【夜明けの決断と、知性派の志願】
【夜明けの決断と、知性派の志願】
『ギィィ……、ルルルルル……』
結界の外から一晩中響き続けていた、特級怪異たちの悍ましい徘徊音。
雨宮千歳のA級『境界障壁』と南原紗良の『魔力偽装』の二重防壁は完璧に機能し、彼らは直接的な夜襲を受けることなく、なんとか最初の夜を凌ぎ切っていた。
しかし、一睡もできなかった一年生たちの疲労はピークに達している。分厚い樹冠に遮られた魔界の森には、朝が来ても薄暗い光しか差し込まない。
「……夜が明けたか。状況の整理と、班分けを行う」
主将の門蒼真が、焚き火の残骸の前に部員たちを集め、低く落ち着いた声で告げた。
「俺たちの目的は『生存』と『この森の主の討伐』だ。この二つを達成するため、現在地を拠点として部隊を三つに分ける。——まずは『斥候組』。佐藤と、阿部だ」
名前を呼ばれた二人が、真剣な表情で頷く。
佐藤陽翔は、部内で最も魔力操作に長け、足が速い。阿部凛花は、S級の極黒の魔力と抜群の身体能力を持つチーム最大の物理アタッカーだ。未知の領域を探索し、敵と遭遇しても確実に生還できる最速・最強のコンビである。
「次に『食料・水の確保組』。リーダーは南原。大文字、神品、桃井の三人は南原の指示に従い、拠点周辺で物資を集めろ」
「了解しました。私の計算に基づき、最も安全かつ効率的なルートで調達を行います」
紗良が眼鏡を押し上げて冷静に答える。
「残る俺と高橋、桐生、雨宮の4人は『待機・防衛組』として、この拠点の結界維持と設営強化にあたる。……以上だ」
門の簡潔な指示。しかし、佐藤と門の視線が、一瞬だけある人物——桐生蓮のところで交差し、躊躇うように止まった。
(……本当は、索敵のために桐生を連れて行きたいッス。でも……)
佐藤は奥歯を噛み締めた。桐生の持つC級の『全周囲視界』と『望遠視』『霊視』の組み合わせは、この視界の悪い樹海において喉から手が出るほど欲しい能力だ。しかし、彼はインナースーツを失った生身であり、基礎体力は部内で最も低い。もし特級怪異の巣窟で乱戦になれば、真っ先に命を落とす危険があった。
「……門先輩、佐藤先輩」
その時、沈黙を破って一歩前に出たのは、他ならぬ桐生蓮だった。
昨夜、花園美羽から「先輩のカバーに甘えている」と冷酷な事実を突きつけられた男の顔には、もうキザな余裕はない。そこにあるのは、自らの弱さを自覚した上で、なおもチームのために命を懸ける覚悟だった。
「僕の『眼』が、必要でしょう。……志願します。斥候組のナビゲートは、僕にやらせてください」
「桐生……。だが、前衛がカバーしきれない事態が起きれば、お前は死ぬぞ」
門が厳しく問い正す。
「分かっています。ですが、僕の能力を最大限に活かせば、そもそも『カバーが必要な事態(不意打ち)』を未然に防げます。僕が完全にルートを計算し、お二人を安全に最深部まで導いてみせます」
桐生は、震えを押し殺した声で、しかし論理的に断言した。
佐藤と門は顔を見合わせ、やがて門が深く頷いた。
「……分かった。桐生、お前も斥候組だ。死ぬなよ」
「フッ……。当然です。僕の生存確率は、僕自身で計算しますから」
桐生がくいっと眼鏡を押し上げる。昨夜の屈辱を乗り越え、彼は確実に「独り立ち」への第一歩を踏み出していた。
---
【水と食料、そして生存のリアル】
「さて、私たちはノートの記述に従い、東へ三百メートルの地点にある沢を目指します」
紗良を先頭に、確保組の四人が拠点の結界から外へと足を踏み出した。
「押忍! 自分、荷物持ちも護衛も完璧にこなすでありまッス!」
大文字が、丸太のような腕を胸の前で交差させて気合を入れる。
