【神域の秘術と、継承の重圧】
【神域の秘術と、継承の重圧】
『――はいっ!!??』
氷川神社の地下深く、重厚な結界に守られた隠し道場。
十人の高校生たちが上げた理解不能な絶叫は、コンクリートと冷たい空気に吸い込まれ、やがて完全な静寂へと取って代わられた。
誰一人として、声を出すことができなかった。
いや、息をすることすら忘れていた。
TIA特級エージェントであり、この氷川神社の巫女である風間楓。
黒の道着に身を包んだ彼女から放たれる『気』が、先ほどまでの冷徹なプレッシャーから、明確な『殺気』と『神気』が入り混じる、次元の違う重圧へと変貌したからだ。
「……」
楓は、絶叫を上げた十人を咎めることもなく、ただ絶対零度の瞳で彼らを見下ろしていた。
その無言の数秒間が、彼らにとっては永遠にも等しい拷問だった。
S+級の緻密な魔力操作と知覚を持つ佐藤陽翔は、全身の毛穴が粟立つのを感じていた。己の視界に広がる霊的な波長が、楓を中心に空間そのものを歪ませているのがハッキリと視認できたのだ。
(空気が……重い、なんてもんじゃない。刃物を喉元に突きつけられているような、本物の死の気配だ……ッ)
究極のKYであり、いかなる緊迫した空気も筋肉で粉砕してきた大文字鉄平でさえ、今は微動だにせず、ただ脂汗を流して床を睨みつけている。
超絶美少女の皮を被った変態である桃井琉生の深海魚のような瞳からも、狂信的な百合の情念を燃やす神品蘭の眼差しからも、一切の煩悩と日常が消え失せていた。
全員が、本能で理解したのだ。
今、目の前に座しているのは、ただの先輩ではない。
日本神話における神の転生体であり、神話級の宝具を息をするように顕現させる、裏社会の頂点に立つ『修羅』なのだと。
張り詰めた沈黙の中、楓の静かな、しかし道場の隅々にまで届く声が響いた。
「巫女舞自体は、決して複雑なものではないわ」
その声には、一切の感情が乗っていなかった。
だからこそ、恐ろしかった。
「手足の運び、指先の角度、重心の移動。型そのものは、素人でも数日あれば形だけは真似できる。……ただし」
楓の瞳の奥で、黄金色の光が微かに揺らいだ。
「この舞には、『光の神術』の基本、そして奥義のすべてが秘められている」
『ピクッ』と、門蒼真と阿部凛花の肩が大きく跳ねた。
光の神術。
それは、彼ら新生・合気武道部が、ゴールデンウィークの地獄の強化合宿で、死に物狂いの滝行と実戦訓練の果てにようやくその入り口に立った、闇の魔力と対を成す絶対的な力。
「これは、風間家の秘術よ」
楓の言葉が、重い鉛のように十人の胃の腑に落ちる。
『風間家の秘術』。
その言葉が持つ政治的、そして呪術的な意味の重さを、論理的思考に長けた南原紗良と、他事務所の芸能界の裏事情に精通している桐生蓮は即座に理解し、顔面を蒼白にさせた。
国家規模の裏社会を牛耳るTIA、そのトップである風間家の根幹に関わる秘密を、外部の人間である自分たちに明かそうとしているのだ。
「いいこと。一度しか言わないから、魂に刻み込みなさい」
楓の言葉の温度が、さらに下がる。
道場の気温が急激に低下し、十人の吐く息が白く染まった。
「この舞に込められた理を、一言でも口外したり、みだりに他者に明かした場合――風間家本家、そして下部組織である『風魔裏隠衆』が、地の果てまで追って必ずあなたたちを殺しに行くわ」
『ゾワッ……!!』
富士樹海での凄惨な記憶が、十人の脳裏にフラッシュバックした。
圧倒的な準備と近代兵器、トラップ、そして音もなく命を刈り取る純粋な暗殺術。風間家に絶対の忠誠を誓うあの本物の暗殺者集団が、今度は訓練ではなく、純粋な『殺意』を持って自分たちを抹殺しに来る。
それは、脅しでも比喩でもない、冷酷な事実の提示だった。
「ひっ……」
雨宮千歳が、極度の恐怖から小さな悲鳴を漏らしそうになるが、隣に座る佐藤陽翔がその震える手を強く握りしめ、必死に声を押し殺させた。ここで泣き叫ぶことすら許されないほどの、異常な空間だった。
「ゴールデンウィークの合宿で、本多鮎さんが執り行った葉室家の秘術――あれは、強引に正中の光柱と魔力循環を構築させるための、言わば外法に近い劇薬だった。けれど、今回は違う」
楓は、微動だにしない十人を見据えながら、言葉を紡ぐ。
「手取り足取り教えたり、術式で強制的に理を刻み込むような甘い真似はしない。あなたたち自身で切磋琢磨し、その肉体と魂に、舞の理を完全に落とし込みなさい」
なぜ、そこまでして。
なぜ、殺される危険を冒してまで、風間家の秘術を自分たちが学ばなければならないのか。
その疑問に対する答えは、次に楓の口から発せられた言葉によって、十人の心を激しく殴りつけた。
「この秘術があったからこそ――あの魔王、恋問持子は『人の心』を持ち続けることができたのよ」
「……っ!!」
阿部凛花の目から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
