【黄金の石狩鍋と、魔王の許し、そして秘密の厨房】
【黄金の石狩鍋と、魔王の許し、そして秘密の厨房】
「――ゴゴゴゴゴゴ……」
私立聖ミカエル学園合気武道部、夏合宿の最終日の夜。
氷川神社の奥に位置する、重厚な木造の食堂には、凄まじいまでの食欲の熱気と、芳醇きわまりない「ある香り」が縦横無尽に充満していた。
昼間の過酷極まりない修行――影安壮三先生による極限の筋肉破壊から、本多鮎先輩の神聖なる禊、そしてルージュの命懸けの安全弁による「光の神術」の基礎習得。さらには、夕暮れの天然温泉での心身のデトックス(&二人の男子への苛烈極まる制裁)を終えた十人の部員たちは、すっかりお腹をペコペコに空かせて、長い食卓を囲んでいた。
だが、彼らが箸を動かす直前、主将の門蒼真が、スマートフォンの画面を凝視しながら、なんとも言えない複雑な表情で深いため息をついた。
「……おい、お前ら。大変言いにくいのだが、影安先生から先ほど連絡が入った」
「ゲホッ!? 影安先生、まさかまた何かやらかしたんッスか!?」
全身に女子陣からの制裁の痛みを残しながらも、お腹の虫をグーグーと盛大に鳴らしていた副主将の佐藤陽翔が、敏感に反応して身を乗り出した。同級生でありながら主将として部を引っ張る門に対し、佐藤はいつものように呼び捨てる。
「うむ。連絡によると……『素晴らしい霊脈の乱れを発見して追跡していたら、山の中腹で完全に方向感覚を喪失した。非常に心地よい夜風なので、今夜はここで野宿する。朝にはひょっこり帰るから心配するな。糖分が足りないので、リュックの中の羊羹を食べる』とのことだ」
「「「「「また遭難してる(ッス)よ、あの人ーーーーーッッ!!!!」」」」」
食卓全体から、一斉に容赦のない総ツッコミが炸裂した。
「フッ……合宿の度にお約束のように遭難するとは、我が部の顧問ながら、ある種の高潔なエンターテイナー性を感じるね。僕の美しい千里眼でも、夜の暗黒の山中に潜む先生の正確な位置までは見通せないよ。まあ、羊羹があるなら凍死はしないだろうけれど」
ボタニカル柄の水着から真新しいジャージに着替えた桐生蓮が、キザに髪をかき上げながら、お腹をさすって苦笑いする。
「押忍ゥゥッ! 影安先生は、大自然の過酷な環境に身を置くことで、ご自身の『剛体』をさらに極限まで練り上げようとなされているに違いありませんッ! 羊羹の糖分は大胸筋のガソリンッ! 自分も負けていられませんッッ!」
大文字鉄平が、一人だけ完全にズレた熱血モードで大胸筋をピクピクとパンプアップさせた。
「大文字くん、ただの方向音痴の遭難だから、美化しなくていいわよ。……あーあ、あのポンコツおじさん、本当に放っておくとそのうち野生の熊にでも育てられそうね」
阿部凛花が、180センチの長い手足を畳の上で投げ出しながら、呆れたように笑う。
「ふふっ、皆様、遭難した影安先生のことはどうぞお気になさらず。山神の加護がある達人ですから、そう簡単にはくたばりませんわ」
ガラララ……と、食堂の引き戸を開けて入ってきたのは、ピンク色の美しい髪を揺らした本多鮎だ。その後ろには、豪奢なゴシックドレスの裾をパタパタと揺らしながら、大きな木箱を抱えた吸血鬼のルージュが、やれやれとため息をつきながら従っている。
「さあ! 合宿最後の夜を飾る、皆様のための特別なディナーの準備が整いましたわよ! ルージュ, お出ししなさいな!」
「御意、マスター。……まったく、わたくしの高貴な魔力を、このような巨大な土鍋の保温に使うなんて、本当に人使いが荒いですわ」
ルージュがブツブツと文句を言いながら、食卓の中央にドスン!! と、特大の萬古焼の土鍋を設置した。
「パカッ!」
鮎がその大きなフタを勢いよく開け放った、その瞬間。
「「「「「――ッッ!!!!」」」」」
