【金剛の胎動と、地下五階の激突(第五試合)】
【金剛の胎動と、地下五階の激突(第五試合)】
高橋玲央の完璧な高笑いと、手玉に取られた桃井琉生の悔しげなジト目が交差した第四試合が終わり、地下五階の特殊訓練場には再び張り詰めた静寂が戻ってきた。
バキバキ、メキメキと音を立てて、激しい戦闘によって破壊されたコンクリートの床や壁が、生き物のようにうごめきながら元の平らな状態へと修復されていく。
「よし、最後だ。第五ペア、佐藤、雨宮! 前へ出ろ!」
修復が完了した結界の中央に立ち、主将である門蒼真が低くよく響く声で号令をかけた。
「うすッス!」
「ひゃ、ひゃいぃぃぃっ!」
元気よく返事をして前に飛び出した佐藤陽翔とは対照的に、雨宮千歳は今にも泣き出しそうな悲鳴を上げながら、ガタガタと生まれたての小鹿のように震える足で、佐藤の背中に隠れるようにして進み出た。
一年生の中で群を抜く『A級』の評価を叩き出した、雨宮千歳。
彼女の能力は、単なる念動力の枠をはるかに超えた、A級版『境界支配』と呼ばれる超常の力である。
空間、物体、霊体、結界など、あらゆるものの「境界線」を一時的に認識し、操作することができるこの能力は、現状のA級ですら破格であり、将来的には「世界最上位のS級〜SS級に到達する」とすら言われている規格外のポテンシャルを秘めていた。
だが、千歳の能力には致命的な問題があった。
本人の精神構造が、極度、いや、異常なまでの「ビビり」なのである。
「えっと……千歳ちゃん。とりあえず、できる範囲でいいから、なんかやってみるッスか?」
佐藤が頭を掻きながら、極めて優しく声をかける。
先ほどの四試合では、激しい肉弾戦や心理戦が繰り広げられた。だが、相手がこの千歳となると話は別だ。ちょっと脅かしただけで、パニックを起こして白目を剥きかねない。
「む、無理ですぅ……! わたし、何もできませんっ! さっきの先輩たちの戦いを見てたら、お腹痛くなってきちゃいましたし……っていうか、陽翔先輩相手に戦うなんて、絶対に殺されちゃいますぅぅぅっ!」
千歳は両手で頭を抱え、床にしゃがみ込んでしまった。
彼女の脳裏には、自身の強大すぎる能力への無意識の恐怖が渦巻いていた。
千歳が現在認識しているだけでも、彼女の能力はあまりに多岐にわたり、そして危険すぎた。
①『境界念動』。視界内、または半径100~200メートル程度の物体を自在に操作できる。車を持ち上げ、巨岩を投げ、怪異を吹き飛ばし、防御壁を形成する。ビル全体は無理でも、周囲を瓦礫の山に変えるには十分すぎる。
②『境界転移』。視認した場所や一度記録した地点へ、自分や仲間1〜2人を瞬間移動させる。敵を数十から数百メートル彼方へ吹き飛ばすことも可能だ。
③『境界結界』。空間そのものを固定し、敵の短距離転移を封じたり、侵入を妨害する。
④『高位霊視』。幽霊、妖怪、呪い、悪魔などを視認できる。見えすぎてしまうからこそ、余計に怖いのだ。
⑤『思念探知』。半径数キロ以内の強い殺意、怨念、恐怖、怪異の発生を鋭敏に感知する。
⑥『空間透視』。数十メートル先の壁や地下、建物の構造などを透かして見る。
⑦『念話』。仲間数人と常時通信状態を保つ。
⑧『境界障壁』。念力と結界を重ね合わせた絶対的な防御陣。ライフルや爆発、B級怪異の攻撃程度なら傷一つなく防ぎ切る。
さらに最も恐ろしいのが、千歳の無意識下に眠る残り二つの特性だった。
⑨『怪異誘導』。怪異を引き寄せたり、低級怪異なら無意識に命令を下してしまう。
⑩『境界暴走』。精神が崩壊すると能力が暴走し、周囲数キロの怪異や霊力を引き寄せ、都市の一角を危険地帯に変貌させてしまう。
「うーん……困ったッスね。千歳ちゃんが完全に殻に閉じこもっちゃってるッス。これじゃあ、能力の出力テストどころじゃないッスよ。門主将、どうするッスか?」
佐藤がしゃがみ込む千歳を見下ろし、困り果てて門へと視線を向けた、その時だった。
「——外せばいいのか?」
ふと、地下訓練場の分厚い防音扉が開く音とともに、冷たくも自信に満ちた少年の声が響き渡った。
部員たち全員の視線が、声の主へと集まる。
