【暁の地獄と、狂気の新入生たち】
【暁の地獄と、狂気の新入生たち】
「九百九十八ッ! 九百九十九ッ! ――千ッ!!」
「「「千ィィィッ!!」」」
まだ太陽すら顔を出していない、早朝五時。
私立聖ミカエル学園の敷地内にひっそりと佇む合気武道部の専用道場は、すでに常軌を逸した熱気と、暴力的なまでの打撃音に支配されていた。
春の冷え込みなどどこ吹く風。道場の窓ガラスは、内側から発せられる尋常ではない熱気によって真っ白に曇りきっている。
主将・門蒼真の野太い号令に合わせ、副主将の佐藤陽翔、高橋玲央、南原紗良、そして阿部凛花の四人が一斉に声を張り上げた。
彼らが両手で固く握りしめているのは、通常の数倍の重量を誇る「鉛入り木刀」である。全身から滝のように汗を吹き出させ、肺が破れんばかりに息を荒らげながらも、二年生五人の姿勢は誰一人として崩れることはない。
彼らの朝練メニューは、もはや部活動の域を完全に逸脱していた。
鉛入り木刀での素振りを、千回。
下半身の筋肉を極限まで苛め抜く四股踏みを、千回。
そして、硬い畳の上で全身を容赦なく叩きつける受け身を、千回。
これに加えて基本の組手稽古までこなすのだから、軍隊の特殊部隊ですら裸足で逃げ出す正真正銘の「地獄のフルコース」である。
「……よし。これで今日の俺たちのノルマは完了だ」
門が重い木刀をゆっくりと畳に置き、首にかけたバスタオルで汗を拭いながら満足げに頷いた。
「はぁっ……はぁっ……! ぜぇっ……!」
その言葉を聞いた瞬間、佐藤は糸が切れた操り人形のように畳の上へ大の字に倒れ込んだ。
「さ、さすがに……朝五時からのフルメニューは……何度やっても胃液が逆流しそうになるッスね……」
「もう、文句を言わないの、陽翔」
死に体になっている佐藤を見下ろし、阿部凛花がクスリと笑う。
180センチの長身と完璧なモデル体型を持つ彼女も全身汗だくであったが、その表情には余裕すら感じさせる爽やかな笑みが浮かんでいた。
「持子様の尊い教えを守るためには、これくらいの鍛錬は当然でしょ?」
「ええ。私たちの肉体には、あの『極黒の魔王』から直接分け与えられた強者の魔力が深く馴染んでいます。だからこそ、これほどの異常な稽古量でも肉体が崩壊せずに済んでいるのですわ」
高橋玲央が乱れた息を整えながら、眼鏡のブリッジをクイッと中指で押し上げる。
その後ろでは、童顔の南原紗良が「まったく……野蛮な体力バカたちに付き合わされるせいで、私の可憐な筋肉まで悲鳴を上げています」と憎まれ口を叩きつつも、その顔には確かな達成感と充実感が浮かんでいた。
彼らは、七時から始まる「一年生との合同朝練」の前に、自分たちの過酷なメニューをすべて終わらせていたのだ。
新入生の前で先輩としての圧倒的な威厳を保つため。そして何より、これから地獄を見る後輩たちの指導に全力を注ぐための、彼らなりの「優しさ」であった。
***
午前七時。第一の試練。
「おはようございます!」
「失礼します!」
道場の重い引き戸が開き、真新しい道着やジャージに身を包んだ新入生たちが次々と足を踏み入れてきた。
昨日の凄まじい勧誘と演武を見て入部を決意した、およそ50名にも上る若き希望たちだ。
彼らは、涼しい顔をして談笑している二年生たちを見て、内心ホッと胸を撫で下ろしていた。
(おっ、先輩たち全然汗かいてないぞ)
(なんだ、意外と朝練って楽なのかな? よかったー)
――そんな甘ったるい幻想は、開始五分で無残に打ち砕かれることになる。
「よし、全員揃ったな! それでは一年生の朝練メニューを発表する!」
門が道場の中央に立ち、道場全体を震わせるような威風堂々とした声で告げた。