ジュワァァァァァァッッ!!! という、濃厚な湯気とともに、食堂内の空気が一瞬で『至高の香気』に塗り替えられた。
白味噌と赤味噌を絶妙にブレンドした、コク深く甘やかな香り。そこに、ジュワリと溶け出す濃厚な高級バターの風味、食欲を極限までそそる香ばしい鮭の脂、それから新鮮なキャベツや玉ねぎ、長ネギの甘い匂いが渾然一体となって、部員たちの嗅覚を暴力的なまでに蹂虙した。
「こ、これは……ッスか!?」
佐藤陽翔が、あまりの美味そうな匂いに目を極限まで見開いて、ゴクリと大量の生唾を飲み込んだ。
「お、おおおお……っ! 黄金色に輝く、この圧倒的なビジュアル……!」
門蒼真が、温泉の中に頭を沈めていた時のシュンとした表情から一転し、ストイックな武道家の顔に戻って、その土鍋を凝視した。
「ふふん、そうですわ! これぞ、かつて皆様の絶対的な主宰であり、北海道出身であらせられた我が偉大なるご主人様――魔王・恋問持子様が愛してやまなかったソウルフード! 本場仕込みの『石狩鍋』ですわよ!!」
鮎が、ドンと胸を張って、圧倒的なタレントオーラを放ちながら高らかに宣言した。
「ご主人様から、去年の夏合宿で皆様と一緒に食べた、最高の思い出の鍋の話を聞いていましたの。ですから、この私が特別に、最高級の鮭と特製のブレンド味噌、そして霊脈の湧き水を使って再現いたしましたわ!」
「うわああああああんッッ!!! これだよ、これこれ!!! 去年の夏、神様(持子様)が『わしのソウルフードを食え!』って言って、大騒ぎしながらみんなで作った伝説の鍋じゃん!!」
阿部凛花が、一瞬で一年前の思い出を蘇らせ、大きな瞳を潤ませながらバンザイのポーズをとった。
「ええ……っ。完璧な型を誇る私としたことが、この香りを嗅いだだけで、去年の楽しかった思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡りますわ。門くんの、数少ない『得意料理』でもありましたわね」
高橋玲央が、洗練されたお嬢様口調を少し興奮で上気させながら、門をチラリと見つめた。
「うむ。……この鍋の味噌と鮭の比率、そしてバターを投入する絶妙なタイミング……。持子先輩の味が完全に再現されている。本多先輩、素晴らしい完成度だ」
門が、感極まったように拳を握りしめ、熱い視線を土鍋に向ける。
「計算式に基づいた栄養バランス、視覚的な色彩の調和……完璧な構成です。本多先輩、ありがとうございます」
南原紗良も、眼鏡の奥の瞳をキラキラと輝かせながら、早くも箸を両手で握りしめていた。
二年生たちが大喜びで歓声を上げる一方で、一年生五人は、どこかキョトンとした表情で、互いに顔を見合わせていた。
「あのぅ……佐藤先輩。石狩鍋って、そんなに凄いものなんですぅ……? わたし、東京育ちだから、鮭の入ったお味噌汁みたいなものかなって、あんまり馴染みが無いんですけど……」
雨宮千歳が、ジャージの上からでも隠しきれないIカップの胸を揺らしながら、オドオドと尋ねた。
「そうですね……僕も、フレンチやイタリアンなら馴染みがあるけれど、北海道の郷土料理というのは、いささか野暮ったい印象があるよ」
桐生蓮が、お腹を鳴らしながらもキザに呟く。
「はぁい♡ わたしも、ダイエット中のモデル体型としては、お味噌のカロリーがちょっと気になっちゃうかもぉ♡」
桃井琉生が、人差し指を頬に当てて首を傾げる。
「お前ら、四の五の言わずに、まずは一口食ってみるッスよ! 持子先輩のソウルフードを侮ると、マジでバチが当たるッスからね!」
佐藤が、テキパキと一年生たちの取り皿に、グツグツと煮え立つ鮭の切り身、ホクホクのジャガイモ、長ネギ、そして濃厚な味噌スープを盛り付けて手渡していく。