そこに立っていたのは、スノーの副社長としてこの訓練の視察に訪れた「ゲスト」——陰陽庁執行部『六壬』に所属する天才陰陽師、土御門朔夜だった。
銀髪のショートボブに、白磁のように透き通った肌。身長は155センチほどしかなく、一見すれば儚げで可憐な美少年にしか見えない。しかし、社長である立花雪が不在の今、彼の中身である傲岸不遜な「肉食系の雄」としての本性が完全に露わになっていた。
朔夜はポケットに手を入れたまま、カツ、カツと革靴の音を響かせて結界の中へと歩み寄り、白磁のような指の間に一枚の『呪符』をスッと挟んで見せた。
「土御門副社長……。外すって、何をッスか?」
「このビビリ女の、無意識のリミッターだ」
朔夜は鼻で笑い、銀色の前髪をかき上げる。
「雨宮千歳の能力は、本人の精神の脆弱さによって、分厚い『恐怖の殻』の中に自ら封じ込められている。自衛本能のつもりだろうが、その殻がある限り、こいつは一生自分の力をまともに使えねぇ」
朔夜は千歳を見下ろし、冷酷なまでに美しい双眸を細めた。
「俺の札で、その『殻』を強制的に叩き割る。そうすりゃ、内に秘められたA級の魔力が嫌でも全部吹き出す。……だが、制御を失った力は、十中八九『暴走』を引き起こすだろうぜ。佐藤陽翔、お前はそれを受け止め、鎮めることができるか?」
朔夜の提案に、結界の外で見学していた門や南原たちも顔色を変えた。
A級能力者の強制暴走。それは、下手な怪異と正面からやり合うよりも厄介で、周囲を巻き込む大惨事になりかねない。
「ちょっ、土御門副社長! 視察に来ていきなり、それは危険すぎるんじゃ……!」
阿部凛花が声を上げるが、朔夜は「素人は黙ってろ」とばかりに冷ややかな視線でそれを制した。
「TIAでの『洗礼』が近いんだろ? 向こうはスノーの地下訓練場のように甘くはねぇぞ。死線に立たされた時、この女がパニックを起こせば、部隊全体が全滅する。今ここで膿を出し切り、力の底を把握しておく必要がある」
圧倒的な正論であった。
佐藤はしばらく黙り込み、しゃがみ込んで震え続ける千歳の頭をじっと見つめていた。
楓から『SS級』の器と評価された、佐藤の広大な視野と緻密な魔力制御。彼は脳内で瞬時にあらゆるシミュレーションを行い、そして、ニカッといつもの人懐っこい笑みを浮かべた。
「……朔夜さん。お願いしていいッスか?」
「……正気か、陽翔。一歩間違えれば、お前もタダでは済まないぞ」
門蒼真が低く警告するが、佐藤は振り返らずに親指を立てた。
「大丈夫ッスよ、主将。俺が副主将として、千歳ちゃんの全部、しっかり受け止めてみせるッスから」
その言葉を聞いて、千歳がビクッと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。
涙目で、鼻をグズグズと鳴らしながら、佐藤の顔を見上げる。
「ひゃ、陽翔先輩……。ほ、本当に、やるんですか……? わたし、もし暴走したら、先輩のこと……殺しちゃうかもしれないんですよ……?」
「殺されないッスよ。俺er意外としぶといッスからね。それに、千歳ちゃんだって、いつまでも『怖い、怖い』って逃げてるわけにはいかないッスよね?」
佐藤は千歳の目線に合わせてしゃがみ込み、その頭をポンポンと優しく撫でた。
「千歳ちゃんがA級になったってことは、それだけ千歳ちゃんの中に『みんなを守れる力』があるってことッス。だから、その力がどれくらい凄いのか、一度俺に見せてほしいッス。……ダメっすか?」
「だ、ダメじゃないですけど……」
千歳にとって、佐藤陽翔は合宿の時からずっと、自分を励まし、支えてくれた頼もしい先輩だった。
口を開けばおっぱいのことばかり言うデリカシー皆無の変態だが、いざという時には誰よりも冷静に戦場を支配し、仲間のために身を粉にして動く。
そんな彼が、「大丈夫」と笑ってくれている。
「……信じて、いいですか?」
千歳が、縋るような瞳で尋ねる。
「当たり前ッス! どーんと任せるッスよ!」
佐藤が満面の笑みで頷いた。
そのやり取りを見届けると、土御門朔夜は「……フッ、いい覚悟だ」と口角を上げ、手にした呪符を天に掲げた。
「なら、いくぞ。——急々如律令!!」
シュパァッ!!