「まずは準備運動! その後、腕立て伏せ百回だ! 休みながらでも構わないから、自分のペースで必ずやり切るように! それが終わった者から、俺たち二年生が受け身の基本を指導する!」
「「「……えっ?」」」
新入生50人の動きが、文字通りピタリと停止した。
「う、腕立て……百回……!?」
「休みながらって言っても、百回なんて絶対に無理だよ……!」
ざわめきと絶望が広がる中、門の「始めッ!!」という容赦のない死刑宣告のような号令が道場に響き渡った。
……十分後。
真新しい道場は、完全なる阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「ひぃっ、ひぃっ……! う、腕が……腕がもげるぅ……っ!」
「無理、もう無理……一回も上がらない……!」
一般生徒はもちろんのこと、中学校時代に運動部で体力に自信のあった者たちでさえ、三十回を超えたあたりで次々と限界を迎え、畳に崩れ落ちていく。
そんな悲惨な惨状を見かねて、ついに二年生たちが素早く動き出した。
「ほらほら、顎を上げない! 限界からが本当の勝負ッスよ!」
「自分のペースでいいからね! 諦めないで!」
佐藤や阿部が励ましの声をかけて回りながら、限界を迎えて死にかけている一年生の背中や肩に、そっと手を触れる。
その瞬間。
『――スゥッ』
先輩たちの手から、微弱な【回復の魔力】が新入生たちの身体へと静かに流し込まれた。
それは二年生たちが密かに習得している、魔力を用いた肉体疲労の強制回復術だった。表向きはただの「励ましのマッサージ」に見せかけながら、限界を超えた後輩たちの筋肉の修復を裏で行っているのだ。
「あれ……? なんだか、急にまた力が湧いてきた……!」
「先輩の手、すっごく温かいです!」
魔力の恩恵を受けた新入生たちは、不思議そうに目をパチクリとさせながらも、再び闘志を燃やして腕立て伏せを再開していく。
***
そんな混沌とした道場の各所で、ひと際異彩を放っている者たちがいた。
「九十八……九十九……! ッヒィン、百ゥゥッ!! 押忍ッ!!」
ズドォォン!! と床を突き破るような音を立てて腕立て伏せを終えたのは、一般科の大文字鉄平だった。
身長175センチ、体重120キロ。もとは相撲と空手をやっていたという恵まれた巨体を持つ彼は、誰よりも深く、誰よりも厳しい完璧なフォームで百回をやり切ってみせた。
「おお! 素晴らしい気合いだな、大文字!」
門が感心したように声をかけると、大文字は男っぽい顔を真っ赤に紅潮させてバッと立ち上がった。
「門主将!! 自分、終わりました! 次の指示をお願いします!」
「俺よりも強い奴と戦いたい」と常々口にしている大文字は、猛禽類のように目をギラギラさせて門を見つめている。
「よし、時間が余っているな。ならば俺が直接、受け身と崩しの基礎の稽古をつけてやろう」
「本当ですか!? 光栄の極みです、押忍!!」
門は大文字と正面から向かい合い、手取り足取り、非常に丁寧で実践的な指導を開始した。
大文字はその無駄のない圧倒的な技術と、門から溢れ出る男らしさに深く感銘を受け、(この人こそ自分の生涯の師だ……!)と心の中で熱い炎を燃え上がらせていた。門もまた、大文字の純粋な武道への情熱と素直さを大層気に入っていた。
一方、その対極で地獄の底を這いずり回っていたのは、芸能科の桐生蓮だった。
「はぁっ……はぁっ……! じゅ、十五……っ! もう、無理……っ」
身長180センチの細身の筋肉質。実家は金持ちで両親共に芸能人であり、歌や踊り、演技は天才的だが……こと武道や戦いに関してはビックリするくらい弱い彼は、早々に腕をプルプルと小鹿のように震わせて畳に突っ伏していた。
「ちょっと蓮。だらしがないですね。頑張りなさい」
北極の氷よりも冷ややかな声と共に、南原紗良が彼を見下ろした。