「あ、ありがとうございますぅ……。それじゃあ、いただきます……。モグッ……」
雨宮千歳が、ふーふーとお湯を吹きながら、鮭とスープを小さな口に運んだ。
その瞬間――。
「「「「「――っっっっ!!!!」」」」」
一年生全員の動きが、完全にフリーズした。
千歳の黒縁眼鏡の奥の瞳が、カッと見開かれる。
「おいしい……っっ!! おいしすぎますぅぅぅぅっっ!!!! 何ですかこれ、鮭が口の中でとろけて、お味噌のコクとバターのまろやかさが、破壊的な規模で脳天を突き抜けていきますぅぅぅっっ!!」
「な、何だって……!? どれ、僕も……。パクッ。……!! フッ……なんてことだ、大自然の荒々しい旨味が、僕の洗練された味覚の回路を完全にジャックしてしまったよ。美しき邪道だ……!」
桐生蓮が、あまりの美味さに額を押さえてよろめいた。
「んまーーーいッッ!!! これ、全然カロリーとかどうでも良くなっちゃうくらい、濃厚でクセになる味よぉぉぉ♡ 陽翔センパァイ、おかわりぃっ!」
桃井琉生が、少女の声をさらに弾ませてお皿を突き出す。
「押忍ゥゥッ!!! 自分、この味噌の濃厚な塩分が、細胞の一つ一つに染み渡るのを感じますッ! 大胸筋が、大胸筋が美味さのあまり歓喜の悲鳴を上げてとろけておりますッッ!!」
大文字鉄平が、凄まじい勢いでハグハグとジャガイモを口に放り込み、涙目を流して感動を叫んだ。
「お姉さま! このお鍋、すっごく美味しいです! 持子先輩って、こんなに素晴らしいものを食べて育ったんですね!」
神品蘭も、黒髪を揺らしながら嬉しそうに阿部に微笑みかける。
「そうでしょう、そうでしょう! さあ、遠慮せずにどんどん食べなさいな!」
鮎が満足そうに高笑いし、食卓は一気に、凄まじい勢いでの争奪戦へと発展した。
「門、その鮭のハラスの部分、俺にくれよ」
「あ、ああ、陽翔。ほら、一番脂の乗ったところだ」
「佐藤くん、そこのキャベツを取ってください。……べ、別にあんたに取ってほしいわけじゃなくて、位置的に近いから言っただけですけれど」
「はいはい、紗良ちゃんツンデレごちそうさまッス! ほらよ!」
バシャバシャ、モグモグ、フーフー、ジュルリ。
食堂内には、十人の高校生たちが放つ、圧倒的な生命の咀嚼音と歓喜の声が響き渡り、特大の土鍋の中身は、あっという間に空っぽになってしまった。
「ふぅ……。最高の第一幕でしたわね」
鮎が、空になった土鍋を見下ろして、不敵にニヤリと妖しく微笑んだ。その瞳が、極黒の魔力と光の神術の合一を思わせる怪しい光を放つ。
「何ですか、第一幕って……?」
佐藤が、お腹を満てて一息ついたところで、鮎の不穏な言葉に首を傾げた。
「ルージュ、二の丸の重箱をお出ししなさい!」
「御意。……さあ、皆様、これが去年の夏、あの暴君あらせられた持子様が思いつきで創り出した、理不尽なる贅沢の極みですわ」
ルージュが、影の中からさらに巨大な、キンキンに冷やされたステンレス製の特大タッパーを取り出し、食卓にドン! と置いた。
そのフタが開けられた瞬間、一年生たちから「ひゃあああっ!?」という、今日一番の絶叫が上がった。
中に詰まっていたのは、夕日の光を浴びてルビーのように真っ赤に、そして妖しく煌めく、山盛りの――最高級『いくらの醤油漬け』。さらに、丸ごと剥かれた大ぶりの生ホタテ、溢れんばかりのタラバガニの脚、外から輸送された濃厚なウニの塊が、これでもかとギッシリと詰め込まれていたのだ。
「鮎先輩、まさかこれ……ッスか!?」
佐藤が、ゴクリと喉を鳴らし、最高の予感に冷や汗を流す。
「ええ! 味噌スープを追加して……ここに、この北海道の海の幸を、これでもかと全投入いたしますわ!!」
鮎がトングを掴み、ドササササササササッッッ!!!! と、贅沢な海の幸を、グツグツと煮え立つ味噌鍋の海へと、容赦なく、豪快にブチ込んだ。
