【達人の残像と、不器用な漢(おとこ)飯】
【達人の残像と、不器用な漢飯】
「――ガララララッ!」
合宿最終日、五月五日の午前六時。
氷川神社の隠し道場に、朝もやを切り裂くような爽快な音が響き渡った。
まだ薄暗い境内の森からは、初夏の清涼な朝露の香りが漂い、道場の畳の上には、真新しい道着に身を包んだ合気武道部の十人が、綺麗に背筋を伸ばして整列していた。
部員たちの視線の先、引き戸を開けて入ってきたのは――。
髪に少しだけ山の葉っぱを引っ掛け、手には綺麗に空になった羊羹の包み紙を持った、顧問の影安壮三先生だった。
「やあ、皆さんおはようございます。素晴らしい朝ですね。五月の山の夜風というのは実に冷涼で心地よく、大自然の霊気とともに食べる羊羹は、脳のガソリンとして至高の味わいでしたよ」
影安先生は、昨夜完全に山中で遭難して野宿したとは到底思えない、驚くほどスッキリとした涼しい顔で微笑んでいた。
「「「「「本当にひょっこり帰ってきた(ッス)よ、この人ーーーーーッッ!!!!」」」」」
部員一同の、魂の底からの総ツッコミが道場内に木霊した。
「フッ……大自然の闇の中で遭難し、羊羹の糖分だけで生還するとは、我が顧問ながら、やはりただの植物好きのポンコツおじさんではないね。僕の美しい千里眼でも、先生のその圧倒的な生命力の根源までは見通せないよ」
ジャージの袖を軽く捲り上げた桐生蓮が、キザに前髪をかき上げながら、呆れたように苦笑いする。
「押忍ゥゥッ! 影安先生、やはり野宿によってご自身の『剛体』を大自然の霊脈と完全同調させておられたのですねッ! 衣服に付着した泥の汚れすら、武の勲章のように見えますッ! 自分、感動いたしましたッッ!」
大文字鉄平が、一人だけ完全に目を輝かせて大胸筋をピクピクと限界までパンプアップさせていた。相変わらずの究極のKY(空気読めない)ぶりである。
「大文字くん、ただ道に迷って山の中で朝を迎えただけだから、それ以上美化するのはやめなさい。……まったく、影安先生。心配はしていませんでしたけれど、本当に熊にでも襲われなくて良かったですわ」
高橋玲央が、洗練されたお嬢様口調のまま、フゥと安堵のため息を漏らした。
「ははは、皆さんお騒がせしました。さて、雑談はここまで。……今日はいよいよ、この地獄の強化合宿の最終日の朝です」
影安先生が、羊羹の紙を懐に仕舞い、スッと表情を引き締めた。その瞬間、彼の周囲の空気が、まるで巨大な大気圧に押し潰されるかのように、ピリピリ……、ゴゴゴゴゴ……と、圧倒的な達人の「覇気」へと変貌した。
「最後の稽古として、今から朝食の時間までの間、私の『技』を皆さんに受けてもらいましょう。そして――そこから、何かを一つでも多く盗んでみせてください」
その言葉に、部員十人の顔つきが同時に跳ね上がった。昨日、鮎先輩の禊と葉室家の秘術によって、身体の中心に「正中の光柱」を通した彼らだ。その武の器は、一昨日までとは比べものにならないほど強固に、そして敏感に拡張されている。
「先生、順番はどういたしますか?」
主将の門蒼真が、一歩前に出て、硬派でストイックな声で尋ねた。
「ふふ、好きにかかってきなさい。武の実戦において、順番などという型に囚われる必要は一切ありません。それと、皆さんに大切な『見取り稽古』のアドバイスです」
影安先生は、優しく、しかしどこまでも深い瞳で全員を見渡した。
「技を見る時は、技をかけた私だけの動きを見るのではありません。技を『かけられた人』の身体の連動、崩れ方、そして抵抗の逃げ方を見るのです。技の受け手の肉体が、どのように重心を奪われているか。全体を俯瞰して見るのもいいでしょう。自分なりのテーマを持って、その理合を視るのもいい。……さあ、かかってきなさい!」
「押忍ゥゥゥッ!!! トップバッターは自分がいただきますッ!!!」
大文字鉄平が、雄叫びを上げながら畳を爆音(ドガァァン!)と踏み鳴らした。彼は丹田に猛烈な魔力を込め、自身の能力『剛体』を全開にして、120キロの筋肉の塊と化した肉体で、弾丸のように影安先生へと突進した。その勢いは、文字通り軽自動車がノーブレーキで突っ込んでくるに等しい暴力的な質量だった。
