【女王の微笑み】
【女王の微笑み】
ギギィィィッ……。
重厚なマホガニーの扉が、音もなく静かに開かれた。
広大なVIP専用ダイニングルーム。シャンデリアの煌びやかな光の下に、一人の女性が姿を現した。
リュクス・アンペリアルの最高経営責任者(CEO)――エレーヌ・リジュ。
洗練された漆黒のドレスに身を包み、優雅な足取りで歩みを進める彼女からは、ファッション界の頂点に立つ者だけが持つ、圧倒的で気高いオーラが放たれている。
「っ……!!」
阿部凛花は、バネ仕掛けのおもちゃのようにガバッと立ち上がり、直立不動の姿勢をとった。
頭の中は完全に真っ白だ。
「ぼ、ボンジュールッ! ……あ、あぅあああー……ッ」
(ど、どうしよう! 何て言えばいいの!? 『ディナーにご招待いただきありがとうございます』って、フランス語で何て言うの!? 英語!? どっちも絶っっっ対に無理ぃ!!)
言葉が出てこない。顔を引き攣らせたまま、凛花は彫像のように立ったまま完全に固まってしまった。
そんなガチガチの凛花を見て、リジュはふわりと優美な微笑みを浮かべる。
流れるような、音楽のように美しいフランス語が紡がれる。
「Enchantée, Rinka. Je suis Hélène Lige. Le shooting d'aujourd'hui était vraiment magnifique...(初めまして、リンカ。私がエレーヌ・リジュよ。今日の撮影、本当に素晴らしかったわ……)」
リジュは固まっている凛花にゆっくりと歩み寄ると、そのままスッと両腕を広げ、親愛を込めたハグ(ビズ)をした。
チュッ、チュッ、と頬を合わせる柔らかな感触と、高級で上品な香水の香りが凛花を包み込む。
(ひゃあああっ!? は、ハグ!? ど、どうすればいいの!? わたしも抱き返した方がいいの!? 手はどこ!? どう返すのが正解なのぉぉっ!?)
凛花の両手が、空中でアワアワと行き場をなくして彷徨う。
リジュはそんな凛花の様子にクスッと小さく笑うと、優しく肩を叩き、テーブルの席を手で示した。
「Asseyez-vous, s'il vous plaît. Profitons du dîner.(座ってちょうだい。食事を楽しみましょう)」
言葉の意味はまったく分からない。
しかし、そのエレガントな手の動きと眼差しで、「座って」と言われていることだけは理解できた。
(……あ、あれ?)
凛花は恐る恐る椅子に腰を下ろしながら、ぎこちない笑顔を作った。
目の前に座るリジュからは、トップブランドのCEOによくあるような「小娘を見定めるような敵意」や「冷たい威圧感」といったものは一切感じられなかった。
むしろ、才能ある若者を歓迎するような、温かな親愛の情が伝わってくる。
その空気に少しだけ安堵したのも束の間――。
スッ……。
音もなく近づいてきたギャルソン(給仕)が、美しい皿に盛られた前菜をテーブルに置き、美しいクリスタルグラスにルビー色の液体を注ぎ始めた。
トクトクトク……。
(……え? 赤ワイン? ちょっ、ちょっと待って!)
凛花の中で、再びパニックの警報が鳴り響いた。
(わ、わたし、まだ十六歳! 未成年なんですけど! 未成年にお酒はダメ絶対!! ……って、フランス語でどう説明すればいいの!? 『アイ・アム・シックスティーン・イヤーズ・オールド』!? 通じる!?)
助けを求めて視線を彷徨わせると、遥か彼方――広大な部屋の壁際に、先ほどの「日本語が話せるホテルスタッフ」が控えているのを発見した。
(スタッフさぁぁぁん!! ……ダメだ、遠すぎる! この広すぎる部屋じゃ、大声出さないと絶対に声が届かないよぉぉっ!)
