【閉ざされた廃洋館、蠢く無数の悪意】
【閉ざされた廃洋館、蠢く無数の悪意】
ギギギギィィィィィィ…………ッ。
何十年も放置されていたであろう、分厚く重厚な木製の両開き扉。
一年生五人がかりで押し込む力に負け、蝶番がけたたましい悲鳴のような軋み音を立てる。
扉は、ゆっくりと内側へと開いていった。
その瞬間――。
洋館の内部に溜まりに溜まっていた濃密な闇と、カビと埃、そして何とも言えない『生臭い冷気』が、まるで巨大な獣の吐息のように外界へと吐き出された。
「うわっ……なんか、すっごく嫌な臭いがするね……」
神品蘭が、鼻をつまみながら顔をしかめた。
吹き出してきた不気味な風に、彼女の美しい黒髪が嫌な揺れ方をする。
「むせ返るような空気だね。僕の美しい肌が荒れそうだ。……まったく、モデルの仕事の前に来るような場所じゃないよ」
桐生蓮も、前髪をファサッとかき上げながら不快そうに顔を歪めた。
「押忍! 埃ごときで怯む自分たちではありません! さあ、行くッスよ!」
大文字鉄平が、175センチ、120キロの巨体を揺らし、先陣を切るように気合いを入れた。
それぞれが手持ちのランタン型LEDライトを掲げる。
暗闇がパックリと口を開けた洋館のエントランスへと、彼らは足を踏み入れた。
――バタンッ……!!
最後尾の桃井琉生と雨宮千歳が敷居を跨いだ、その瞬間だった。
まるで、見えざる巨大な手が外側から強く押し込んだかのように。
重い扉が、凄まじい勢いで勝手に閉ざされた。
「ひぃぃぃっ!?」
雨宮が肩をビクッと跳ねさせ、短い悲鳴を上げてしゃがみ込む。
「おっとぉ、自動ドア完備とは恐れ入りますねぇ。これは、わたしたちを簡単には帰らせてくれないってわけですかぁ?」
桃井が、細身のモデル体型をくねらせながら、艶やかな唇に指を当ててからかうように笑った。
だが、その涼しげな瞳の奥には、微かな緊張が走っている。
外界の音が、完全に遮断された。
虫の鳴き声も。
風が木々の枝葉を揺らす音も。
遠くの道路を走る車の微かな騒音すらも、一切聞こえなくなった。
そこにあるのは、自分たちの荒い呼吸音と、古い床板を踏みしめる『ギシッ、ギシッ』という音だけ。
まるで、世界から切り離された異空間に閉じ込められたかのようだった。
そして――。
洋館のエントランスホールに立ち入った彼らは、ライトの光が照らし出したその「光景」に、全員が言葉を失い、立ち尽くした。
「……ねえ。ここ、外から見た時より……いくらなんでも広すぎないかな?」
神品が、ライトの光の束を左右に振りながら、呆然とした声で呟いた。
僕っ子設定の彼女の言う通りだった。
外観から推測されるこの洋館のサイズは、せいぜい二階建ての、少し大きめの別荘程度のはずだった。
しかし、今彼らの目の前に広がっているのは、まるで中世ヨーロッパの城のホールのような、あまりにも広大な空間だったのだ。
二階へと続く豪華な大階段は、見上げても暗闇に飲まれてどこまで続いているのか分からない。
左右に伸びる廊下も、果てが見えないほど深く、遠かった。
「……ありえないね。これは、建築力学的な問題じゃない。空間そのものがおかしいんだ」
桐生が目を細め、自身の持つ特異な観察眼――E級能力である『観る』力を無意識に発動させた。
役者やモデルとして、舞台の空間把握やカメラの画角を瞬時に計算するために培い、そして覚醒した彼の眼。
そこには、この洋館の異常性がはっきりと映し出されていた。
「壁や床のパースがおかしい。歪んでいる……いや、無理やり引き延ばされて『広がっている』んだ。遠近感が完全に狂っている。これ……全部、その『霊』とやらの力なのかな?」
桐生が冷や汗を流し、イケメンの顔を強張らせながら呟いた。
「あ、あわ、あわわわわわ…………っ」
その時。
最後尾で震えていた雨宮が、突如としてガチガチと歯の根を鳴らし始めた。
彼女の目は焦点が定まっていない。
分厚い丸眼鏡の奥の瞳が、空間の『見えない何か』を捉えてしまっていたのだ。
生まれつき常人離れしたポテンシャルを持ち、複数の異能を内包する彼女の眼――『霊視』。
それが、極限の恐怖と緊張によって無意識のうちに全開になっていた。
「雨宮さん? どうしたのさ?」
神品が振り返る。
しかし雨宮は両手で自身の肩を強く抱きしめ、首を激しく横に振った。
「れ、れれ、霊の力が……っ、た、建物全体から……感じますぅ……っ!」
「建物全体から!? まだ敵の姿なんてどこにも見えないよ!?」
「ち、違うんですぅ……っ! まだ、霊の姿は見えない、けど……っ。この建物自体に、凄まじい霊力が染み込んでいて……建物を、い、異質にするほど……空間を、ぐにゃぐにゃに、歪めてるんですぅ……っ!!」