「さ、紗良……。ごめん、僕、こういう泥臭いのは本当にダメみたいだ……。せっかくのイケメンの顔が、汗で台無しだよ……」
自嘲気味に笑う桐生の背中に、南原は小さくため息をつくと、そっと彼の隣に膝をついた。
普段は極寒のシベリアのような毒舌を放つ彼女だが、子役時代からの幼馴染である桐生に対しては、どこか手つきが優しかった。
「……フォームが崩れているから、無駄な力を使っているんです。私が少し支えますから、ゆっくりやりなさい」
南原は桐生の肩甲骨のあたりに白魚のような手を添え、微弱な回復の魔力をそっと流し込みながら、小さな声で励ました。
「紗良……。ふふ、優しいんだね」
「喋る暇があるなら手を動かしなさい、この軟弱者」
口では厳しいことを言いながらも、決して最後まで見捨てようとしない南原の不器用な優しさに、桐生は少しだけ口角を上げて、再び腕を曲げ始めた。
「ひゅぅっ……ひゅぅっ……」
同じく限界を迎えていたのは、一般科の雨宮千歳だった。
丸メガネで地味な見た目の彼女は、極度のビビリでありながらも「先輩たちについていきたい」という強い気力だけで三十回まで到達していた。しかし、もともと体力がないため、完全に腕が限界を迎えていた。
「千歳ちゃん、ストップストップ! 顔が真っ青だよ!」
阿部と高橋が慌てて駆け寄り、千歳の背中と肩に優しく手を当てた。
「ご、ごめんなさい……。私、全然ダメで……っ」
「謝る必要はありませんわ。あなたはよく頑張っています」
高橋が優しく微笑みながら、阿部と共に強めの回復の魔力を千歳に注ぎ込んだ。
すると――。
(あ……すごい。先輩たちの温かい力が、身体の隅々にまで染み渡っていく……!)
能力者B級であり、念力や霊視などの強力な力を持つ千歳の身体は、魔力に対する親和性が異常なまでに高かった。
スポンジが水を一気に吸い込むように回復の魔力を取り込んだ千歳は、先ほどまでの絶望的な疲労が嘘のように顔色を良くし、スッと軽やかに起き上がったのだ。
「せ、先輩! 私、まだやれます……っ!」
「えっ!? 千歳ちゃん、いくらなんでも回復早すぎない!?」
能力者ゆえの優秀すぎる回復力に、阿部と高橋も驚愕しつつ、千歳の直向きな頑張りに目を細めていた。
***
道場のあちこちで絆が深まる中、空気を別の意味で支配している問題児が二人いた。
「九十九……! ひゃ、百……ッ!!」
芸能科の神品蘭は、160センチという小柄な少女体型でありながら、「男には絶対に負けたくない」という凄まじい気力と負けん気だけで、見事に百回の腕立て伏せをやり切った。
「やった……! お姉さま……僕、やりましたよ……っ」
しかし、体力的には完全に限界を超えており、彼女はそのまま畳の上に力なく仰向けに倒れ込んだ。
荒い息を吐き、視界がぼやける中……彼女の目は一点に完全に釘付けになっていた。
指導に回っている阿部凛花の、道着の上からでもはっきりとわかる圧倒的なプロポーション。とくに、動くたびに豊かに揺れる立派な胸である。
(あぁ……お姉さまのお胸……今日も素晴らしいです……。あの中に顔を埋めて、永遠に眠りたい……)
美少女でありながら果てしなく残念な思考を巡らせ、幸せな表情で昇天しかかっている蘭。
しかし、その至福の時間は一瞬で破壊された。
「凛花ー! そっちの一年生の様子はどうッスかー?」
佐藤陽翔が、阿部の元へと爽やかな笑顔で小走りしてきたのだ。
「あ、陽翔! うん、みんなすっごく頑張ってるよ!」
二人が親しげに笑い合い、佐藤が阿部の肩をポンと軽く叩いた瞬間。
「――ッ!!」
動けなくなっていたはずの蘭の瞳に、ゴウッ! と漆黒の炎が灯った。
(あのゴミ……っ! また僕のお姉さまに馴れ馴れしく触って……! 絶対に許さない!!)