「ふむ、相変わらず素晴らしい突進力ですね」
影安先生は、大文字の拳が鼻先に迫るその刹那まで、完全に脱力したまま佇んでいた。そして――。
「シュッ、フッ」
一切の力感のない、驚くほど滑らかな最小限の体捌き。
大文字の凄まじい突進の軌道が、影安先生の衣服の擦れるほどのわずかな旋回によって、吸い込まれるように逸らされた。
「ぬおっ!? 押忍ぅぅぅっ!?」
大文字は、自身の放った規格外の推進力を全く制御できなくなり、そのまま畳の上を「ズドォォォォォンッ!!!」と、地鳴りを立てて派手に転がり、壁に激突しかけた。
「な、何が起きたッスか……!? 先生、触れてすらいないように見えたッスよ!?」
佐藤陽翔が、S+級の魔力操作能力による高い動体視力を全開にしながらも、冷や汗を流して驚愕した。
「いいえ、佐藤くん。先生は大文字くんの手首のわずかな魔力の流れに、自身の最小限の円の軌道を『合わせた』のですわ。作用と反作用の方向性を、体捌きだけで完全にすり替えていらっしゃいます」
南原紗良が、眼鏡の位置をクイッと押し上げながら、驚異的な数理分析の速度でその理合を看破した。目を凝らす彼女の正中からは、昨日習得した黄金の光柱が静かに立ち昇り、感覚を極限まで拡張している。
「次、俺が行きます!」
主将の門蒼真が、低く鋭い踏み込みで間合いを詰めた。大文字のような力任せの突進ではなく、合気武道の神髄である「崩し」の型を完璧にトレースした、重厚にして隙のないアプローチ。門の手のひらが、影安先生の胸元を捉えようとしたその瞬間。
「サッ、クルッ、ストン」
影安先生の右手が、門の手首を下からフワリと掬い上げた。それだけだった。
だが、門にとっては、自分の身体の中心(正中)の重力が、突然真横へと引っくり返されたかのような錯覚に襲われた。
「くっ……あ、足が……ッ!」
門の屈強な肉体から余計な力が完全に抜かれ、抗う術もなく、畳の上へと「バタンッ!」と、綺麗に仰向けに沈められた。一切の衝撃を感じさせない、芸術的なまでの合気投げ。
「素晴らしい崩しでしたよ、門くん。ですが、わずかに肩の筋肉に『持子くんへの未練』のような力みがありましたね」
「うぐっ……! 反論の余地がありません……!」
門が、仰向けのまま悔しそうに歯を食いしばる。高橋玲央との不純異性交遊の進展の遅さを指摘されたかのような(実際は違うが)微妙な表情で起き上がった。
「お前ら、情けないッスね! 遊撃手の俺が、背後から一瞬で仕留めてみせるッス!」
佐藤陽翔が、持ち前の俊敏性と黒い霧の手の魔力を無意識に応用し、影安先生の完全な死角である背後へと、音もなく高速で回り込んだ。
(勝った……! 視界の外からの逆襷ッス!)
佐藤の腕が、影安先生の首筋に絡みつこうとしたその瞬間。影安先生は振り返ることすらなく、ただ、ほんの数センチだけ、首の角度を「スッ」と傾けた。
「へ? あぶっ――!?」
佐藤の首を絞めるはずの腕が、影安先生の頭部の傾きによって生まれた空間に滑り込み、逆に自身の重心が前方に大きく投げ出された。
「バァァァンッ!!!」
佐藤は、自分自身の突進の勢いのまま道場の天井を綺麗に仰ぎ見る形で、背中から盛大に畳に叩きつけられた。お湯の中に沈められた時と同等の、凄まじい衝撃(ただし怪我はない)。
「ハァッ、ハァッ……! クソ、本当に化け物ッスね、あの先生……!」
佐藤が、痛む背中をさすりながら這い上がる。
その後も、朝食までの短い時間、部員たちは次から次へと死に物狂いで影安先生へと突撃していった。
阿部凛花が180センチの長身を活かしたしなやかな連撃を放つが、フワリと風に舞う木の葉のようにかわされ、高橋玲央の寸分の狂いもない完璧な突きは、最小限の掌打によって軌道を逸らされ、南原紗良の鋭い関節の狙いは、逆に指先一本の誘導で畳に転がされた。
一年生たちも、その圧倒的な実力差に圧倒されながらも、必死に見取り稽古に集中していた。
「すごい、すごいですぅ……! 影安先生、まるで最初からそこに『いない』みたいに、お湯みたいにサラサラ流れていきますぅ……っ!」
雨宮千歳が、はち切れんばかりのIカップの胸を揺らしながら、目を皿のようにして影安先生の体捌きを視つめていた。
