【地味で過酷な午後の部! 影安流・体捌きの極意と限界点】
【地味で過酷な午後の部! 影安流・体捌きの極意と限界点】
絶品のスープカレーで極上の幸福を味わったのも束の間。
午後一時。道場には、先ほどの和やかな空気とは打って変わって、ピリッと張り詰めた緊張感が漂っていた。
「いーち、にー、さーん、しっ!」
主将である門蒼真の腹の底から響く号令に合わせ、部員全員が道場に広がり、入念な柔軟運動を行っている。
合気武道の稽古の始まりは、いつだって「地味」だ。
しかし、この地味な基礎の積み重ねこそが、怪異や悪意に立ち向かうための絶対的な土台となることを、二年生は身をもって知っている。
「よし。柔軟はここまで」
門が立ち上がり、道場の中心に視線を送った。
そこには、白い道着と黒袴を身に纏った顧問・影安壮三が、両手を自然に下ろして静かに立っていた。
「まずは『合気投げ』からだ。一年生から順に、影安先生に向かっていけ!」
「押忍ゥゥゥッ!! 先陣、大文字がいかせていただきますッ!!」
大文字鉄平が猛然と飛び出し、丸太のような太い腕で影安先生の胸ぐらを掴みにいく。
しかし――。
「……力みすぎだよ、大文字くん」
影安先生がほんの少し、スッと足捌きを変え、大文字の腕に軽く触れた。たったそれだけ。力など一切使っていないように見えた。
だが、大文字の巨体は自らの突進の力を利用され、まるで木の葉のようにフワリと宙を舞い、ドスゥンッ! と畳に叩きつけられた。
「なっ……!? い、今、何が起きたんスか!?」
「ひぃぃっ! 大文字くんが投げられたぁっ!」
桐生蓮と雨宮千歳が目を白黒させる中、影安先生は淡々とした表情で次を促す。
「さあ、次は誰かな。どんどん来なさい」
その後、桃井琉生、神品蘭、雨宮、桐生、そして佐藤陽翔や阿部凛花たち二年生までもが次々と影安先生に挑み、そして全員が見事に転がされた。摩擦や骨格の弱点、重心の移動を完璧にコントロールする影安先生の神技の前に、魔力や筋力は一切通用しなかった。
◆◇◆
「ここからは俺が指揮を執る。三人一組を作れ!」
影安先生に代わり、門が前に出た。
「これより基本稽古に入る。五本の型を、それぞれ『表』と『裏』の二つの技で行う。計十本だ」
三人一組のローテーション。二人が技を掛け合い、残りの一人はその動きを観察して学ぶ『見取り稽古』の役割を担う。
「手首の返し、重心の移動、円の理を意識しろ! 見取り稽古の者も、ただ休むんじゃない。仲間の動きを見て、自分の脳内で完璧な動きをトレースするんだ!」
「はぁっ、はぁっ……! な、なんて地味で……きついんだ……!」
体力皆無の桐生が、早くも息を上げて膝に手をつく。
「阿部お姉さまの美しい見取り稽古……ああっ、僕の眼福です!」
神品が阿部の動きに見惚れながら、自分の番になると容赦なく佐藤の関節を極めにかかる。
「いだだだだッ! 蘭ちゃん、手首の角度エグいッス! 折れるッス!」
「……佐藤くん、隙だらけです。合気の円が歪んでいますよ」
南原紗良が冷静に指摘しつつ、自身も汗だくになって型をこなしていく。
その横で、大文字が力任せに門を投げようと奮闘していた。
「ふんぬぅぅぅッ!! あれっ? 門先輩、重くてビクともしないッス!」
「大文字! 腕の力だけで無理やり持っていこうとするから、重心が完全に浮いてブレているんだ! 丹田に意識を落として、足腰と連動させろ!」
「押忍ッ! 頭では分かっていても、どうしても力が入ってしまうであります!」
「わたしもぉ……足元がおぼつかなくて、フラフラしちゃいますぅっ……」
雨宮も自身の重心をコントロールできず、技を掛ける前にバランスを崩してしまっていた。地味な型の反復が、一年生たちの身体の使い方の未熟さを浮き彫りにしていく。
十本の型稽古が終わり、いよいよ本格的な技の稽古に入るかと思われた、その時だった。
「よし! 次は木刀の素振りだ! 全員、壁際の『鉛入りの木刀』を持て!」
門の指示に、一年生たちがギョッとする。普通の木刀の数倍は重い、鉛が仕込まれた特注品だ。
「目標、千回ッ!!」
「「「「「せ、千回ォォォッ!?」」」」」