朔夜の手から放たれた呪符が、一条の光となって千歳の額へと吸い込まれた。
「あっ——」
千歳が小さく声を漏らした、その瞬間。
バキッ。
ガラスが割れるような、冷たくて硬い音が、地下訓練場の空間そのものに響き渡った。
それは、雨宮千歳の精神を覆っていた「恐怖の防壁」が、天才陰陽師の術式によって強制的に破壊された音だった。
「……あ、あ、ああああああああっっっ!!!」
ドゴンッッッ!!!
次の瞬間、千歳の華奢な身体から、視認できるほどに濃密で暴力的な『念動力』の嵐が爆発した。
雨宮千歳の能力の深淵——⑨『怪異誘導』と、⑩『境界暴走』の発動である。
「なっ……!?」
結界の外にいた二年生たちでさえ、その凄まじい余波に思わず腕で顔を覆う。
地下五階の巨大な空間が、文字通り「ひしゃげた」。
千歳を中心に、コンクリートの床がすり鉢状に陥没し、天井の照明が次々と破裂して火花を散らす。
「千歳ちゃん……!」
佐藤は目の前で吹き荒れる念動力の嵐に耐えながら、自身の全身に『闇の魔力』を限界まで纏わせた。
暴走状態に入った千歳の目は、完全に焦点を失い、白く発光していた。
彼女の精神が崩壊しかけ、能力が制御を離れたことで、周囲数キロに漂う微小な怪異や、東京ダンジョンの残滓たる霊力が、彼女の『境界支配』の力によって無意識に地下訓練場へと引き寄せられ始める。
空間に無数の黒い亀裂(境界の歪み)が走り、そこから名状しがたい不気味な声や、異界の瘴気が漏れ出し始めた。
「あぁぁぁ……こわい、こわいよぉ……! こないでぇぇっ!!」
千歳が泣き叫びながら両手を振り回す。
それだけで、見えない巨大な鉄槌が振り下ろされたかのように、佐藤の足元の床がクレーターのように吹き飛んだ。
ドゴォォォォォンッ!!!
「おわぁっ!?」
佐藤は咄嗟に後方へ飛び退くが、千歳の『境界念動』による不可視の追撃が、息をつく暇もなく襲い掛かる。
巨大な念動力の塊が、右から、左から、上から、佐藤をすり潰そうと迫る。車をスクラップにし、巨岩を粉砕するほどの理不尽な暴力。
「おいおいおい……! マジで手加減なしッスね! こりゃあ、S級の怪異よりタチが悪いッスよ!」
佐藤は冷や汗を流しながらも、その瞳には極めて冷静な、遊撃手としての知性が光っていた。
楓から評価された『SS級の器』。それは単なる出力の大きさではない。戦況のすべてを把握し、瞬時に最適解を導き出す、異常なまでの処理能力。
(千歳ちゃんの念動力は直線的じゃない。空間の『境界』を操作して、ゼロ距離から威力を発生させてる……! なら、俺がやるべきことは一つッス!)
「『闇の手』ッ!!」
佐藤の影から、無数の漆黒の腕が伸びる。
だが、その腕は千歳を攻撃するためではない。千歳が放つ念動力のベクトルを、闇の手で絡め取り、軌道をわずかにズラすための『防御』と『相殺』だ。
ギィィィィィンッ!!
