【嵐の前の静けさと、地獄への招待状】
【嵐の前の静けさと、地獄への招待状】
「はぁっ……はぁっ……! ぜぇっ……!」
「もう……無理……っス……」
「お、押忍……ッ! まだ、やれ……バタッ」
四月下旬。夕暮れの陽射しが斜めに差し込む合気武道部の専用道場には、生まれたての小鹿のように手足をプルプルと震わせ、畳の上に無残に転がる五人の新入生たちの姿があった。
入部当初は五十人もいた新入生だが、常軌を逸した修羅の稽古に耐えかねて次々と姿を消し、今や残っているのはこの五人ののみである。
巨漢の大文字鉄平、極度のビビリである雨宮千歳、男の娘の桃井琉生、負けん気の強い神品蘭、そしてイケメン俳優志望の桐生蓮。
彼らは確かに根性はある。だが、基礎体力と「合気武道の理合」を身体に染み込ませるには、圧倒的に時間が足りていなかった。
「……ふむ。あいつら、根性だけは認めてやるが、まだまだ武道家としての基礎がまるで出来上がっていないな」
道場の隅で腕を組みながら、主将の門蒼真が厳つい顔で深く息を吐いた。
その隣には、副主将の佐藤陽翔、高橋玲央、南原紗良、阿部凛花の二年生四人が並び、死に体となっている後輩たちを静かに見下ろしている。
「仕方ないッスよ。俺たちだって、一年前の今頃は毎日筋肉痛でゲロ吐きそうになってたッスからね」
佐藤が苦笑いを浮かべながら、過去の自分と後輩たちの姿を重ね合わせる。
「ですが、このままでは東京ダンジョンの維持管理のサポートなど、夢のまた夢ですわ。少し魔素を浴びただけで倒れてしまいます」
高橋が、完璧主義の女優らしく冷徹な事実を口にした。
「……ええ。五月の連休が近づいています。ここは一つ、彼らの肉体と精神を徹底的に破壊し、そして再構築するための『特別なカリキュラム』が必要ですね」
南原が眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げ、冷たい知性を湛えた瞳をギラリと光らせた。
「ふはははは! つまり、アレね! 去去年、私たちがあの人から受けたあの『地獄』を、今度は私たちが後輩たちにプレゼントする番ってわけね!」
阿部が楽しそうに長身を反らし、悪役のように高らかに笑う。
二年生五人の視線が交差する。
彼らが考えていることは、完全に一致していた。
「よし。五月の連休を利用して、『一年生強化合宿』を敢行するぞ」
門の力強い宣言が、夕暮れの道場に重く響き渡った。
ビクゥッ!!
畳の上で伸びていた一年生たちが、その「合宿」という不吉な響きに肩を激しく跳ねさせたが、二年生たちはそんな後輩の怯えなど一切気にも留めなかった。
【二年生の暗躍、合宿首脳会議】
翌日の昼休み。
合気武道部の部室では、二年生五人による『第一回・一年生強化合宿首脳会議』が極秘裏に開催されていた。
「まずは許可取りだ。合宿の決行にあたり、顧問の影安先生への申請は俺が責任を持って行う」
長机の中央に座った門が、腕を組みながら堂々と宣言した。
「影安先生は放任主義だが、安全面には厳しい。だが、俺が作成したこの『分刻みの地獄のトレーニングメニュー表』と『安全確保のための魔力運用計画書』を見せれば、必ず許可は下りるはずだ」
「頼もしいッスね、門! お前が直談判に行けば、大抵の教師はビビってハンコ押すッスよ!」
佐藤がニカッと笑って親指を立てる。
「次に、一番の問題である『経費』と『兵站』についてです」
南原が手元のタブレットを操作し、プロジェクターに予算案のグラフを投影した。
「五月の連休となると、一般的な合宿施設はどこもハイシーズン価格で予約が取れません。おまけに我が部の予算は、新入生歓迎の機材費でほぼ底をついています。交通費、宿泊費、そして限界まで肉体を酷使する一年生たちに食わせる大量のカロリー……。理詰めで計算すると、完全に赤字です」
「ま、待ってくれッス!!」
その言葉を聞いた瞬間、佐藤が顔面を蒼白にしてガタッ!と立ち上がった。
「ま、まさかの自腹ッスか!? 無理ッスよ! 俺の財布はあのパンケーキ事件のせいで、HPゼロどころかマイナスを叩き出してるんスよ! これ以上出費が重なったら、いよいよ臓器を売るしかなくなるッス!!」
「騒々しいですね。誰もあなたに身銭を切れとは言っていません。サルのように喚かないでください」
南原が冷ややかな目で佐藤を一蹴する。
ガラガラッ!!