「阿部お姉さまが投げられた瞬間の、あの足首の角度……。先生は、お姉さまの嫉妬の電撃の魔力が発動するよりも早く、神経の伝達を遮断する位置に重心を置いていらっしゃいますわ!」
神品蘭が、凛花の受け身の瞬間の肉体の連動をノートに書き留める勢いで凝視する。
「フッ……美しき達人の残像。僕の千里眼でも、先生の着物のシワの動き一つ一つが、すべて次の技への完璧な伏線になっているのが見えるよ」
桐生蓮が、驚異的な集中力でその動きを脳内ハードディスクにダンプしていた。
「陽翔センパァイが投げられる姿も、無様だけど最高にセクシーで愛おしいわぁ♡ でも、先生のあの手の内の返し方、変身能力の骨格変化の参考になるかも……!」
桃井琉生も、男の娘としての愛情を滾らせながら、冷徹にその技の理合を盗もうとしていた。
投げられ、転がされ、体捌きでかわされ続ける十人。
しかし、彼らの瞳には、一昨日までの絶望のパルフューム(香気)はなかった。昨日、本多鮎とルージュによって叩き込まれた「光の柱」と、内なる闇の循環の感覚。それによって、影安先生に投げられる度に、「なぜ崩されたのか」「自分の肉体のどこに無駄な力が入っていたのか」という武のパズルが、驚くべきスピードで脳内で解き明かされ、吸収されていく。
技をかける側だけでなく、かけられた側の崩壊の美学を見る。その影安のアドバイスは、彼らの「武の器」を爆発的に押し広げていた。
「――はい、そこまで。素晴らしい集中力でしたよ、皆さん。……ちょうど時間ですね。朝食にしましょう」
影安先生が、額に一滴の汗すら浮かべることなく、パチンと綺麗に柏手を打った。その音とともに、道場を満たしていた圧倒的な覇気が、嘘のようにスッと消え去り、いつもの植物好きの穏やかなおじさんに戻った。
「ハァ、ハァ……! あ、ありがとうございました、先生……っ!」
主将の門を筆頭に、全員が汗だくになりながらも、かつてないほどの充実感を胸に深々と頭を下げたのだった。
――場面は変わり、午前七時。食堂。
過酷極まる朝稽古を終え、猛烈にお腹を空かせた部員たちが食卓に着く中、厨房からは、なんとも言えない、どこか懐かしく、そして香ばしい「家庭の香り」が漂ってきていた。
ガラララ……と厨房の扉が開き、現れたのは――。
トレードマークのネイビーのサーフパンツの上に、ピンク色のフリル付きエプロン(本多鮎の私物)という、あまりにも凄まじいカオスな格好をした佐藤陽翔だった。
彼の目の下には、前夜に鮎先輩とルージュから受けた、アホすぎる性癖の看破と、それにつづく地獄のお料理教室のスパルタ指導による、見事な睡眠不足の隈が刻まれていた。
「……お、お待たせしたッス。前夜の約束(罰ゲーム)通り、俺が一人で心を込めて作った、合気武道部・漢の特製朝食メニューッス……」
佐藤が、フラフラの足取りで、十人分のトレイをテキパキと配膳していく。
食卓に並べられたのは、極めてシンプルで、王道を行く日本の和朝食だった。
・ふっくらと焼き上げられた、塩鮭の切り身(少し皮目が焦げている部分もあるが、脂がジュワジュワと美味しそうに浮いている)。
・黄金色に輝く、出汁の香る卵焼き(形がちょっと歪で、巻き目が不揃いなところもあるが、お箸で押すと出汁がジワッと染み出す)。
・豆腐とワカメ、そして長ネギがたっぷり入った、特製のお味噌汁。
・小鉢に盛られた、シャキシャキの和風フレッシュサラダ。
「ほう……」門蒼真が、目の前に置かれた朝食を見て、無骨な声を漏らした。「本当に、一人で十人分を完成させたのだな、陽翔」
「当たり前ッスよ。俺を料理のポンコツと一緒にするなッス。……まぁ、形はちょっと崩れてるし、鮭も少し焼きすぎたところがあるけど、味は保証するッスよ」
佐藤が、エプロンの端をぎゅっと握りしめながら、照れくさそうに顔を背けた。
「……それでは、いただきますわ」
完璧主義者の高橋玲央が、恐る恐る、しかし優雅な動作でお箸を持ち、まずは黄金色の卵焼きを一口、口へと運んだ。
モグモグ、モグッ……。
「――まぁ……っ!」
玲央の眼鏡の奥の瞳が、パッと驚きに変わった。