「わ、わたしも……阿部先輩のために、美味しいお水を探しますっ!」
蘭も、まだ両腕に昨日の放電の痛みを残しながらも、必死に周囲を警戒している。
「僕は佐藤先輩が帰ってきた時に、最高の野草サラダを作ってあげなくちゃね♡」
桃井も、中性的なウインクを飛ばしながら、腕をいつでも変身させられるよう魔力を練っていた。
彼らの動きは、昨日とは見違えるほど慎重かつ的確だった。
美羽の『防水ノート』に記された通り、倒木の近くを避け、足場の悪い腐葉土の感触を確かめながら進む。時折、小型の怪異が茂みから飛び出してきても、大文字が拳で牽制し、桃井が関節を極めて無力化し、蘭が最小限の電撃でトドメを刺す。無駄な魔力消費を避け、連携によって安全に処理していく。
「よし、沢に到着しました。ノートの記述通り、ここの水は魔力汚染されていません。各自、水筒に確保を」
紗良の指示で、澄んだ湧き水を汲み上げる。
「南原先輩、例の『毛の生えた野草』も群生してましたよ!」
桃井が、指定された安全な食用野草を大量に摘み取ってくる。
「ご苦労様です。……あ、ついでにそこのシダ植物の隣にある、丸くて分厚い葉っぱも集めておいてください。ノートの20ページにある『トイレ用の葉』です」
「えっ、トイレ……ですか?」
蘭がポカンと口を開ける。
「ええ。この樹海で適当な葉っぱでお尻を拭くと、猛毒の被れで文字通り地獄を見ますからね。生存において、排泄環境の整備は食料確保と同等に重要です。大文字、神品、桃井。一人二十枚は確保を」
「お、押忍……! 完璧に摘み取るでありますッ!」
大真面目な顔でトイレ用の葉っぱを収穫する大文字たち。少しシュールな光景だが、これこそが「サバイバルのリアル」だった。
彼らは大きな失敗をすることなく、着実に、そして確実に、部員全員の命を繋ぐための任務を遂行していった。
---
【斥候の眼と、悪意の回収】
一方、拠点から北西へ向かった斥候組の三人は、息を呑むような隠密行動を展開していた。
『シュッ……!』
「ギャァァァッ——」
阿部凛花が、樹冠から飛び降りてきた猿型の怪異の首を、黒い霧の手で一瞬にしてへし折る。断末魔の叫びすら上げさせない、完璧なサイレント・キルだ。
「ナイスッス、阿部。……桐生、次はどうッスか?」
佐藤が、気配を完全に消したまま、背後の桐生に問いかける。
「現在地から前方五十メートル。木々の配置が不自然です。……右の枯れ木の根本に、起爆式のトラップ(罠)がありますね」
桐生は、額に冷汗を浮かべながらも、C級の『全周囲視界』をフル回転させていた。彼の視界には、森の地形、怪異の気配、そして微弱な魔力の流れが、まるで3Dマップのように展開されている。
「了解ッス。ちょっと失礼するッスよ」
佐藤は音もなく枯れ木に接近すると、泥まみれの落ち葉を慎重に退けた。そこには、触れれば大爆発を起こすよう調整された、風魔特製の『爆薬(魔力結晶の塊)』が仕掛けられていた。
「よし……信管、解除完了ッス。桐生、よく見つけたッスね」
「当然です。……ですが、佐藤先輩。なぜその爆薬を回収するんです?」
佐藤は、解除したソフトボール大の爆薬を、ニヤリと笑いながら自分のポーチに放り込んだ。
「決まってるッス。後で、ここの『主』にぶつけるためッスよ。敵の罠は、安全に解除できれば俺たちの『武器』になる。これも、鮎先輩から教わった『おもてなしの逆』の応用ッス」
無いものは、敵から奪う。あるいは利用する。
合気武道部の泥臭くもしたたかな戦術に、桐生は小さく息を吐いて笑みをこぼした。
「怪異の傾向も見えてきたッスね」
阿部が、倒れた怪異の死骸を見下ろしながら言う。