雨宮の悲痛な声に、一年生全員の背筋に冷たい氷柱を突き立てられたような悪寒が走った。
この洋館に巣食う強大な霊的パワーが、物理的な空間そのものを歪曲し、拡張させているのだ。
事前の脅威度判定すら疑わしくなるほどの、濃密な怨念の巣窟であることを意味していた。
「なるほど……。自分にも、素人目に見てもこの空間が尋常じゃないってことは分かるッス」
ドスッ、と。
重い足音を立てて、大文字が五人の最前列へと進み出た。
彼の筋肉の鎧を纏った巨躯が、まるで分厚い城壁のように、仲間たちを庇うように立ち塞がる。
「大文字君……?」
「押忍! 自分には、雨宮さんのような霊感も、桐生君のような眼も持ち合わせてはおりません! だが……この空気が『ヤバイ』ことくらいは、武を志す者の本能、肌でビンビンに感じ取れるッス!!」
大文字はそう叫ぶと、両足を肩幅に開き、両拳を固く握りしめて強固な防御の構えをとった。
霊が見えなくとも、危険が迫ればこの身を盾にして仲間を守る。
彼のその揺るぎない覚悟と熱気が、冷え切った空間に少しだけ心強さをもたらした。
「ふふっ、頼もしいね大文字君。じゃあ、僕が後ろからいつでも援護できるようにしておくよ」
神品が大文字の広い背中の後ろに回り込み、両手を前に突き出した。
自身の感情や魔力と連動して電気を発生させ、放つことができる異能だ。
(落ち着け、僕……。こんな薄暗いところでビビってちゃダメだ。お姉さま……阿部先輩にいいところを見せるためにも、冷静になるんだ。少しだけ電気を出して、いつでも撃てるように指先に集めておくんだ……)
神品は深呼吸をし、体内の魔力を指先へと練り上げた。
バチッ……。
ジジジジッ……。
青白い火花が、神品の指先に小さく弾ける。
だが、その直後だった。
「え……? ちょっ、うそ……!?」
神品の顔が青ざめる。
自分ではほんの少しだけ放出したつもりだった電気が、異常に重く、霊力に満ちたこの洋館の空間と激しく反応してしまったのだ。
空気にドロドロに溶け込んでいた高濃度の霊的な粒子が、電気の刺激を受けて一気に連鎖反応を起こす。
バチバチバチバチバチィィィッ!!!
「きゃあっ!?」
神品の制御を離れた強力な電気が、まるで暴れる青い蛇のように、何もない空間を縦横無尽に走り抜けた。
――パチンッッ!!!
空気を弾くような、耳を劈く鋭い破裂音が鳴り響いた。
ドスゥゥゥゥン…………ッ。
その瞬間。
洋館全体が、生き物のように大きく震えた。
足元の床板が激しく揺れ、遥か上方の天井から、バラバラと古い埃と木屑が降り注ぐ。
それはただの地震ではない。
明確な『怒り』だった。
土足で踏み入ってきた挙句、自分たちの領域を電気で無遠慮に刺激した侵入者に対する、無数の怨念たちの激しい怒りの波動が一気に膨れ上がったのだ。
ゾワァァァァァァァァァッ……!!!!
目に見えない重圧が、全方位から五人にのしかかる。
「っ……!」
神品が自身のミスに気づき、顔面を蒼白にして震えながら後ずさる。
「慎重にねぇ、神品さん」
不意に、背後からスッと伸びてきた手が、神品の震える肩にそっと置かれた。
桃井だった。
普段は「男の娘」として媚びを売り、変態的な発言ばかりしている彼だが、その声は落ち着いた芯のある声だった。
「……うんっ、ご、ごめんなさい……っ」
神品が少しビビりながらも、素直に頷く。
桃井のその落ち着きと、肩に置かれた手の確かな温もりが、少しだけ彼女のパニックを抑え込んでいた。
だが、パニックを抑えきれない者が一人いた。
「あ、あわ……あわわわわわわ…………っ!!」
雨宮だった。
彼女の『霊視』と異常な感覚器官は、洋館全体から一斉にこちらへ向けられた『真っ黒な悪意』をダイレクトに受信してしまっていた。
「く、くる……っ!! 悪意が、きますぅ……っ!!」
雨宮が悲鳴のような声を上げ、恐怖に駆られて咄嗟に後方の闇へと振り返る。
同時に、特異な観察眼を持つ桐生が、空間の僅かな『歪み』を察知した。
「そこだっ!!」
桐生の鋭い声が響く。
「3時の方向、ゴーストッ!!」
桐生が指差した先。
エントランスの右側の空間が陽炎のように歪み、そこからドロドロとした黒い霧状の何かが、弾丸のような速度で一直線に突進してきた。
「押忍ゥゥゥッ!!」
大文字が猛然と横っ飛びに飛び出した。
彼にはその「ゴースト」の姿は見えていない。霊感ゼロの彼には、ただの虚空にしか見えない。
だが、桐生の言葉と声を微塵も疑わず、指示された『3時の方向』の射線上に、自らの巨大な肉体を投げ出して完全な『壁』となったのだ。
「うわああああっ!?」
雨宮が、眼前に迫る黒い悪意と、それを庇う大文字の姿を見て、完全に恐怖で腰を抜かした。
膝から崩れ落ち、そのまま冷たい床に倒れ込もうとする雨宮。
――ドンッ!