「押忍!! 主将! ここで極秘会議でありますか!! 自分も警備に加わります!!」
突如として部室の戸が勢いよく開き、巨漢の大文字鉄平が暑苦しい顔を覗かせた。
「ひぃっ!? だ、大文字! まだ一年生に合宿の全貌を聞かれるわけにはいかないッス! お前は外をランニングしてこいッス!」
佐藤が慌てて大文字の背中を押し、半ば強引に廊下へと押し出す。
「押忍! 了解であります!!」
ドタドタドタッ! と遠ざかる足音を聞き届け、佐藤は「ふぅ……」と冷や汗を拭った。
「全く、テンポが狂いますわね。……それで、南原さん。経費の解決策はあるのですか?」
高橋が優雅に扇子を扇ぎながら話を戻す。
「ええ。その問題はすでに阿部さんが『ある裏技』を使って解決してくれました」
南原の視線を受け、阿部が「えっへん!」と豊満な胸を張って立ち上がった。
「ふふん! 私、昨日さっそくスノーの事務所で、本多鮎先輩に輸送と物資の調達をお願いしてきたのよ!」
「お前、マジかッスか! 鮎先輩、今ドラマの主演とバラエティの収録で、分刻みの殺人的スケジュールで死にかけてるはずッスよ!? そんなこと頼んで大丈夫だったんスか!?」
佐藤が再び目を限界まで見開いて慌てふためく。
「それがさぁ……」
阿部は苦笑いを浮かべ、昨日の事務所での鮎の様子を身振り手振りを交えて再現し始めた。
『えっ……? 合宿の準備? 車出し? 私が、やっていいの……?』
『う、うわぁぁぁぁんっ!! もちろんよ凛花ぁ! あの魔王の大事な可愛い可愛い後輩ちゃんたちのお世話を、私がさせてもらえるなんて! 光栄すぎて涙が出ちゃうわ!!』
『バッテリーでも高級焼肉セットでも、何でもドーンと任せなさい! ロケバスごと手配してあげるから!! ああ、あの人が残した種たちが育っていく……尊い、尊すぎるわぁぁっ!!』
「……って感じで、もう大号泣しながら私を強く抱きしめた後に、歓喜の舞を踊ってたわよ。なんか、ストレスでおかしくなってたのかもしれないけど」
阿部が肩をすくめて報告を終える。
「「「…………」」」
部室に、重苦しい沈黙が落ちた。
「……あの人の狂信的な愛は、時として人間の限界を超えるッスね……」
佐藤が引き攣った笑みを浮かべて呟く。
「鮎先輩の過労死が心配ですが……本人があそこまで喜んで引き受けてくれたのなら、経費と物資の問題は完璧にクリアですわね」
高橋が扇子で口元を隠し、綺麗に話をまとめた。
「よし。顧問の許可、輸送と物資、予算の確保は完了したな。……残るは『場所』だ」
門が、真剣な眼差しで佐藤を見据えた。
「佐藤。去年の夏合宿で俺たちが地獄を見た、あの『氷川神社分社内にある道場』。あそこの使用許可を、お前に取ってきてもらいたい」
「……ゲッ」
佐藤の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「俺が、行くッスか? あの場所に?」
「当然です。副主将であり、コミュニケーション能力に長けたあなたの適任でしょう。まさか逃げるつもりですか?」
南原が容赦のない正論のナイフを突き立てる。
「うぅ……分かったッスよ。副主将の仕事として、バッチリ許可をもぎ取ってくるッス!」
佐藤は悲壮な決意を胸に、ドンッと自身の胸を叩いた。
「待って、佐藤くん。手ぶらで行くわけにはいきませんわ」
高橋がスッと立ち上がり、自身のスクールバッグから、美しく包装された上品な桐箱を取り出して佐藤に手渡した。
「これは……?」
「私が用意した菓子折りですわ。今、芸能界で一番使われている菓子折りよ! 相手がどなたであれ、絶対に失礼には当たりません!」
高橋が、女優としてのプライドをかけて自信満々に言い放った。
「おおっ! 流石は玲央ちゃん、気が利くッス! これがあれば百人力ッスよ!」
佐藤は神棚に供えるようにその桐箱を押し戴き、勢いよく部室を飛び出していった。
【貢物と、絶対的強者への謁見】
放課後。
佐藤はずっしりと重い高橋特製の『芸能界御用達・特上菓子折り』を抱え、重い足取りで氷川神社の分社へと向かっていた。
鬱蒼と茂る鎮守の森。
鳥居を潜った瞬間、外の喧騒が嘘のように消え去り、空気がヒンヤリと数度下がったような感覚に襲われる。
ザッ……ザッ……。
玉砂利を踏みしめる佐藤の足音だけが、静寂の境内に響く。
佐藤の脳裏に、一人の先輩の顔が浮かぶ。風間楓だ。
普段は地味な伊達メガネをかけた物静かな先輩だが、佐藤は知っている。
(マジでヤバい人なんスよ……! 裏の顔は特級エージェントで、機嫌を損ねたら俺なんて一瞬で塵にされかねない、正真正銘の『化け物』ッス……!)
