【白装束を持参してください】
【白装束を持参してください】
時刻は夜の十九時五十五分。
東京都内の一等地にある国内最大手の芸能事務所「スノー」。
その最上階付近に位置する重厚な防音扉に守られた豪奢な会議室に、私立聖ミカエル学園・新生合気武道部の十人が集結していた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……! し、死ぬかと思ったッス……!」
会議室のふかふかとした絨毯の上に、副主将の佐藤陽翔が四つん這いになって荒い息を吐いていた。
夕暮れのデパートで、男の娘である桃井琉生の「深海魚のような瞳」から全力で逃走し、道中の人混みをスラロームのようにすり抜け、ギリギリで本社ビルに駆け込んだのだ。
「佐藤先輩ぃ……♡ 逃げ足だけは速いんですからぁ……でも、同じ空間にいる限り、わたしの愛からは逃げられませんよぉ……?」
「ヒッ……!!?」
少し遅れて会議室に入ってきた桃井が、洗練された春らしい小花柄ブラウスという美しい格好とは裏腹に、粘着質なホラー声で佐藤の背中に纏わりつく。
「ち、近寄るなッス! ソーシャルディスタンスを保つッス!!」
「ちょっと琉生ちゃん、陽翔が本当に怖がってるからやめてあげて。……ほら、千歳ちゃんも、こっち座って」
そこへ、阿部凛花が神品蘭と雨宮千歳を連れて入ってきた。
千歳は、桃井と神品によってプロデュースされた「布面積が絶望的に少ない服」の上に、阿部から借りた大きめのカーディガンをすっぽりと羽織り、前を両手でギュッと押さえて小刻みに震えている。
「ひゃうぅぅ……わ、わたし、もうお家に帰って着替えたいですぅ……」
「千歳さん、素材を隠すのは罪ですわよ! 僕が完璧なコーディネートをしたんですから、自信を持ってください!」
神品が不満そうに言うが、阿部は「蘭ちゃん、今は社長への報告前だからね」と優しく窘めた。
その直後、阿部の視線が、這いつくばっている佐藤とぶつかった。
「あ」
「っ……う、うっス」
数時間前、デパートのパネルの裏で、そして夕暮れの歩道で見つめ合い、あわやというところまで唇が近づいた記憶がフラッシュバックする。
さらに、二人の間にダイレクト・テレポートしてきた千歳の柔らかい頬に、両側から誤爆キスをしてしまった感触まで蘇る。
「…………」
「…………」
一番の悪友であるはずの二人の間に、かつてないほど気まずく、甘く、そして変に意識してしまうバグのような沈黙が落ちた。
互いに目を逸らし、頬を微かに赤くして咳払いをする。
「押忍ッ!! 佐藤副主将、顔が赤いッスよ!! まさか知恵熱ッスか!?」
究極のKYである大文字鉄平が、道着姿のまま(彼は学校からそのまま道着で来ていた)大声を張り上げて二人の間の微妙な空気を粉砕した。
「ち、違うッスよ! 走ってきたから暑いだけッス!」
「フッ……まあ、青春の熱、というやつですかね。役者としては、なかなか見応えのある間でしたよ」
桐生蓮が、ブレザーのポケットに片手を突っ込み、キザな笑みを浮かべて茶化す。
「論理的に考えて、ただの発情期です。不潔ですね」
「ちょっ、紗良!? 人聞きの悪いこと言わないでほしいッス!」
極寒のシベリアのような冷たい視線を送る南原紗良の言葉に、佐藤が慌てて立ち上がる。
南原は台本から目を離さず、冷たく言い放ちながらも、その瞳の奥には微かに佐藤と阿部の距離感を気にするような複雑な色が混じっていた。
「……みんな、静かにしろ。もうすぐ時間だ」
主将の門蒼真が、腕を組んで低い声で告げた。彼の横には、完璧な姿勢で座る高橋玲央が控えている。
「玲央、報告の準備はいいか?」
「ええ、完璧ですわ、門くん。頭の中で三度シミュレーションを重ねましたの。どんな質問が来ても、美しく完璧に答えてみせますわ」
高橋が、門に向けてだけ見せる柔らかい微笑みで頷く。
ピピピッ。
時計の針が、二十時ちょうどを指した。
『カチャリ』
重厚な扉が開く音が、会議室の空気を一瞬で凍りつかせた。
現れたのは、小柄な体格にネイビーのパンツスーツをスタイリッシュに着こなした、知的で冷徹な大人の女性――芸能事務所「スノー」社長、立花雪。
その後ろには、銀髪ショートボブの美少年でありながら、雪の前では「完璧な従順な僕」と化す天才陰陽師、土御門朔夜が控えている。
雪がヒールを鳴らして上座へと歩み寄る。
彼女が放つ、千年を生きる修羅としての「本物の殺気」と「大陰陽師の圧力」が、室内の重力を数倍に跳ね上げた錯覚すら起こさせる。
