【筋肉の終焉と、神聖なる禊】
【筋肉の終焉と、神聖なる禊】
「……はぁっ……現れて……。だ、誰か……俺の腕、切り落としてくれないッスか……」
合宿三日目の昼食時間。
初夏の爽やかな風が吹き抜ける氷川神社の道場には、もはや「生気」と呼べるものは一ミリも残されていなかった。
ある者は大の字に倒れ、ある者は壁に寄りかかったまま白目を剥き、ある者は生まれたての小鹿のようにプルプルと痙攣している。
彼ら合気武道部の部員十人は、完全に限界を超え、生命活動のギリギリのラインを彷徨っていた。
原因は明白である。
三日間にわたる過酷極まりない地獄の修行――初日合気武道の稽古、二日目の合気武道と滝行、本多鮎の理不尽な巨大竹刀による戦闘訓練、そして何より、今日の三日目午前中に影安壮三先生から課せられた『四千回の基礎稽古』。
筋肉を一度完全に破壊し、余計な力みをリセットするという影安の狙いは見事に的中し、部員たちの肉体は文字通り「終焉」を迎えていた。
「……無理ッス……箸が、指が、一ミリも動かないッス……」
副主将である佐藤陽翔は、自身の前に置かれた特盛のカップ麺を絶望的な目で見つめていた。S+級の魔力操作を誇る彼でさえ、極黒の魔力を血液のように無理やり循環させて、かろうじて呼吸を維持している状態だ。麺を啜るための『吸う力』すら、腹筋が拒絶している。
「あ、阿部お姉さまぁ……っ。私、もうダメかもしれません……っ。最期に、お姉さまの胸の谷間に顔を埋めさせて……カハッ」
神品蘭が、這いつくばったままズルズルと阿部凛花の方へにじり寄ろうとするが、あと数十センチのところで力尽き、畳に顔を擦り付けた。
「ら、蘭ちゃん……ごめん、私、いま、背筋がぶっ壊れてて……振り向くことすら、できないの……っ」
普段は長身と完璧なプロポーションでモデルオーラを放つ阿部も、今はボロ雑巾のようにうつ伏せになり、ピクピクと指先を動かすのが精一杯だった。
「うぅぅ……お腹空いたのにぃ……っ。箸を持とうとすると、腕がちぎれそうですぅ……っ」
雨宮千歳は、特大のIカップを畳に押し付けたまま、ポロポロと涙を流している。ビビリで泣き虫な彼女だが、今は恐怖よりも純粋な筋肉痛と空腹が彼女を苛んでいた。
「フッ……美しき僕の肉体が……ただの『痛みを発するオブジェ』に成り下がるとは……。南原さん、今の僕の顔、完璧な角度を保てているかい……?」
「……桐生くん、白目剥いてます。よだれも垂れてます。……あと、話しかけないでください。顎の筋肉を動かすカロリーすら、今の私には惜しいんです」
桐生蓮のキザな問いかけを、南原紗良がタブレットを抱きしめたまま這うような声でバッサリと切り捨てる。極寒のツンデレである彼女だが、今はツンツンするだけの気力すら残っていなかった。
「陽翔センパァイ……♡ わたしに、あーん、してぇ……♡」
男の娘である桃井琉生が、ゾンビのように腕を伸ばして佐藤の足首を掴む。
「ギャアアアッ!? 触るな桃井! 俺の足の筋肉が痙攣するッス!」
「……ええい、騒がしいですわ……。完璧な女優たる私としたことが、カップ麺の匂いを嗅ぐだけで吐き気が……っ。門くん、私に……お水、を……」
高橋玲央が、眼鏡をずらしたまま力なく手を伸ばす。
「……すまん、玲央。俺も今、大胸筋と広背筋が完全にストライキを起こしていて……上体を起こせない……」
屈強な主将である門蒼真でさえ、仰向けのまま亀のように手足をバタバタさせることしかできなかった。
「押忍ゥゥゥ……ッ!!」
ただ一人、大文字鉄平だけが、正座の姿勢を崩さずに気合の声を上げていたが。
「じ、自分の……この大胸筋のパンプアップ……まさに、筋肉が歓喜の悲鳴を……ブフゥッ!」
言い終わる前に、大文字は鼻からカップ麺のスープを吹き出し、そのまま前方に倒れ込んでピクリとも動かなくなった。
誰一人として、昼食のカップ麺を口に運ぶことすらできない。
まさに、死屍累々。筋肉の墓場であった。
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午後二時。
ガラララッ……。