桐生が絶望の叫びを上げ、雨宮が「む、無理ですぅっ」とその場にへたり込んだ。
「門くん。少し待ちなさい」
そこへ、道場の隅で見守っていた影安先生が静かにストップをかけた。
「千回はやりすぎだ。……まずは『百回』でいい」
その言葉に、一年生たちはホッと安堵の息を吐いたが、門は納得いかない様子で食い下がった。
「しかし影安先生! 俺たち二年生が去年しごかれた時は、木刀千回、腕立て千回でした! 一年生にも同じ基準を……!」
「門くん。それは『夏合宿』のメニューでしょ。今はまだ五月だ。身体の基礎ができていない段階で千回振らせても、フォームが崩れて怪我をするだけだよ。正しい姿勢で、百回。それができれば今は十分だ」
影安先生の理にかなった合理的な説明に、門は深く頷き、
「……はい」
と、主将として素直に引き下がった。
「よし、影安先生の指示通り、百回だ! その後、四股百回、腕立て伏せ百回、合気武道式のスクワット百回! 休憩を挟みながら行うぞ!」
「うおおおおッ! 百回ですね! 自分、余裕でありますッ!」
大文字が嬉々として鉛入りの木刀をビュンビュンと振り回すが、
「大文字くん、腕の力だけで振っているよ。背中と丹田を使いなさい」
と、すかさず影安先生の的確で厳しい指導が入る。
◆◇◆
過酷な筋力トレーニングを終え、部員たちの体力が削り取られたところで、影安先生が道場の中央へと歩み出た。
「次が、今日の最後のメニューだ。……『体捌き(たいさばき)』を行う」
影安先生の瞳の奥に、静かだが重い威圧感が宿る。
「技の形も大切だが、今回の合宿では、この『体捌き』に主体を置く。どんな強力な技も、相手の攻撃を正確に捌き、自分の有利な位置(死角)に入らなければ意味がないからね」
ここから、時間ギリギリまでの果てしない「体捌き」の反復練習が始まった。
しかし、これが地獄だった。
影安先生の求める精度は、異常なほどに厳しかった。
「佐藤くん。今の避け方は大きすぎる。絶対にかわすことは大前提だが、『かわしすぎるな』」
「えっ? かわしすぎちゃダメなんスか?」
「大きくかわべば、それだけ次の自分の動作が遅れる。相手の攻撃がかすめる数ミリのラインを見極め、最小限の動きで死角に入れ」
「高橋さん。円の動きを意識するのは基本だが、『円に固執するな』」
「円に、固執しない……?」
「直線的な動きの中にも、必ず円は存在する。力のベクトルを無理に回そうとせず、相手の直線を自分の直線で受け流しながら、結果的に円を描くんだ」
頭では理解できても、疲労困憊の身体がそのミクロン単位の要求についていかない。
一年生たちは極限の集中力を強いられ、二年生たちも自らの動きの無駄を削ぎ落とすために脳をフル回転させていた。
「違う、そこだ。……遅い。……もっと力を抜け」
影安先生の静かで적確なダメ出しが、道場に響き続ける。
身体の限界と、脳の処理能力の限界。
地味な動きの反復でありながら、それはどんな激しいスパーリングよりも部員たちの体力と精神力をゴリゴリと削っていった。
「……時間だ。今日はここまで」
影安先生のその声が響いた瞬間。
バタッ……。ドサッ……。
「……ぁぁ……」
「……もう、無理ッス……」
阿部も、南原も、大文字でさえも。
合気武道部の十人全員が、糸が切れた操り人形のように、バタバタと畳の上に倒れ込んだ。
身体の筋肉は悲鳴を上げ、脳は完全にショートしている。
「みんな、お疲れ様」
ピクリとも動けない部員たちを見下ろし、影安先生はふっと穏やかな微笑みを浮かべた。
「最後の一分間……大文字くんも、雨宮さんも、最初の頃よりずっと無駄な動きが削ぎ落とされていたよ。全員、確実に良くなっている。よく頑張ったね」
その温かく確かな称賛の言葉に、限界を迎えていた一年生たちの顔に、ほんのわずかだが「達成感」と喜びの光が広がった。
「……お、押忍ゥ……!」
かすれた声で大文字が返事をし、他の部員たちも嬉しそうに目を閉じて息をつく。
華やかな魔法も、派手な必殺技もない。ただひたすらに己の身体の理と向き合い続けた、地味で、過酷で、そしてあまりにも濃密な午後の部が、こうして幕を閉じたのだった。