見えない念力と、漆黒の魔力が空間で激突し、凄まじい衝撃波が連続して発生する。
佐藤はギリギリの体捌きで致命傷を避けながら、暴風の中心にいる千歳へと、一歩、また一歩と近づいていく。
「こないでぇぇっ!! わたし、わたし、誰かを傷つけたくないぃぃっ!!」
「大丈夫ッス!! 千歳ちゃんの力じゃ、俺は傷つかないッスから!!」
佐藤は叫びながら、さらに魔力を練り上げる。
千歳の暴走はさらに激しさを増していた。彼女の周囲に、強固な⑧『境界障壁』が展開され、佐藤の進行を阻む。ライフルの直撃や爆発すら弾き返す、A級の絶対防壁。
「……なら、こじ開けるまでッス!!」
佐藤は右拳に極黒の魔力を限界まで圧縮し、千歳の『境界障壁』へと渾身の一撃を叩き込んだ。S級相当の魔力操作技術による、一点集中の一撃。
メキキキィィィッ!!!
圧縮された極黒の魔力と、A級の絶対防壁が激突し、ガラスを爪で引っ掻くような不快な音が響き渡る。
障壁にヒビが入り、そこから佐藤の『闇の魔力』が浸透していく。
「あ、あ、あああ……っ!」
「千歳ちゃん!! 目を開けるッス!! 俺を見ろッ!!」
佐藤の怒鳴り声が、暴走する千歳の鼓膜を打った。
ビクッと千歳の身体が跳ね、白く発光していた瞳に、わずかに理性の光が戻る。
その瞬間、佐藤は障壁のヒビを強引に押し破り、千歳の懐へと飛び込んだ。
「捕まえたッスよ!!」
佐藤は千歳の華奢な両腕をガシッと掴み、自身の魔力を千歳の身体へと流し込んだ。
暴走する『境界支配』の魔力回路に、佐藤の緻密で包み込むような『闇の魔力』が介入し、強制的にブレーキをかける。同時に、千歳の無意識の暴走を引き起こしていた恐怖心を、佐藤の温かく力強い魔力が和らげていく。
「……ひぐっ、うぅ……!」
千歳の身体から力が抜け、その場にへたり込む。
同時に、空間に走っていた黒い亀裂が消滅し、吹き荒れていた念動力の嵐も嘘のようにピタリと止んだ。
「……ふぅ。お疲れ様ッス、千歳ちゃん」
佐藤は息を乱しながらも、いつもの人懐っこい笑顔で千歳を見下ろした。
千歳は肩で息をしながら、自分が引き起こした惨状——原型をとどめないほどに破壊された地下訓練場——を見て、信じられないというように目を見開いた。
「こ、これ……わたしが、やったんですか……?」
「そうッスよ。メチャクチャ凄い力ッス。正直、俺も冷や汗ダラダラだったッスよ」
佐藤は笑いながら、千歳の頭を再びポンポンと撫でた。
「でも、ちゃんと止まったッス。千歳ちゃんは、俺が声をかけたら、自分の力でブレーキをかけられたんスよ。……だから、もう大丈夫ッス」
「陽翔、先輩……」
千歳の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ落ちる。
それは恐怖の涙ではなく、自分が恐れていた「暴走」を乗り越え、そして誰のことも傷つけずに済んだという、深い安堵の涙だった。
「……フン。まあ、合格点ってところだな」
朔夜はポケットに手を入れたまま、生意気な笑みを浮かべて小さく鼻を鳴らした。
「A級の暴走を、力押しではなく緻密な魔力制御で鎮めとはな。……やはり、佐藤陽翔、お前の『器』は底知れねぇ。そして雨宮千歳。お前も、自分の力の『底』を見たことで、これからは無意識の暴走をある程度自意識で抑え込めるはずだ」
ゲストとして現れた天才陰陽師からの確かな評価に、千歳は涙を拭いながら、小さく、しかし力強くコクリと頷いた。
佐藤もまた、ボロボロになった制服の埃を払いながら、満足げに笑う。
こうして、一年生たちの「新たな力の覚醒と制御」を目的とした五つの模擬戦は、すべて無事に終了した。
彼らは確かな自信と、次なる課題を胸に刻み、やがて来るTIAでの「本物の洗礼」へと向けて、さらなる一歩を踏み出したのだった。




