような仕草を見せるその端正な横顔には、尋常ならざる精神的疲労の色がありありと滲み出ていた。


「……本当に、馬鹿げた真似をしているわ、私は」


本来、この秘術を一般の生徒や新米タレントたちに教えるつもりなど、彼女には毛頭なかった。ゴールデンウィークの合宿での禊だけで、一年生たちが軽微な悪魔に対抗し、正気を保つための防壁としては十分すぎるはずだったのだ。


だが、問題は一年生ではない。

楓の瞳の奥に、不穏な光が宿る。彼女が見据えているのは、あの二年生五人の存在だった。


門蒼真、佐藤陽翔、阿部凛花、高橋玲央、南原紗良。

彼らは一年前、伝説の魔王・恋問持子(こいといもちこ)から、その魂の根幹に直接『極黒の魔力』を分け与えられた、特異すぎる「器」なのだ。


もし今後、凄惨な実戦任務や怪異たちの瘴気に当てられ続ければ、彼らの内なる「闇」の出力が「光」の均衡を塗り潰し、暴走を始めてしまうかもしれない。待っているのは、人間としての精神の死。そして『魔人』への堕落である。


「……立花社長も、本多鮎さんも、それが分かっているからこそ、私にあの子達を押し付けたのね」


二年生たちが魔人へと堕ちる最悪の未来を防ぐため、風間家の純粋な光の秘術によって魂の均衡を保たせる。その意図は痛いほど理解できたからこそ、彼女はその要求を拒絶することが出来なかったのだ。


【押し付けられた遺産と恨み節】


「だからと言って……私だって、暇ではないのよ」


楓は床に座り込み、道着の膝を不機嫌そうに指先で叩いた。

視線を上げると、さきほどまで部員たちが滝のような汗を流しながら舞の型を反復していた痕跡が、床板のあちこちに染み付いているのが見えた。筋肉を軋ませ、歯を食いしばりながらも、誰一人として弱音を吐かずに光の循環に食らいついていた彼らの姿が脳裏に蘇る。


TIAの特級エージェントとしての彼女の日常は、常に破綻寸前の超過密スケジュールによって支配されている。東京ダンジョン深層の調査、違法結社の摘発、他クランとの泥臭い政治的交渉。

一般科の三年生――まだ十七歳の少女として学園に籍を置きながら、その裏では分刻みで裏社会の荒事をこなし続けているのだ。そこへ、合気武道部の個別指導という途方もなく手のかかる任務が追加された。


祖父の風間助平や風魔裏隠衆の暗殺者たちも、日本の霊的防衛の最前線で血を流し続けており、手が回らない。結局、学園で彼らに最も近い場所にいる楓が、この面倒な泥を被るしかなかった。


「……持子お姉さん」


暗がりの道場で、かつて自分が心から慕い、そして激しいコンプレックスを抱き続けていた魔王の名前が漏れ出た。


「丸ごと、私に面倒ごとを押し付けるのはやめて下さい……。あの子達の魂にそれほど強力な闇を植え付けたのなら、最後まで責任を持ってあなた自身が面倒を見れば良かったでしょうに」


頭を過るのは、「あとはよろしく、楓ちゃん♡」と笑って聞き流すであろう、あの傲慢で、けれどどこか寂しげな美しい笑顔。


「……まぁいいわ。今回は、立花社長と本多鮎さんに、途方もなく大きな『貸し』を作ったと考えましょう」


楓は立ち上がり、道着の埃をパッパと払った。後で、きっちりと色をつけて返してもらう。ビジネスライクな思考で自らの心を納得させようとするが、彼女の根底にある「彼らを守りたい」という情は、どうしても消し去ることは出来なかった。


【深淵の雛形――未知なる王への戦慄】


しかし――。

楓の思考が最後の一歩へと辿り着いた瞬間、彼女の身体の動きがピタリと停止した。


脳裏に浮かんだのは、二年生たちの魔人化のリスクではない。

本日、舞の稽古の最中に、最もその出力の制御に苦しみ、怯えていた一年生のトラブルメーカー――雨宮千歳の姿だった。


(『ひぃぃ、無理です、光が逃げますぅ……!』)


半泣きになりながら、不恰好に手足を動かしていた千歳。周りからは「いつものビビリだ」と苦笑されていた。

だが、楓の持つ『高位霊視』の眼は、そんな表面的な事象の奥にある真実を正確に見抜いていた。


今日の神懸かりの光の柱を顕現させた際、楓は見たのだ。千歳が必死に体内に留めようとしていた黄金の光の粒子を、彼女の背後でまるで「喰らい尽くす」かのように蠢いていた、底の知れない混沌の影を。


雨宮千歳は、「怯えることで怪異を無自覚に引き寄せている」のではない。

彼女自身の魂の奥底に、怪異たちの世界における『霊王』――至高の支配者としての圧倒的な資質が最初から眠っているのだ。


富士樹海で怪異たちが群がってきたのも、偶然ではない。怪異の側が、自らの世界の絶対的な『王』の気配を本能的に察知し、王に奉仕するために境界線を越えて殺到してきたに過ぎない。


「一歩間違えれば……あの子は」


誰もいない、静寂に支配された地下道場。

風間楓の身体が、微かに、しかしハッキリと震え始めた。


数々の凄惨な戦場を潜り抜け、侯爵級の悪魔を前にしても眉一つ動かさなかった『黒髪の修羅』が、たった一人の、自分より年下のビビリな同級生の可能性に対して、本能的な恐怖のあまり震えていたのだ。


もし彼女の力が最悪の形で暴走すれば、単なる空間の歪みでは収まらない。


「恋問持子すらも凌駕しうる……底知れぬ『魔王』の可能性を秘めている」


楓は、震える両手で自らの道着の胸元を強く締め付けた。

持子には、強大すぎる力を持ちながらも、その根底には仲間への愛や理性が存在していた。だが、雨宮千歳の中にあるのは、制御不能な『恐怖』という名のブラックホールだ。それが暴走した時、はたして人の心という微量な光で、その深淵を繋ぎ止めることが出来るのだろうか。


「……恐ろしいわ」


ぽつりと漏らしたその言葉は、冷たい地下の闇へと吸い込まれ、消えていった。


楓は、誰もいない道場の奥、千歳が先ほどまで座っていた畳の残影を、ただ戦慄の瞳で見つめ続けることしか出来なかった。新生・合気武道部が抱え込んでしまった、未知なる『深淵の雛形』。その本当の危険性を、今の彼らはまだ、誰一人として知る由もなかったのだ。

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