【迷子の達人と、筋肉崩壊からの感覚覚醒】
【迷子の達人と、筋肉崩壊からの感覚覚醒】
5月4日。
チュン、チュン……。
合気武道部のゴールデンウィーク合宿、三日目の朝。
時刻は午前五時半。氷川神社の森は爽やかな初夏の空気に包まれ、朝日が木々の隙間から神聖な光の筋を落としていた。
「……ふわぁぁ……おはようッス……」
「……みんな、よく眠れましたか……?」
佐藤陽翔と門蒼真をはじめとする十人の部員たちは、道着に着替え、本殿裏の広場に整列していた。昨夜の極上バーベキューのおかげで気力は充実しているものの、やはり初日の滝行と戦闘訓練の疲労は完全には抜けていない。
それでも他們は、鮎から叩き込まれた『おもてなしの逆』という新たな戦術理論を胸に、今日の稽古に対する静かな闘志を燃やしていた。
サァァ……。
突然、背後の茂みが揺れた。
ガサガサッ、バキッ。
「……おはようございます」
茂みを掻き分けて現れたのは、影安壮三だ。
しかし、その姿はもはや道場で見せる厳格な顧問のそれではない。マウンテンパーカーは泥だらけで破れ、頭には大量の葉っぱが刺さり、肩には巨大なクモの巣まで引っかかっている。
「……影安先生……? そのお姿は」
佐藤が引き攣った顔で尋ねると、影安は頭に刺さった枝をパパンッと払いながら、何事もなかったかのように微笑んだ。
「ああ。少し道に迷いましたが……なんとか、時間までには帰ってこれましたよ」
「少しってレベルじゃないッスよ! 完全に遭難者じゃないッスか!」
佐藤のツッコミに、大文字鉄平が「押忍ゥゥゥッ! 先生のその満身創痍の御姿……まさに大自然との死闘を制してきた証!」とズレた感動で敬礼するが、阿部凛花が「大文字、先生はただの迷子だから!」と即座に遮る。
影安は、そんな生徒たちのやり取りを微笑ましく見守りつつ、スッと姿勢を正した。その瞬間、彼の纏う空気が『ポンコツ迷子のおじさん』から『S級の達人』へと一変する。
「本日の朝は、昨日と稽古内容を変えます。まずは基本稽古です」
影安は静かに、しかし有無を言わさぬ重圧で告げた。
「木刀の素振り、四股踏み、腕立て伏せ、スクワット。各千回。これを朝食までの二時間半でやり遂げなさい。……ただし、回数はあくまで指標です。届かなくても構わない。限界を超えても、終わりの合図があるまで『やり続けること』を目的とします」
「「「「「……はいっ!?」」」」」
四千回という数字に全員が絶句するが、影安は畳み掛ける。
「昨日、鮎くんとの戦闘で痛感したでしょう。あなた達は、魔力という強力なブースターに頼りすぎている。その結果、筋肉が固まり、無駄な力が入りすぎていた。……だから、まずはその『余計な筋肉』を一度破壊し、リセットするのです」
◆◇◆
「いーちっ! にーっ! さーんっ……!」
開始から二時間。地獄の基礎稽古は、完全な阿鼻叫喚と化していた。
二年生の五人は、昨日の実戦経験がある分、ペース配分を心得ていた。門が四股踏みを、阿部が腕立てを、佐藤が素振りを、淡々と、しかし鬼の形相で繰り返す。
「ふぅっ……ふぅっ……」
門はすでに膝が笑っているが、足裏を地面に食い込ませ、軸を崩さずに踏み続けている。
「……負けないわ。この身体が、明日にはもっと強くなるのを……信じて……!」
阿部も、限界を超えた大胸筋で、必死に腕立てを続けていた。
一方、一年生たちは二年生との実力の差を如実に露呈していた。
「う、ううっ……っ! 木刀が、重いですぅ……っ!」
雨宮千歳は、素振り百回を超えたあたりで肩が上がらなくなり、大文字に支えられながらよろよろと立ち続けている。桐生も四股踏みの途中で完全に腰が抜けて倒れ込み、桃井に至っては「陽翔センパァイ、背中押してぇ……♡」と佐藤の背後にしがみついて動けなくなっていた。
「……時間です」
影安の合図で、十人は地面に崩れ落ちた。
二年生は最後まで回数をこなそうと必死だったが、一年生は目標の三分の一で力尽きていた。
◆◇◆
午前八時。朝食の時間。
「……すまん、みんな。包丁を握る握力も、フライパンを振る腕力も……残っていない」
門の謝罪とともに、十個の『特盛カップ麺』が並んだ。
全員、箸を持つ手がプルプルと痙攣し、佐藤は麺を口に運ぼうとして顔面にビターンと直撃させていた。
◆◇◆
午前九時。
全員、筋肉が硬直し、身体が鉛のように重い状態で再整列する。
「……身体は壊れましたね。では、次は『体捌き』です」
影安はそう言うと、十人に白い手拭いを渡した。
「攻める方も捌く方も、スローモーションで行いなさい。そして、目隠しをしなさい」
「目隠し……ですか?」
高橋が手拭いを受け取る。
「そうです。視覚を遮断し、皮膚で周りを感じ取るのです」
影安は、ペアを組んだ佐藤と南原の前に立ち、ゆっくりと手刀を振り下ろした。
佐藤は目隠しの中、南原の手が空気を切るわずかな微風を感じようと集中する。
「今、肩に力が入ったでしょう」
影安が佐藤の背中を指で突く。
「……っ! ああ、確かに……!」
「そうです。無駄な力が抜けている今だからこそ、その『感覚』を捕まえなさい」
佐藤は改めて集中し、南原の動きを察知した。今度は肩に力が入らない。
「……っ! 今だ!」
佐藤はスローモーションの中で、南原の手のひらの圧力を感じ取り、最小限の回転で捌ききった。
「完璧ですわ、佐藤くん」
「……感覚で、掴めたッス!」
他のメンバーも、もつれながら倒れ込みつつも、確実に『皮膚の感覚』を研ぎ澄ませていく。
それは、昨日鮎から教わった「相手を思い通りにさせない戦術」を支えるための、最も重要な土台だった。
◆◇◆
正午、昼食のカップ麺を啜り終えた頃。
影安が再び登山装備で現れた。
「では、また登山へ。夕食までには戻りますが、もし戻らなくても、明日の朝までには必ず帰るので気にしないでください」
「「「また遭難前提じゃないッスか!!」」」
全員のツッコミに見送られ、影安は出口とは真逆の方角へ歩き出した。
「影安先生、出口はあっちですッ!」と佐藤が叫ぶが、「なるほど、冒険は広いな」と微笑んで森へ消えていく。
「さて……」
空には薄く夕暮れの気配が漂い始めていた。
「午後からは、あの狂信的な先輩たちと、地獄の実戦訓練よ……」
阿部が引き締まった表情で立ち上がる。
十人の部員たちは、筋肉の痛みなど忘れ、影安が植え付けてくれた『感覚』を武器に、午後からの闘いへと身を投じる準備を整えていた。