鮭の味噌鍋の中に、大量のいくらとウニとカニが溺れていく、あまりにも前衛的で変化に富んだ、暴力的なビジュアル。
「ひ、ひええええええっっ!? お鍋の中にいくらを入れるなんて、そんなの完全に邪道ですぅぅぅっっ!! 贅沢すぎて罰が当たっちゃいますぅぅぅっっ!!」
雨宮千歳が、その光景に恐怖(と食欲)でガタガタと震えながら叫んだ。
「型を……お鍋の伝統的な型を完全に無視していますわ……! だけど、なんという圧倒的な存在感……! この鍋、一杯で一体お値段がいくらするんですの……!? 計算するのも恐ろしいですわ!」
高橋玲央が、眼鏡をずらしながらその圧倒的な美の暴力に驚愕の声を上げる。
「夢の鍋か、あるいは究極の邪道か……。ですが、数理的な確率論から言えば、この組み合わせが『不味いわけがない』のです……っ!」
南原紗良が、生唾を飲み込んで断言した。
「美味しければ、すべてが正義ですわ!! さあ、持子様流・贅沢邪道石狩鍋、狂ったように食べ尽くしなさいな!!」
鮎の号令とともに、第二ラウンドのゴングが鳴り響いた。
「パクッ……うおおおおおおおおおっっ!!! 旨味の核爆発が起きたッス!! 味噌バターを吸ったホタテと、プチプチ弾けるいくらの濃厚なコクが混ざり合って、美味すぎて脳の血管がちぎれるッス!!」
佐藤陽翔が、お皿を抱えて狂ったようにスープをスルスルと啜り、鮭といくらを同時に口に運んで叫んだ。
「美味い……美味すぎる……っ! 持子先輩、あなたはやはり、偉大なる魔王だった……!」
門蒼真も、主将のプライドを完全に投げ捨て、カニの身をむさぼり、ウニの溶けた濃厚なスープを豪快に喜びとともに飲み干していく。
「お姉さま! いくらが、お鍋の中で少し白くなって、それがまたモチモチして最高に美味しいです!」
「本当ね、蘭ちゃん! これぞ魔王の晩餐よ! 食べる手が止まらないわ!」
阿部と神品が、キャッキャと大騒ぎしながら海の幸を貪る。
食堂内は、完全に理性を失った食欲の戦場と化していた。
美味しければ正義! 不味いわけがない!
最高級の食材たちが、味噌とバターという最強の舞台で完璧に調和し、十人の胃袋へと次々に吸い込まれていく。
それから約一時間後。
「……ハァ……。もう……一歩も、一ミリも動けないッス……」
長い食卓の周囲には、完全に限界まで食べ尽くし、パンパンに膨らんだお腹を抱えて畳の上に大の字になって倒れ込んでいる、死屍累々(ただし、全員が至福の表情)の部員たちの姿があった。
大文字鉄平ですら、「押忍……自分の、胃袋のパンプアップが……限界突破であります……」と呟いたまま、ピクリとも動かなくなっている。桐生蓮にいたっては、美味さの衝撃と満腹感で、白目を剥いて美しく気絶していた。
騒がしかった食堂が、ようやく静かな夜の静寂を取り戻した、夜の十時過ぎ。
部員たちがそれぞれの部屋へと戻り、あるいは静かに休んでいる中、食堂の片付けを一人でトホホな顔でこなしていた佐藤陽翔は、大きな厨房へと向かった。
厨房の奥では、シックな私服に着替えた本多鮎が、明日の朝食の確認のために、一人で静かに佇んでいた。
「あの……鮎先輩」
佐藤が、少し緊張した様子で、おずおずと声を掛けた。
「あら、佐藤くん。どうなさいましたの? お片付けは終わりましたかしら?」
鮎が、ピンク色の瞳を優しく細めて振り返る。
「はい, なんとか終わったッス。……それで、ちょっと相談というか、明日からの『食事当番』のことで、俺、どうすればいいか分からなくて……。明日の朝食のメニューとか, 仕込みの方法とか、教えてほしいんッス」
佐藤が、ガリガリと頭を掻きながら、情けない声を漏らした。
鮎は、不思議そうに綺麗に整えられた眉をハの字に曲げた。