「形は少し不揃いで、食事としては美しさに欠けますけれど……。この卵焼き、お出汁の旨味と甘さ、そして塩気のバランスが、完璧な型のように絶妙に調和していますわ! 佐藤くん、不器用な割には、仕込みの型をしっかり守れていますのね!」
「マジっスか!? 玲央に型を褒められるなんて、光栄ッス!」
「どれどれ、私も……。モグッ」
続いて、ツンデレ頭脳派の南原紗良が、佐藤特製のお味噌汁をスルスルと啜った。
「っ!? ……お、美味しいです……。鰹と昆布の出汁の比率が、数理的に計算されたかのように完璧で、身体の芯まで優しく染み渡ります……。べ、別にあんたのために褒めてるわけじゃないし、覗きの罪が消えたわけでもないけれど……料理のクオリティとしては、及第点以上を差し上げてもよろしくてよ」
南原が、顔を真っ赤にしながら不器用にツンツンと、しかし嬉しそうにおかわりを要求した。
「美味いじゃん、陽翔! この鮭の焼き加減、皮がパリパリしてて最高にご飯が進むよ! デリカシーは皆無だけど、料理のセンスだけはあるんじゃない!?」
阿部凛花が、180センチの長身を揺らしながら、大盛りのお皿をご飯とともにバクバクと平らげていく。
「うむ。美味いな、陽翔。お前の、昨夜の底知れぬ反省の心と、持子先輩への邪念を振り払おうとした執念が、この優しい出汁の味にしっかりと凝縮されているぞ。漢の味がする」
門が、真面目な顔で深く頷きながら、味噌汁を豪快に飲み干した。
「門、お前、さっきから余計な一言というか、オブラートの包み方が絶望的に下手くそすぎるッスよ! 静かに食えッス!」
佐藤の鋭いツッコミが飛び、食卓からドッと笑い声が湧き起こった。
一年生たちも、大喜びで佐藤の朝食に舌鼓を打っていた。
「すっごくおいしいですぅ! 佐藤先輩の作ったご飯を食べたら、朝稽古の疲れがスッと消えて、身体の中から元気が湧いてきますぅぅっ!」
雨宮千歳が、ご飯を口いっぱいに頬張りながら、守られたことへの感謝を込めて、優しくふわりと微笑んだ。その姿に、佐藤は鼻の下を伸ばしかけて南原に睨まれた。
「陽翔センパァイ♡ こんなに美味しいご飯が作れるなんて、ますますわたしの理想の旦那様になっちゃうわぁ♡ 今夜はわたしの手作りスタミナドリンクとお返し(お尻への愛のタッチ)を受け取ってねぇん♡」
桃井琉生が、少女の姿のまま熱烈なキッスを飛ばす。
「来るな桃井ィィッ!! 手伝いだけしろって言っただろうがッッ!!」
「押忍ッ! 佐藤先輩の男飯、大胸筋が美味さのあまり歓喜のスクワットを始めておりますッ! 自分、ご飯五杯おかわりさせていただきますッッ!」
大文字鉄平が、凄まじい速度で炊飯ジャーの中身を空にしかけていた。
「ふふっ。皆様、大絶賛のご様子ですわね」
食堂の奥の壁に寄りかかりながら、本多鮎が、ピンク色の瞳を優しく細めて微笑んでいた。
「当然ですわ。わたくしとルージュが、昨夜の厨房で、深夜の二時までこのサルの手首の角度を『調教』いたしましたもの。ご主人様(持子様)の愛した合気武道部の後輩たちが食べるご飯ですもの、不味いものなど絶対に許しませんわ」
「本当に、そのクズ変態男子高校生のオナニーの思い出を、お出汁の取り方に昇華させるなんて、マスター(鮎)もご主人様も甘すぎますわ。まぁ、わたくしのスパルタ指導の型をこれだけ再現できたのですから、今日のところは合格点をあげてもよろしくてよ」
ルージュも、黒い扇子をパタパタと涼しげに煽りながら、気高きポーカーフェイスの裏で、満足そうにフッと口元を緩めていた。
「……あー、本当に、みんなに美味しいって言ってもらえて、よかったッス……」
佐藤陽翔は、エプロンを外し、温泉での惨劇から一転して、心の底から救われたような、最高の笑顔を浮かべて喜んでいた。睡眠不足の疲れすら、今は最高の青春の勲章のように思えた。
窓の外を見上げれば、氷川神社の深い森の上には、遮るもののない広大な五月の青空が、どこまでも爽やかに、そして青々と広がっている。
過酷を極めた地獄の修行、限界を超えて手に入れた真の武の器、持子の残した温かい絆、そして、この騒がしくて愛おしい合気武道部の最高の仲間たち。
彼らの放つ、どこまでも真っ直ぐで温かい笑い声は、新緑の風に乗って、初夏の眩しい光の中へと、どこまでも高く、どこまでも響き渡っていくのだった。