高橋玲央も、完璧な美貌を歪ませて唇を強く噛み締める。
主将である門蒼真は、道着の膝を握りしめる拳から血が滲むほどに力を込めていた。
S〜S+級相当の『極黒の魔力』。
二年生たちが持子から受け継いだその力は、常人を遥かに超える身体能力と防御力をもたらすが、同時に、常に心を闇へと引きずり込もうとする呪いのような側面を持っていた。
彼らは、その闇の魔力のほんの『おこぼれ』を貰ったに過ぎない。
ならば、その源流であり、底なしの闇をたった一人で抱え込んでいた魔王・恋問持子は、どれほどの絶望と孤独の中で、自分を見失わないように戦い続けていたのか。
彼女が、ただの化け物ではなく、合気武道部の仲間を愛し、下僕たちに愛される『人間』であり続けられた理由。
それが、風間楓から与えられていた、この『光の秘術』だったのだ。
「各々、心して臨むように」
楓の最後の言葉が落ちた瞬間。
『バァァンッ!!』
凄まじい音を立てて、主将の門蒼真が、畳に額を激しく打ち付けた。
一切の躊躇いのない、完全なる平伏。
それに呼応するように、佐藤が、阿部が、高橋が、南原が。
そして、状況の重さを骨の髄まで理解した大文字、神品、桃井、桐生、雨宮の一年生五人も、門に続くように一斉に畳に額を擦り付けた。
十人の高校生が、一糸乱れぬ動きで、風間楓に対して深く、深く平伏し、畏まった。
(……俺たちは、完全に勘違いしていた)
佐藤陽翔は、畳の冷たい感触を額に感じながら、心の中で激しく自分を恥じた。
立花雪社長から宣告されたこの『白装束での指導』を、彼らはサバイバル全滅のペナルティ、理不尽な罰ゲームだとばかり思っていた。
だが、違った。
これは罰などではない。
スノーの社長である立花雪と、TIAの特級エージェントである風間楓が、結託して彼らに与えた『本物の継承』なのだ。
いつか必ず直面するであろう、強大すぎる魔力による精神の崩壊と、裏社会の凄惨な闇。それに呑み込まれず、自分たちの魂の形を保つための、唯一無二の命綱。
(これを受け取るということは……俺たちは本当の意味で、持子先輩が背負っていた世界に足を踏み入れるということだ)
門蒼真は、平伏したまま、静かに、しかし鋼のような決意を固めていた。
主将として、仲間を、そして愛する高橋玲央を守り抜く。そのためなら、風間家の暗殺者に命を狙われるリスクなど、安いものだ。
「……面を上げなさい」
楓の冷徹な声に従い、十人がゆっくりと上体を起こす。
その瞳には、先ほどまでの怯えや絶望は微塵もなかった。
あるのは、どんな地獄の苦しみであろうとも、必ずこの秘術を自分のものにするという、戦士としての凄絶な覚悟だけだった。
「姿勢を正して。まずは『立ち方』からよ」
楓が、ゆっくりと立ち上がる。
彼女がすり足で一歩前に出た瞬間、道場の空気が再び黄金色に揺らいだ。
ただ立っているだけ。ただ歩いているだけ。
それなのに、彼女の身体からは一切の隙が消え、魔力の波長が完璧な均衡を保ったまま、宇宙の理と一体化しているような錯覚を覚えさせた。
「足の裏全体で、地の脈を捉えなさい。丹田に闇を落とし、正中線に光を通す。……指先の一ミリのズレが、光を濁らせると思え」
楓の指導が始まった。
それは、言葉の通り、文字通りの『地獄』だった。
滝行のような物理的な冷たさはない。鮎やルージュが行ったような、無限に続く死にかけの戦闘訓練でもない。
ただ、正確に立つ。正確に腕を上げる。
たったそれだけの動作に、極限の集中力と、魔力の繊細なコントロールを要求されるのだ。
少しでも気が緩めば、体内を循環しようとする光の魔力が暴走し、激しい頭痛と吐き気が襲いかかってくる。
「大文字。力が入りすぎている。筋肉で光を抑え込もうとするな。流しなさい」
「押忍ッ……!!」
大文字が、滝のような汗を流しながら、全身を小刻みに震わせて型を直す。
「雨宮。境界を広げすぎよ。もっと自分の内側に光を留めなさい。外の世界に怯える暇があるなら、自分の魂の形に集中しなさい」
「ひゃいっ……! す、すみませんっ……!」
千歳が、涙目で唇を噛み締めながら、必死に自身のオーラを内側へと押し留める。
「佐藤。視野が広すぎるわ。今は周りを見る必要はない。自分の内の光と闇、その一点だけを見つめなさい」
「っ……はいッ!」
佐藤が、無意識に周囲の仲間をサポートしようとしてしまう遊撃手としての癖を殺し、ただひたすらに自身の内面へと深く潜っていく。
静寂に包まれた氷川神社の地下道場。
響くのは、十人の荒く、苦しげな呼吸音と、楓が畳をするりと滑る衣擦れの音だけ。
ギャグなど入り込む余地は一ミリもない。
あるのは、己の命と魂を削りながら、神の理に触れようとする若き能力者たちの、純粋で残酷なまでの真剣勝負。
魔王が遺した強大すぎる力と、それを制御するための慈愛の秘術。
新生・合気武道部の十人は、逃げ場のない圧倒的な静寂の中で、血を吐くような『切磋琢磨』の第一歩を、ついに踏み出したのであった。