道の引き戸が勢いよく開け放たれた。
「こんにちは〜! 皆様、愛しの先輩が来てあげましたわよ!」
「皆様、お疲れ様ですわ。……あら?」
初夏の眩しい日差しを背に現れたのは、美しいピンク色の髪を靡かせる本多鮎と、ゴシックドレスを纏った使い魔の吸血鬼、ルージュだった。
意気揚々と現れた二人だったが、道場内の凄惨な有様を見て、思わずピタリと足を止める。
「「「…………」」」
畳の上には、伸びきったカップ麺と、完全に機能停止した十人の高校生たちが散乱していた。
「え……これやり過ぎ?!」
「……ちょっと、マスター」
ルージュが、引き攣った顔で扇子を広げ、口元を隠す。
「え、ええ。分かっているわ、ルージュ」
鮎の美しい顔にも、タラリと冷や汗が流れた。
「確かに、影安先生には『彼らが余計な力を使えないように、徹底的に筋肉を壊して、動けなくしてやってください』とはお願いしたけれど……」
「ここまで完膚なきまでに破壊されるとは思っていませんでしたわね。これでは、午後の特訓どころか、息をするだけで精一杯ではありませんの」
狂信的でドSな鮎でさえ、影安壮三という底知れぬ達人の「本気」に、少しだけ引いていた。
「あ、鮎先輩……ルージュさん……助けて、くださいッス……」
佐藤が、掠れた声で助けを求める。
鮎は小さく咳払いをして、パンッと手を叩いた。
「ー、コホン! 皆様、本当によく頑張りましたわね! さすがは影安先生、見事な筋肉の終焉ですわ!」
鮎は無理やりテンションを上げて、道場内に響き渡る声で宣言した。
「でも、ここで寝転がっていても回復はしませんの! さあ、全員起きて! これから『川』に行きますわよ!」
「「「「「かわ……ッスか……?」」」」」
全員の声が見事に重なるが、誰も立ち上がろうとはしない。立ち上がれないのだ。
「立てる者は自力で立ちなさい! いいこと、筋肉が悲鳴を上げている時こそ、冷たい水でアイシングして、同時に魔力で血流を促すのよ!」
鮎の檄が飛ぶ。
「……行くぞ、お前ら。這ってでも行くんだ」
主将の門が、歯を食いしばりながら、生まれたての馬のようにガクガクと震える足で立ち上がった。
「門くん……! ええ、私も……完璧な足取りで……っ」
高橋が、門に寄りかかりながらどうにか立ち上がる。
「押忍ゥゥッ! 自分も、この軋む肉体を……気合で動かしてみせますッ!」
大文字が雄叫びと共に立ち上がり、阿部、南原、佐藤、そして桃井も、互いに肩を貸し合いながら、どうにか二本足で直立した。
しかし。
「無理ですぅっ……! 足の感覚が、全くないですぅっ……!」
「お、お姉さま……私を置いて、先に行ってください……ガクッ」
「僕の美しい足が、完全にただの棒切れに……誰か、タクシーを……」
基礎体力に難のある一年生の雨宮、神品、桐生の三人は、完全に立ち上がる機能を喪失していた。
「……やれやれ。仕方ありませんわね」
ルージュがため息をつき、鮎と顔を見合わせる。
「ほら、神品さん、雨宮さん、桐生くん。私とルージュに掴まりなさい。肩を貸してあげますわ」
「あ、ありがとうございますぅ……っ」
鮎とルージュは、三人の一年生を両脇に抱え、ズルズルと引きずるようにして道場の外へ連れ出した。
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氷川神社の裏手。
深い森の中を流れる、清流の岸辺に到着した十人。
初夏の太陽がキラキラと水面を照らし、景色だけ見れば絶好の川遊びスポットである。
「よし、着いたわね。本当なら全員『禊装束』に着替えてもらう予定だったけれど……今のあなた達には、着替える体力すら残っていないわね」
鮎が、道着やジャージ姿のまま震える十人を見渡した。
「だから、今日は特別よ! その服のまま、川に入りなさい!」
「「「「「ええええええええっ!?」」」」」
佐藤が目をひん剥いて叫ぶ。
「服のまま川に入るッスか!? ただでさえ重いのに、水吸ったら溺れるッスよ!」
「安心なさいな。溺れさせはしませんわ」