「奥に行けば行くほど、動物型の怪異から、純粋な『怨霊』や『呪いそのもの』みたいな不定形の敵が増えてる。物理攻撃より、魔力による相殺が必要になるわね」
「同感ッス。……桐生、索敵のレンジ(範囲)を限界まで広げられるッスか? そろそろ、一番ヤバいのが見えてきてもいい頃ッス」
「……やってみます」
桐生は深く深呼吸をし、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
『全周囲視界』の広がりを抑え、前方一点にのみ能力を集中させる『望遠視』と『霊視』の複合。視神経が焼き切れるような痛みに耐えながら、桐生の眼は、漆黒の樹海のさらに奥深く、数百メートル先の空間を貫いていった。
---
【深淵の主と、呼応する悪意】
『キィィィィィン……ッ!』
桐生の脳内に、強烈なノイズが走った。
「……っ、ぐあ……っ!」
「桐生!? 大丈夫ッスか!」
佐藤が慌てて桐生の肩を支える。
「……見え、ました。前方、およそ八百メートル先。すり鉢状の盆地になっています」
桐生は、片目を抑えながら、荒い息を吐いて報告した。
「そこだけ、瘴気の濃度が異常です。……まるで空間そのものが腐り落ちているような。周囲の木々は黒く立ち枯れ、足元の地面は心臓のようにドクドクと脈打っています。その中心に……巨大な、何か。形は明確には分かりませんが、魔力量は……S級下位。間違いなく、この森の『主』です」
「S級下位……! SSS級の悪魔たちに比べりゃマシだが、今の生身の俺たちなら、一瞬でも隙を見せりゃ十分死ねる相手ッスね」
佐藤が油断なく顔を引き締め、阿部も拳をバキバキと鳴らして臨戦態勢をとる。
「すぐ拠点に戻って、門たちに報告——」
桐生がそう言いかけた、その瞬間だった。
『ドクンッ!!』
桐生の心臓が、極度の恐怖で激しく跳ねた。
八百メートル先の暗闇。そこにあるはずのない『複数の巨大な赤い眼球』が、ゆっくりと、しかし確実な殺意を持って、桐生の『視線』の方をギロリと睨み返してきたのだ。
見えないはずの距離。しかし、眼が合った。
「……っ!! め、目が……合いました……ッ!!」
桐生が悲鳴のような声を上げる。
「何ッ!?」
「マズいッス、完全に捕捉された! 桐生、阿部、全速力で撤退ッス!! 走れェ!!」
佐藤の絶叫が響き、三人はすぐさま踵を返し、弾かれたように拠点へと走り出した。
***
——一方、魔界の森の最深部。
淀みきった瘴気の中心で、蠢く巨大な肉塊。
無数の怨念が寄り集まって形成されたその『主』は、数百メートル先から自分を覗き見ていた生意気な「眼(桐生)」の気配が遠ざかっていくのを、赤い複数の眼球で冷酷に見送った。
『グルォォォ……、ルルル……』
主の喉の奥から、地鳴りのような低い咆哮が漏れる。
それは、獲物の存在を確認した喜びでもあり、同時に、自身の縄張りを荒らす者への明確な怒りだった。
主の身体から、ドス黒い魔力の波動が全方位へと放射される。
『ザワッ……! ザワザワザワァァァッ……!!』
主の咆哮と波動に呼応するように、森の奥深くで眠っていた、あるいは潜んでいた無数の特級怪異や怨霊たちが、一斉に蠢き始めた。
主からの明確な「殺しの命令」。
静かに、しかし圧倒的な暴力の津波が、合気武道部の拠点に向かって集結し始める。
「……急ぐッスよ! 夜まで待ってくれるほど、向こうは優しくないみたいッス!!」
背後から迫り来る悍ましい気配を感じながら、佐藤たちは拠点の仲間たちのもとへ急いだ。
生存と討伐。相反する二つの目的が交差する、本当の地獄の総力戦が、今まさに始まろうとしていた。