十人の高校生たちは、無意識のうちに背筋をピンと伸ばし、息を呑んだ。
「……揃っているわね」
雪の静かな声が、響き渡る。
「週末の富士樹海サバイバル、そして未登録怨霊除霊ツアー……ご苦労様でした。無事に全員生還したこと、まずは評価します」
雪が軽く顎を引くと、十人はホッと胸を撫で下ろした。
「事の顛末と討伐の報告は、現地であなたたちを指揮花園美羽さんから既に受けています。ですが……現場で実際に血を流したあなたたちの口から、改めて報告をお願いするわ。責任者は誰?」
雪の視線が門を射抜く。
門は微動だにせず、「玲央」と短く、だが絶対の信頼を込めて横へ目配せをした。
高橋玲央が、音もなくスッと立ち上がる。
「はい、社長。僭越ながら、私からご報告させていただきますわ」
完璧主義の女優は、洗練されたお嬢様口調と、一切の淀みない論理的な構成で報告を始めた。
事前の罠の察知、三班に分かれての役割分担、インナースーツを失った一年生たちの光の神術によるカバー。
桐生の視覚による索敵、雨宮を囮にした防衛戦、そして、阿部の物理粉砕と佐藤の爆薬による「主(百眼怨樹)」の討伐。
さらに、その後に続いた風魔の暗殺者たちによる理不尽な近代兵器ゲリラ戦での敗北要因まで。
一言一句、無駄のない完璧なプレゼンテーション。
「……以上が、今回の作戦行動の全容と、浮き彫りになった私たちの課題ですわ」
「お見事です、高橋さん。事態の把握、戦術の展開、そして敗因の分析……どれを取っても完璧ね。女優としての演技力だけでなく、状況を俯瞰する能力も確実に育っているわね」
雪の口元が微かに緩み、称賛の言葉が送られる。
高橋は「もったいないお言葉ですわ」と優雅に一礼して着席した。
門が、誇らしげに彼女の肩をポンと叩く。
「さて」
雪が視線を全員に向け直す。
「今回の討伐依頼の成功、心から感謝するわ。風魔の不法投棄の尻拭いとはいえ、あなたたちが命懸けで東京の霊脈を守ったことに変わりはない。今回の討伐の依頼金は、スノーの規定に従い、あなたたち名義の『積立』に追加しておきます」
雪が指を鳴らすと、背後に控えていた土御門朔夜が一歩前に出た。
彼の手には、分厚い茶封筒が十人分握られている。
「また、これは会社からの『特別報酬』です。受け取りなさい」
朔夜が、流れるような動作で全員の目の前に茶封筒を置いていく。
佐藤が恐る恐るその封筒の中を覗き込むと――。
「さ、三十万……!?」
諭吉が三十枚、束になって入っていた。
高校生にとっては、目が飛び出るほどの途方もない大金である。
「「「「「さ、さんじゅうまん!?」」」」」
「押忍ッ!! 社長!! これでプロテインが何キロ買えるか計算しきれないッス!!」
「ええっ!? こ、こんな大金、わたし怖くて持ち歩けませんぅぅっ!」
「フッ……さすがはスノー。気前がいいですね。紗良、これで最高のディナーをご馳走させてくれないか?」
「論理的に考えて、あなたの奢りで食べる理由がありません。私は全額貯金します」
「ああっ、これでさらに持子様と同じ高級ブランドの香水が買えますわ……!」
突如として降って湧いた大金に、合気武道部の面々は歓喜の声を上げた。
阿部や神品、桃井たちも目を輝かせている。
「自由に使いなさい」
雪の静かな、しかし重みのある声が、歓喜の波をスッと鎮めた。
「ですが、一つだけ忠告しておくわ。**決してお金に使われるようなことがないように。**あなたたちが自分自身の頭で考え、価値のある使い方をしなさい」
雪の瞳の奥には、千年以上の時を生き、国家予算規模の資産を動かす怪物としての底知れぬ深淵が広がっていた。
「あなたたちが二十歳になった時、今言った『積立金』があなたたちの口座に解放されます。それは、今の三十万など比較にならない、莫大な金額になるわ。だからこそ、今からお金の使い方をしっかりと勉強しておきなさい。……いいわね?」
「「「はいっ!!」」」
全員が背筋を伸ばして返事をした。
とはいえ、高校生である彼らの内心は(お金に使われる?)(莫大な積立金って、いったいいくらッスか……?)と、雪の言葉の真意とスケールの大きさを、まだ完全には理解しきれていなかった。
「……では。報酬の話はここまで」
雪が、ゆっくりと腕を組んだ。
その瞬間、会議室の温度がさらに五度、急激に下がったように感じられた。
「罰ゲームの件です」
(((((忘れてて欲しかったーーーーーーッ!!!!!)))))