ルージュが、どこからともなく太いロープを取り出し、テキパキと部員たちの腰に巻きつけていく。ロープの反対側は、岸辺の太い木にしっかりと結びつけられていた。
「これで流される心配はありませんわ。……さあ、入りなさい」
激流というわけではない。膝下ほどの水深で、子供が川遊びできる程度の穏やかな流れだ。
しかし、全身の筋肉が破壊され、一歩足を踏み出すだけでも全身に激痛が走る今の彼らにとって、その川は『ナイアガラの滝』か『三途の川』に等しい脅威に映っていた。
「死ぬ……これ、本当に死ぬッス……っ!」
「無理ぃぃぃっ! お家帰りますぅっ!」
「四の五の言わずに入る! 肩までしっかり浸かりなさい! そして、足を踏ん張って流されないように耐えるのよ!」
鮎の容赦のない一喝に背中を押され、十人は泣きそうな顔で冷たい川の中へと足を踏み入れた。
ザバァッ……。
「「「「「ぎぃにゃああああああああッッ!!?」」」」」
足先から伝わる、山の湧き水特有の氷のような冷たさ。
それに加えて、常に水が「流れている」ため、体温がみるみるうちに奪われていく。
衣服が水を吸って鉛のように重くなり、悲鳴を上げる筋肉にさらなる負荷をかける。
「ひぃっ、冷たっ! 冷たいッス!!」
「足が……足が持ってかれますわ……っ!」
「押忍ゥゥッ! これが大自然の冷気ッ!!」
十人が腰につけたロープを命綱に、どうにか肩まで水に浸かり、ガタガタと歯を鳴らしながら川底の石を踏みしめる。
その時。
岸辺の茂みで着替えを済ませた鮎が、ゆっくりと川の中へ足を踏み入れた。
「「「「「……っっ!?」」」」」
その姿を見た瞬間、部員たちの時間がピタリと止まった。
鮎が身に纏っていたのは、真っ白な薄手の襦袢と白衣、そして緋袴という、伝統的かつ神聖な『禊装束』だった。
初夏の眩しい太陽の光が、鮎のピンク色の長い髪を透かし、光の輪を作っている。
水に濡れた薄手の白衣が、彼女のダイナマイトなプロポーション――豊満な胸の谷間や、引き締まった腰のラインにピタリと張り付き、官能的でありながらも、同時にひれ伏したくなるほどの『神々しさ』を放っていた。
「す、すげえ……」
佐藤が、寒さも忘れてゴクリと生唾を飲み込む。
「……フッ。まさに、水面に降り立った女神……」
桐生も、死にかけの顔に微かな熱を宿す。
「押忍ゥゥッ! 鮎先輩の御姿、目に焼き付けますッ!」
大文字の鼻の穴が全開になる。
男たちの煩悩が、最高潮に達しようとした――その直後。
ザバァァァァァッ!!
「ひゃぶっ!?」
「冷たッ!?」
容赦のない川の流れが、彼らの体温を奪い、張り詰めていた筋肉に激痛を走らせた。
どんなにエロティックな光景が目の前にあろうとも、人間の身体は「生命の危機」を前にすると煩悩を維持できない。
佐藤たちの脳内をピンク色に染め上げていた煩悩は、氷のような川の流れと共に、あっという間に下流へと押し流されてしまった。
「……ふふっ。煩悩は流し切れたかしら?」
鮎は、十人のちょうど正面に立ち、向かい合うようにして肩まで水に浸かった。
その表情には、いつものドSな笑みではなく、厳かで神秘的な静けさが漂っている。
ジョッキ、と川のせせらぎが響く中、鮎はスッと目を閉じた。
「いいこと、みんな。これより、私が『大祓の祝詞』を奏上します」
鮎の声が、川のせせらぎに負けない、凛とした響きで森に響き渡った。
「大祓の……のりと……?」
高橋が、ガタガタと震えながら聞き返す。
「ええ。意味なんて分からなくていいわ。言葉の通りに理解しようとしなくていい。ただ……私の声に耳を澄まし、私の声に続きなさい。この川の流れに身を任せ、自分の中の『痛み』も『穢れ』も『余計な力み』も、すべて水に流すイメージを持ちなさい」
鮎は静かに両目を閉じ、胸の前で印を結んだ。
そして、透き通るような、それでいて深い力長期を持った声で詠み上げ始めた。
「――高天原に神留り坐す、皇が親神漏岐神漏美の命を以ちて……」
「た、たかまの……はらに……」
佐藤が震える声で復唱する。
「かむづまり、ます……」
阿部も、南原も、全員が必死に鮎の言葉を追いかける。
「八百万の神等を神集へに集へ賜ひ、神議りに議り賜ひて……」