「大丈夫ですよぉ、雨宮さん」
倒れかける雨宮の身体を、背後から強引に抱き止めた者がいた。桃井だ。
細身で華奢な見た目に反して、その腕力は間違いなく鍛え抜かれた『男』のそれだった。
桃井は雨宮の胸元や身体の柔らかさに一切の下心を向けることなく、ただ純粋に、恐怖で震える仲間を強く抱きしめて支え、安心させるようにその背中をさすった。
「桃、井、さん……っ」
「怖くないですよぉ。わたしがいますからねぇ」
その一瞬の連携の間に。
大文字の後ろで体勢を立て直した神品が、両手にバチバチと最大出力の雷撃を発生させた。
「さっきはよくもビビらせてくれたね……っ!! いっけぇぇぇぇぇっ!!!」
神品が、大文字の脇を抜けるようにして、3時の方向の暗闇に向かって両手から極太の電撃を放った。
バヂィィィィィィィィンッ!!!!
眩い青白い閃光が、洋館の暗闇を一瞬にして真昼のように照らし出す。
神品の放った電撃は、ただ真っ直ぐ飛ぶだけではなかった。
空気中に漂う霊子の波を伝い、まるで意思を持つかのように『自動的』に軌道を曲げ、一直線に突進してきていた見えない霊体へと吸い込まれるように直撃した。
『ギャアアアアアアアアアアアアアッ!!!!』
鼓膜を突き破るような、おぞましい断末魔の悲鳴が洋館のホールに木霊した。
ドゴォォォォォンッ!!
電撃と霊体が衝突した衝撃波が爆風となって吹き荒れ、一年生たちの髪や衣服を激しく揺さぶる。
大文字は両腕をクロスして爆風に耐え、桐生は目を細めてその光景を凝視し、桃井は雨宮を庇うように抱きしめる力を強めた。
そして――。
閃光が収まり、もうもうと立ち込める埃と焦げ臭い煙が晴れていく中で。
「……え?」
「な、なんだ、ありゃあ……!」
「うそ……僕にも、はっきりと見える……」
神品、大文字、桃井の三人が、息を呑んで目を見開いた。
そこには、全身を電撃で焼かれ、黒い霧の輪郭を失ってドロドロの半透明な肉の塊のような姿になりながら、ピクピクと痙攣して消滅していく『悪霊』の姿があった。
普段、霊感の低い彼らにとって、幽霊や魔物といった存在は「気配」や「なんとなく嫌な感じ」という漠然としたものでしかなかった。
しかし今、神品の異能による強烈な一撃が霊体の構造を破壊し、強制的に物質界にその姿を定着させたことで、霊感の低い彼らも含めて『全員』が、そのおぞましい霊の姿をはっきりと視認することができたのだ。
「……見えた。自分にも、はっきりと見えたッス……!! これが、自分たちがこれから戦う『敵』……!!」
大文字が、己の太い拳を震わせながら、確信に満ちた声で呟いた。
見えない恐怖への怯えは完全に消え去り、そこにあるのは明確な敵を打ち倒すという武道家としての闘志だった。
「ふふっ……なんだ。姿が見えれば、ただのキモい怪物じゃないか。僕の電気、ちゃんと効くじゃない!」
神品が、先ほどのパニックから一転、不敵な笑みを浮かべて指先で再び火花を散らす。
「本当ですねぇ。触れられない幽霊かと思いましたけど、これならわたしでも十分に対処できますねぇ♡」
桃井も、雨宮を支えながら、その艶やかな唇に余裕の笑みを浮かべた。
初めての「未知」との遭遇。
そして、初めての明確な「勝利」と「視認」。
バラバラだった一年生五人の心に、恐怖を乗り越えた先にある『確信』が芽生えた瞬間だった。
『――ギギ……ギギギギギギ…………』
しかし、安堵したのも束の間だった。
一匹の霊が消滅した痕跡から、さらに深く、さらに黒い怨念が立ち昇り始める。
洋館の奥、二階の暗闇、そして地下から。
先ほどの騒ぎと電気の刺激によって完全に目を覚ました無数の気配が、一斉に彼らへと殺意の矛先を向けて蠢き出していた。
「……どうやら、ここからが本番みたいだね」
桐生が冷や汗を拭い、鋭い視線を奥の闇へと向ける。
「押忍! 望むところッス!!」
大文字が雄叫びを上げる。
「雨宮さん、もう立てるよね? いくよ!」
「ひ、ひぃぃ……っ、が、がんばりますぅ……!!」
雨宮が丸眼鏡を押し上げながら、涙目で頷く。
一年生だけの初任務。
彼らの本当の戦いと試練は、まさに今、本格的な幕を開けたのであった。