「おや? どうしてあなたがそんなことを気にするのかしら? 食事当番は本来、みんなで交代で行うはずですし……。それに、あなた一人で担当するような雰囲気でしたけれど?」
「うぐっ……」
佐藤の顔が、一瞬で引き攣った。温泉での、あの凄惨な記憶が脳裏をよぎる。
「いや、実は……その……。完全に俺の自業自得なんですけど、罰で、最後の1日は俺が一人で全員分の食事当番をすることになっちゃったんッス……」
「お仕置きの罰?あなた、一体何をしでかしましたの?」
鮎が、楽しそうにクスクスと笑いながら問い詰める。
佐藤は、覚悟を決めて、小さな声で白状した。
「……一年前の夏合宿の時、俺……門と一緒に、女子風呂を覗き見しちゃったんッス。それが、さっきの露天風呂の会話の勢いで、女子たちに完全にバレちゃって……。それはもう、エグい制裁を受けた挙句、この罰ゲームを言い渡されたんッスよ……」
「(シーン……)」
一瞬の沈黙の後。
「――アハハハハハハハハハッッッ!!!!」
厨房内に、鮎の鈴を転がすような、どこまでも愉しげで高飛車な大爆笑が響き渡った。彼女は細いお腹を抱えて、涙を流しながら笑っている。
「な、何がおかしいんッスか、鮎先輩! 俺はマジで死にかけたし、明日十人分の料理を一人で作らなきゃいけなくて、絶望してるんッスよ!?」
「ひ、ひぃ、お腹が痛いですわ……! アハハハ! そう、ついにバレてしまいましたのね!」
佐藤は、爆笑を続ける鮎の姿に目を丸くした。
「え……? 鮎先輩、まさか……知っていたんッスか?」
「ええ、知っていましたわよ」
鮎は、ようやく笑いを収めると、ふふっと微笑んで涙を指先で拭った。
「去年、合宿が終わって本邸に戻った後、ご主人様(持子様)から直接教えていただきましたもの。ご主人様、『男子の後輩たちが、わしの美しい裸体を必死に覗き見しておったぞ!』って、すっごく嬉しそうにお話しされていましたわ」
佐藤の心臓が、ドクン! と大きな音を立てて跳ね上がった。
「覗かれた日の深夜、ご主人様があなたたち二人を宿泊棟の裏手に呼び出して、仁王立ちで問い詰めたことも、すべて聞いておりますわよ」
鮎の言葉に、佐藤の脳裏に、一年前のあの「深夜の記憶」が鮮烈にフラッシュバックした。
土下座して切腹を覚悟した自分たちに対し、持子は冷徹な覇気を漂わせながらも、ふっと笑って許してくれたのだ。
『男子たるもの、女子の裸を見たいという欲望、わしは嫌いではない。だが、獣のように動くな! 理性を持て。次に同じことをして見つかれば社会的に殺されるぞ。わしは、可愛い後輩の無惨な最期を見たくはないのだ』
「そうッス……」
佐藤が、遠い目をしながら深く息を吐いた。
「あの時、持子先輩はマジで格好良くて、俺たちの欲望を否定せずに『理性を持て』って教えてくれたんッスよ。最後に悪戯っぽく『わしの裸はどうだった?』なんて笑ってくれて……だから完全犯罪だと思ってたのに、まさか今になってバレるなんて……」
佐藤がため息をつくと、その横からルージュが冷やしたハーブティーのグラスを持って、極限のジト目を佐藤に向けた。
「……ちょっと、佐藤。あなた、門が部屋に戻った後、深夜の森に一人で残って、何をいたしましたの?」
「ぶふっ!?」
佐藤の顔面が一瞬で大爆発し、盛大に吹き出した。
「な、何でそこまで知ってるんッスか!?」
「アハハハハ! ご主人様の、あの恐るべき地獄耳を舐めてはいけませんわよ!」
鮎が再びゲラゲラと笑い出す。
あの場を去った持子には、佐藤の奇行がすべて筒抜けだったのだ。
「ご主人様が、私に爆笑しながら教えてくださったのですわ! 『陽翔の奴、わしが去ったあと、蒼真に向かって、わしの裸が綺麗すぎたからこの燃え盛る情熱を解放してから帰る!と言い放ってオナニーしておったぞ! ギャハハハ! 本当に馬鹿で愛いやつよ!』って、涙を流して大喜びされていましたわ!」