電気を発生できるD級覚醒者である蘭の身体から、バチバチと危険な静電気が漏れ出す。彼女は完全な疲労状態であったにもかかわらず、純度100%の『嫉妬』という恐るべきエネルギーだけでゾンビのようにゆらりと立ち上がり、佐藤を倒すべく歩き出した。
だが、その佐藤を背後から狙う、もう一人の肉食獣がいた。
「ふぅ……。終わりましたぁ♡」
うっすらと綺麗な汗をかきながら、涼しい顔で立ち上がったのは、桃井琉生だった。
身長170センチの細身で女装モデルである彼は、見た目こそ美しすぎる背の高い女子にしか見えない。しかし、覚醒者C級の『身体強化』の能力を持っているため、腕立て伏せ百回など彼にとってはただの準備運動にすぎなかった。
桃井の視線は、ずっと一点に固定されていた。
後輩たちに指導をして回る佐藤の、引き締まったお尻のラインである。
(ああん……佐藤先輩のお尻、動くたびに筋肉がキュッてなって……本当に最高……。早くわたしが攻めたい……♡)
愛が重すぎる男の娘である桃井は、頬を真っ赤に紅潮させ、ペロリと舌なめずりをして佐藤の背後へと音もなく忍び寄る。
「さ・と・う・セ・ン・パ・イ♡ 腕立て終わりましたぁ! ご褒美に、先輩の身体で受け身を教えてくださいぃ♡」
「ひゃあぁぁっ!?」
背後から突然、熱烈なハグと共に首筋に艶っぽい息を吹きかけられ、佐藤は文字通りカエルが潰れたような声を上げて飛び上がった。
「も、桃井!? お前、もう百回終わったのか!? っていうか離れろ! 俺の貞操がピンチッス!!」
「嫌ですぅ! 先輩の温もりを、至近距離で感じたいんですぅ! さあ、わたしを投げて♡」
佐藤のお尻を見て立っちゃたりする変態である桃井は、佐藤の腰にガッチリと腕を回して絶対に離そうとしない。
「このゴミ虫がぁぁぁっ!! 僕のお姉さまの視界の中で、破廉恥な真似をするなァァッ!!」
そこに、嫉妬に狂った神品蘭がバチバチと本物の静電気を纏いながら突撃してきた。
「ひぃぃぃぃっ!? なんで蘭ちゃんまで殺気立って突っ込んでくるんスか!! 助けて門ォォォ!」
阿鼻叫喚の悲鳴を上げる佐藤。
しかし、大文字の指導ですっかり熱血モードに入っていた主将からの言葉は、無慈悲なものであった。
「――気合いが足りんぞ佐藤ォ!! それくらい自分の力で捌いてみせろォ!!」
愛ある、しかしあまりにも理不尽な怒声が道場に響き渡る。
「ええええええええっ!?」
朝焼けの眩しい光が差し込む道場。
泥臭くも真剣に限界に挑む者。幼馴染の絆を深める者。能力の片鱗を見せながら食らいつく者。
そして、貞操の危機と嫉妬の雷撃に挟まれ、全力で逃げ惑う副主将。
合気武道部の朝練は、かくしてカオスと熱狂の渦の中で、今日も賑やかに幕を開けるのであった。