サアッ……サアッ……。
本殿の裏手、古い道場へと続く道で、竹箒で落ち葉を掃く音が聞こえてきた。
「……あ」
佐藤は思わず息を呑んだ。
木漏れ日の中、巫女装束に身を包んだ風間楓が、静かに落ち葉を集めていた。
長い黒髪が春の風にサラリと揺れる。その横顔は息を呑むほどに美しいが、同時に、近寄る者すべてを切り裂くような鋭い冷気と、底知れない霊圧を放っていた。
(こ、怖いッス……! 何もしてないのに、ただ立ってるだけでチビりそうになる威圧感ッス……!)
佐藤はゴクリと唾を飲み込むと、覚悟を決めて、極限まで姿勢を正して歩み寄った。
「あ、あのっ! 楓先輩っ!」
佐藤の声が上擦る。
箒を動かす手を止め、楓がゆっくりと振り返った。
切れ長の冷たい瞳が、佐藤を真っ直ぐに射抜く。
「……合気武道部の、佐藤君ですね」
感情の起伏を一切感じさせない、鈴の転がるような冷たい声。
「は、はいッス!」
佐藤はビシッと直立不動になると、手に持っていた高級菓子折りの桐箱を、両手で高く掲げて九十度の深いお辞儀をした。
「つまらないものですが、お納めくださいッ!!」
声が裏返るほどのフルパワーの挨拶。
楓は伊達メガネの奥で少しだけ瞬きをし、佐藤の手からスッと桐箱を受け取った。
「……ご丁寧に。ですが、どのような件で?」
楓は桐箱の重みを確かめるように持ちながら、淡々と本題を促した。
「は、はい! 実は、去年の夏合宿で俺たちが使わせていただいた、この氷川神社分社内にある古い道場を……急な話ですが五月の連休に、一年生の強化合宿として使わせていただきたいのです! どうか、お願い致しますッ!!」
佐藤は頭を下げたまま、必死に懇願した。
数秒の、永遠にも感じられる沈黙。
やがて、楓の口から静かな言葉が落ちた。
「……良いでしょう」
「えっ! ほ、本当ッスか!?」
佐藤が勢いよく顔を上げる。
「ええ。東京ダンジョンの件もありますし、道場の使用くらい安いものです」
「ありがとうございますッ!! 恩に着るッス!!」
佐藤は安堵のあまり、その場で泣き崩れそうになった。最大のミッションを、無事にクリアしたのだ。
しかし、楓は冷たい表情を崩さないまま、残酷な事実を口にした。
「でも、覚えていますよね? あの道場は電気もガスも通っていませんよ。それに、去年の夏から誰も掃除もしていません。埃とカビだらけのはずです。去年は本多鮎さんが車でバッテリーから保存食まで全て用意しましたが……今年はどうするつもりですか?」
楓が、理にかなった当然の疑問を投げかける。
その言葉に、佐藤はニカッと、どこか引き攣ったような笑顔を浮かべて即答した。
「今年も、鮎先輩に全部お願いしました!!」
「……は?」
楓の切れ長の瞳が、僅かに、だが確かに見開かれた。
常に冷静沈着な彼女の顔に、明確な「理解不能」という色が浮かんだのだ。
「鮎さんは仕事が忙しいでしょう?」
「そ、そうなんスけど……どんなに忙しくても、全部やってくれるそうなんスよ。俺たちに甘えられて、泣くほど歓喜してたそうッス」
佐藤の言葉聞いて、楓は静かに目を伏せ、何かを納得したように小さく息を吐き出した。
「……そうですか。それに関連して、一つお聞きしたいことがあるのですが」
「はい? 何ッスか?」
楓は少しだけ声のトーンを落とし、静かな、しかし確かな戸惑いを含んだ声で尋ねた。
「実は数日前、こちらの氷川神社に、本多鮎さん名義で『一千万円』という額の奉納がありましてね。……あの異常な額の奉納は、一体何の目的だったのですか?」
「ゲッ」
佐藤はギクッと肩を震わせ、大量の冷や汗を流した。
「あー……それ、鮎先輩曰く『あの人(持子先輩)の結婚式が行われたこの氷川神社は尊い』から、らしいッス……」
「……一千万が、ただの『推し活』ですか」