十人の心が見事にシンクロし、絶望の叫びを上げた。
サバイバル全滅の代償。生殺し状態にされていた罰ゲームがついに宣告される。
「全員、明日から放課後、学園での合気武道の稽古が終わってから**『氷川神社』**へ行きなさい」
雪の言葉に、二年生五人の顔色が一瞬にして蒼白になった。
「そ、そこで……何をするんスか、社長……?」
佐藤が、震える声で尋ねる。雪は無慈悲な笑みを浮かべて告げた。
「そこで、風間楓から指導を受けなさい」
「「「「「ヒィィィィィィッ!!!!?」」」」」
二年生たちの口から、悲鳴ともつかない絶叫が漏れた。
風間楓。
聖ミカエル学園の一般科三年生であり、氷川神社の巫女。
そして何より、裏社会のトップクラン「TIA」の『特級エージェント』。
黒スーツとサングラスに身を包み、神話級の宝具を息をするように振り回し、かつて学園を支配した伝説の魔王・恋問持子に瓜二つの絶世の美女。
彼ら二年生にとって、風間楓は「死神」であり、「恐怖の象徴」であり、絶対に逆らってはいけない圧倒的なプレデターだった。
「か、楓ちゃん……いや、特級エージェントの指導って……ッスか!? 俺たち、殺されるッスよ!?」
「無理無理無理! あの人の歩法(無足)とか、絶対に見えないし防げないわよ!」
「論理的に考えて、生存確率が極めて低いです……!」
佐藤、阿部、南原がパニックに陥る。
一方で、一年生たちは状況が飲み込めず、ポカンとしていた。
風間楓という存在の恐ろしさを、彼らはまだ「又聞き」でしか知らないからだ。
「大変なことが起きそうですね……。僕のマッスルスーツが、粉砕されなければいいですが」
桐生が冷や汗を流して前髪を弄る。
「ひゃうぅぅ……神社って、薄暗くて、絶対お化け出ますよねぇ……」
千歳がカーディガンを握りしめてガタガタと震える。
「先輩たちと一緒なら、どこでも天国ですよぉ♡」
桃井が相変わらずホラーな顔で佐藤を見つめる。
「お姉さま! 僕が必ず、お姉さまをあの女から守ってみせます!」
神品が阿部の腰に抱き着いて宣言する。
「押忍ッ!! 強えぇ人と稽古ができるなんて、武道家として最高に光栄ッス!!」
大文字鉄平だけが、一人満面の笑みで巨大な拳を突き上げていた。
「大文字……お前は本当に幸せな脳みそをしてるッスね……」
佐藤が遠い目で呟く。
雪は、絶望する二年生たちをよそに、淡々と説明を続けた。
「風間楓の指導を受け、彼女からの『認定状』を得た者は、その時点で罰ゲームから解放されます。つまり、クリア基準は彼女のさじ加減一つよ」
雪はぐるりと十人を見回した。
「ただし、スノーでの芸能活動や、ドラマの撮影、個人的な事情がある者は、スケジュールを優先しなさい。無理はしなくてよろしいわ。行ける範囲で通うこと。風間楓にも特級エージェントとしての任務や予定があるでしょうから、明日氷川神社に行ったら、彼女とよく打ち合わせをすることね。……何か質問は?」
「あ、あの! 雪社長!」
佐藤が、おずおずと手を挙げた。
「指導って……具体的に、何をするんでしょうか?」
「……さあ? それは彼女が決めることよ。行ったらわかります」
雪は冷たく切り捨てた後、「あ、そうそう」と何かを思い出したようにポンと手を打った。
「一つ忘れていました。明日神社に向かう際、ゴールデンウィークの合宿で本多鮎から支給された**『白装束』を各自持っていきなさい**」
(((((し、白装束……!!?)))))
その単語がもたらす意味は一つしかない。
「滝行」あるいは「禊」だ。
氷川神社の隠し道場にある、あの冷酷無比な氷点下の滝に打たれる記憶が蘇り、十人は一斉に身震いをした。
雪は十人の顔を見渡した後、門蒼真と大文字鉄平の、制服や道着の上からでも分かる分厚い大胸筋と極太の腕をジッと見つめた。
「……念の為に言っておくわ。門と大文字の二人は、白装束とは別に『ジャージ』も持っていきなさい」
「え? ジャージ……ですか?」
門が不思議そうに眉をひそめる。
「念のためです」
「「押忍っ……(はいっ……)」」
二人の筋肉ダルマは、図星を突かれたのか(あるいは過去に服を破いた前科があるのか)、少し恥ずかしそうに下を向いた。
「さて。他に質問は?」
雪が、再び会議室の温度を下げるような絶対的なオーラを放って問いかける。
「「「「「ありませんっ!!」」」」」
これ以上余計なことを聞いて、地獄のハードルが上がることを恐れた十人は、見事な声の揃い方で即答した。
「よろしい。では、本日はこれで解散。明日の放課後、健闘を祈っているわ」
雪が踵を返し、朔夜を従えて会議室を後にする。
重厚な扉が閉まり、完全に彼女の気配が消えた後――。
会議室には、明日の放課後から始まるであろう「特級エージェントによる白装束の地獄」を想像し、深い深い絶望の海に沈み込む十人の、重いため息だけが虚しく響き渡っていた。