ワイングラスを前に青ざめて固まる凛花。
その様子に気づいたリジュが、小さく首を傾げてから、ふと何かを察したようにクスッと笑った。
「Tu as seize ans, n'est-ce pas ?(あなた、十六歳だったわね?)」
「へっ? あ、えっと、シ、シックスティーンです……!」
リジュは優雅にグラスを揺らしながら、フランス語で丁寧に教えてくれた。
「En France, la loi autorise les mineurs de seize ans à consommer du vin au restaurant...(フランスではね、親や法定保護者が同伴しているレストランに限り、十六歳の子供でもグラスワインやビールを楽しむことが法的に認められているのよ)」
そして、リジュは茶目っ気たっぷりにウインクをして、自身の胸にそっと手を当てた。
「Ce soir, c'est moi qui te protège.(今夜は、私があなたの『保護者』というわけね)」
フランス語の正確な意味は、凛花にはさっぱり分からない。
けれど、リジュが「16(セーズ)」という単語を口にし、「大丈夫よ」とでも言うように自身の胸を叩いてウインクをしてくれたことで、その意図がふわりと伝わってきた。
(……そ、そっか。フランスの法律だと、大人の人が一緒なら十六歳でもワインを飲んでいいんだ……! 今夜はリジュさんが保護者代わりになってくれるってこと!?)
異国の粋な計らいに、凛花はパッと顔を輝かせた。
「メ、メルシー!!」
緊張が解けた凛花は、リジュの作法を見よう見まねで真似て、前菜をパクリと口に入れた。
「……っ!!?」
脳髄を突き抜けるような衝撃。
(な、何これぇぇぇっ!? 今まで生きてきて食べたことない! なにこのお肉? ソース? 異次元の美味しさなんですけどぉぉっ!?)
感動のあまり、凛花は震える手でワイングラスを持ち上げ、少しだけ口に含んだ。
ゴクリ。
「……っ〜〜〜〜♡!!」
(お、美味しすぎるぅぅっ!!)
初めて口にするワイン。アルコールの刺激よりも先に、芳醇な果実の香りと、ベルベットのように滑らかな舌触りが口いっぱいに広がる。ワインの知識など皆無な十六歳の凛花にでも、「これが一生に一度飲めるかどうかの、とんでもない金額のワイン」であることだけは本能で理解できた。
リジュはそんな凛花の表情を見て嬉しそうに目を細め、前菜とワインの相性について、フランス語で何やら楽しげに語りかけてくる。
「C'est délicieux, n'est-ce pas ? Ce vin est...(美味しいでしょう? このワインはね……)」
何を言っているのかは、さっぱり分からない。
でも、「美味しい?」と聞かれていることだけは伝わった。
凛花は言葉の壁など忘れたように、満面の笑みで力強く頷いた。
「はいっ! すっごく美味しいですっ!」
フォークを進める凛花の食べ方は、決して貴族のように優雅なものではない。
しかし、出された料理を心の底から喜び、夢中になって味わうその姿は、決して下品ではなく、見ている者まで幸せにするような天真爛漫な輝きに満ちていた。リジュは顎に手を当て、とても満足げに凛花を見つめている。
やがて。
二皿目の料理と、それに合わせた新しいワインが運ばれてきたタイミングだった。
リジュが、控えていたギャルソンやスタッフたちに向けて、短く指示を出した。
「Laissez-nous.(下がってちょうだい)」
「Oui, Madame.(かしこまりました、マダム)」
一礼し、スタッフたちが全員部屋から退出していく。
バタン……と、重厚な扉が完全に閉ざされた。
(……え? スタッフさんたち、みんないなくなっちゃった?)
広大なVIPルームの中、完全に二人きり。
静寂が降りた部屋の中で、リジュがゆっくりと椅子から立ち上がった。
コツ……、コツ……。
ピンヒールの音が、大理石の床に響く。
リジュは長い脚を交差させるようにして歩み寄り、凛花の座る椅子のすぐ横で立ち止まった。
「……えっ?」
凛花が見上げると。
先ほどまでの温和な表情とは打って変わって。
リュクス・アンペリアルCEO、エレーヌ・リジュは、ゾクッとするほど美しく――そして、ひどく『意地悪な笑顔』を浮かべて、凛花を見下ろしていた。