楓の冷たい瞳が、さらに丸くなった。
「はい。それでですね、さらに追加のお願いなんスけど……」
佐藤はもみ手をするようにして、恐る恐る本題を切り出した。
「今回、鮎先輩から合宿用にポータブルバッテリーやソーラーパネル、寝袋、その他諸々が寄贈されまして。合宿が終わった後も『神社に奉納します』って言ってるんで、そのまま氷川神社分社に置かせてもらっても宜しいでしょうか? ちなみに、全部合わせると五百万相当の機材らしいッス」
「…………」
楓はついに竹箒から完全に手を離し、ツゥーッとこめかみを指先で押さえた。
彼女の冷静な頭脳をもってしても、処理が完全に追いつかない金銭感覚のバグである。
「……鮎さんの仕事量がおかしいのは分かりますが、芸能界ってそんなにお金を稼げるんですか?」
楓が、心底不思議そうに尋ねる。
「ー、鮎先輩、稼いだお金を投資などで当てたのと……今度ハリウッド映画に出るそうで、その契約金が億以上だそうです」
「ハリウッド……億…………理解が追いつきません。」
楓は完全に虚を突かれた顔で、小さく息を吐き出した。
「才能の塊みたいな人ですね」
「はい。私がいうのもおかしいですが……愛に狂わされていると言うか」
佐藤が遠い目をして呟くと、楓もまた、呆れと哀れみが混じったような声で静かに同意した。
「……魔王への愛。不憫ですね」
「不憫です」
化け物じみた特級エージェントと、平凡な一般科の男子高校生。
交わるはずのない二人の間に、ほんの一瞬だけ、「狂信的な先輩を持つ苦労」という奇妙な共感と連帯感が生まれた瞬間だった。
「…………頭が、痛いです」
ついに楓の口から、心底疲労しきったような、重いため息交じりの声が漏れた。
「俺も頭痛いッス」
佐藤もまた、肩を落として深く同意した。
ふっ。
不意に、楓の口元が緩んだ。
冷え切った氷の彫刻のような彼女の顔に、極めて珍しい、柔らかく穏やかな微笑みが浮かんだのだ。
「……精進なさい」
その微笑みは、先輩らしい優しさと、特級エージェントとしての底知れない深みを併せ持つ、不思議な魅力に溢れていた。
「あ、ありがとうございますッ! 失礼致しますッ!!」
佐藤は再び九十度の深いお辞儀をすると、脱兎のごとく踵を返し、玉砂利を蹴立てて神社の境内から走り去っていった。
【狂信者の愛と、頭を抱える常識人たち】
鳥居を抜け、神社の敷地から完全に外の通りへと出た瞬間。
「あ、あぶねぇぇぇ〜ッ……!!」
佐藤は膝から崩れ落ち、電柱に寄りかかってズルズルと座り込んだ。
ドクドクと心臓が早鐘のように鳴り響き、背中にはびっしょりと冷や汗を掻いている。
「こ、怖かったぁぁ〜ッ!! なんなんスかあのオーラ! ただ立ってるだけで寿命が縮むかと思ったッスよ!!」
誰もいない夕暮れの道端で、佐藤は一人でブルブルと震えながら天を仰いだ。
しかし、その手にはしっかりと「合宿所の使用許可」と「物資の保管許可」という確かな成果が握られている。
(これで、合宿の準備は完全に整ったッス……!)
佐藤は震える足に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
夕日に照らされる彼の顔には、先ほどまでの恐怖は消え、副主将としての頼もしい笑顔が戻っていた。
「待ってろよ、一年生ども! 今年の五月の連休は、俺たちがあの人から受け継いだ『最高の地獄』を、たっぷり味わわせてやるッスからね!!」
決意を新たに、佐藤は仲間たちの待つ学園へと歩き出した。
狂信的な先輩の愛と財力、特級エージェントとの奇妙な共感、そして二年生たちの暗躍。
すべてが絡み合いながら、新生・合気武道部の『一年生強化合宿』という名の地獄の幕が、いよいよ切って落とそうとしていた。