「ギャアアアアアアアアアアアッッッ!!!!! 頼むから、鮎先輩の美しい口からパッションとかオナニーとか言わないでぇぇぇぇぇっっ!!!!」
佐藤が、あまりの羞恥心に厨房の床を転げ回って悶絶した。温かい思い出が、一瞬で魔王の地獄耳による性癖の完全看破というアホすぎる真実で上書きされてしまった。
「ふふっ。でも、ご主人様がそれを『面白い』と許し、褒めていらっしゃるのですもの。下僕であるこの私は、一緒に楽しませてもらいますわ」
「鮎先輩……」
佐藤は、その狂信の裏にある、あまりにも徹底され、洗練された「下僕としての優しさ」に、不覚にも少しだけ胸が熱くなるのを感じていた。
「それよりも、佐藤くん」
鮎はパンッと小さく手を叩くと、いたずらっぽく微笑んだ。
「明日の一人での食事当番、今からこの私が、仕込みの準備をしっかりとお手伝いしてあげますわ。料理というのは、前日の下ごしらえさえ完璧に終わらせておけば、当日は型通りに火を通すだけで、あなたのような不器用でも完璧に十人分を作ることができますのよ」
「マジっスか!? 教えてください、鮎先輩! 俺、マジで美味しいもん作ってみんなを驚かせたいッス!」
佐藤が、パァッと顔を輝かせて深々と頭を下げた。
「ちょっと、マスター」
ルージュが、呆れ果てた顔でトコトコと歩み寄ってきた。
「わたくしの高貴な知識を、その変態男子高校生のアホな思い出話と料理の仕込みに付き合わせるなんて、本当にご主人様は甘すぎますわ。さあ佐藤、まずは明日の朝食の、特製お味噌汁の出汁の取り方から始めなさいな!」
「お、押忍ッス! よろしくお願いしますッス!」
鮎の楽しそうな指導の声と、佐藤の真剣な返事が、夜の厨房に優しく響き始める。
――その頃。
厨房の入り口から少し離れた、廊下の暗闇の陰。
そこには、真剣な表情で中の様子を窺っている、複数の人影があった。
「……ふぅ。どうやら、俺たちの出番はなさそうだな」
主将の門蒼真が、腕を組んでホッとしたように小さく息を漏らした。実は、佐藤が料理を全くできないことを心配し、こっそりと手伝うために一年生男子たちを引き連れて様子を見に来ていたのだ。
「押忍ッ! 佐藤先輩、鮎先輩という最高の師範を得て、料理のパンプアップに励んでおられます! 我々が介入するのは、武の理合に反しますッ!」
大文字鉄平が、小声で熱く頷く。
「フッ……美しき師弟の絆。僕の千里眼でも、今の鮎先輩の優しい表情の輝きは、眩しすぎて直視できないよ。邪魔をしたら、明日の特訓で僕の肉体が本当に終焉を迎える気がするね」
桐生蓮も、冷や汗を流しながら静かに後ずさる。
さらに、反対側の壁の陰からは。
「……全く、心配して損をしましたわ。あんなに楽しそうにマンツーマンで指導してもらえるなんて、佐藤くんには、少しお仕置きが軽すぎたかもしれませんわね」
高橋玲央が、眼鏡の位置を直しながら、フンと小さく鼻を鳴らした。
「……いえ、これでいいんです。佐藤くんが、本多先輩からちゃんと基礎を学んで、美味しいご飯を作ってくれれば……それで」
南原紗良が、少しだけ厨房の中の佐藤を羨ましそうに見つめながらも、不器用に微笑んで、玲央の手を引いた。「さあ、私たちも戻って寝ましょう。明日のご飯が、少しだけ楽しみです」
部員たちは、佐藤の奮闘を鮎に完全に任せることを決め、誰一人として邪魔をすることなく、それぞれの部屋へと笑顔で戻っていった。
窓の外を見上げれば、氷川神社の深い森の上には、満天の星空がどこまでも静かに広がっている。
明日の過酷な特訓への期待と、一人で立ち向かう佐藤の料理への挑戦。
合気武道部の、賑やかで、優しくて、どこまでも温かい合宿最後の夜は、秘密の厨房の明かりとともに、穏やかに更けていくのだった。