不思議なことが起きていた。
鮎の詠み上げる祝詞の響きが、ただの声ではなく、彼女の持つ『極黒の魔力』と、微かに混じる純度の高い『光の神術』を伴い、波紋のように川の水面を伝わって部員たちに届いていたのだ。
氷のように冷たかったはずの川の水が。
祝詞を復唱するごとに、ジワリ、ジワリと……内側から『温かく』感じられ始めたのだ。
「あれ……? 寒く……ないッス……」
佐藤が、目を丸くして自身の手のひらを見つめる。
「……痛みが……筋肉の悲鳴が、引いていきますわ……」
高橋が、強張っていた表情を緩める。
「すっごく……温かいですぅ……温泉みたいですぅ……」
雨宮が、ほうっと心地よさそうなため息を吐く。
「此く宣らば、罪と言ふ罪は在らじと、科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く……」
鮎の祝詞は、彼らの肉体に蓄積された疲労物質と、無意識に入っていた『余計な力み』を、文字通り川の流れに乗せて洗い流していく。
破壊された筋繊維が、光の魔力によって超スピードで修復され、より強靭でしなやかな『新しい筋肉』へと組み直されていく感覚。
「……っ! これが……極黒の魔力と光の神術による、究極のアイシングと超回復……!」
門が、自身の身体に満ちていく圧倒的なエネルギーを感じ取り、目を見開いた。
「四方の国には罪と言ふ罪は在らじと……祓へ給ひ清め給ふ事を、天津神国津神八百万の神等共に聞こし食せと白す」
鮎が最後の言葉を紡ぎ終え、静かに目を開けた。
ピンク色の瞳が、優しく、慈愛に満ちた光を放っている。
「――はい、そこまで。よく頑張りましたわね」
鮎のその言葉を合図に、部員たちはハッとして我に返った。
そして、彼らは驚愕の事実を突きつけられた。
「う、動く……! 俺の筋肉が、動くッス!!」
佐藤が、川の中で勢いよくバンザイのポーズをとる。
「ええ……っ! 嘘みたいですわ、さっきまで指一本動かすのも地獄だったのに……身体が羽根のように軽いですわ!」
南原が、信じられないというように自身の腕を曲げ伸ばしする。
「押忍ゥゥゥッ!! 自分の筋肉が、完全に生まれ変わりましたッ! 第六形態に突入でありますッ!!」
「阿部お姉さま! 私、今ならお姉さまをお姫様抱っこできます!」
「すごい、すごいよ! 僕の足に、しっかり力が入る!」
大文字、神品、桐生たち一年生も、完全復活を遂げて川の中で歓喜の声を上げていた。
「ふふっ。これが『禊』の力よ」
鮎が、濡れた白衣を気にする素振りも見せず、岸辺へ向かって歩き出す。
「限界まで壊した筋肉を、冷気と魔力、そして言霊によって浄化し、再構築する。……これであなたたちの身体は、影安先生の求める『余計な力みのない状態』の土台が完成したわ」
岸辺に上がると、そこにはすでにルージュが大量の風呂敷包みを用意して待っていた。
「皆様、お見事でしたわ。……さあ、川から上がっていらっしゃいな」
ルージュが、風呂敷を次々と解いていく。
中から現れたのは、真っ白で糊の効いた、真新しい『白衣』『襦袢』『白袴』、そして男子用の『白褌』のセットだった。
「濡れた服は脱いで、今度こそこの禊装束にしっかりと着替えてきなさい。身体の芯は温まっているはずだから、風邪は引かないわよ」
ルージュが、一人一人に真新しい装束を手渡していく。
「お、押忍! ありがとうございますッス!」
「……ええ。なんだか、心がすごくスッキリしています」
「早く着替えて、お腹いっぱいにご飯食べたいですぅ!」
部員たちは、さっきまでの絶望的な表情が嘘のように、晴れやかな笑顔で更衣室代わりのテントへと走っていった。
「……着替えたら、道場に集合よ! これから、私がみっちりと『愛ある指導』をしてあげるから覚悟しなさい!」
鮎のドSな宣告が背中に投げかけられたが、もはや彼らの心に恐怖はなかった。
完全にリセットされ、一段階上の次元へと引き上げられた肉体。
合気武道部の十人は、狂信の先輩からの指導により、さらなる高みを目指して走り出したのである。




