【深夜のタクシーと、脂の焦げる匂いの余韻】
【深夜のタクシーと、脂の焦げる匂いの余韻】
「うぷ……さすがに、特上カルビと白米の大盛りを交互に限界まで詰め込むのは、胃袋がはち切れそうになるッスね……」
東京の深夜、街灯の光が冷たく流れる車内で、佐藤陽翔はタクシーの助手席に深く身体を沈め、自身の膨らんだ腹をさすりながら情けない声を漏らした。
東京ダンジョン第三層での地獄侯爵アモンとの死闘を終えた合気武道部の面々と、本多鮎、花園美羽、ルージュの三人は、あの後、誰もが限界まで鳴り響く腹の虫に従って、駅前の深夜営業の焼肉店へと直行していた。
ルージュが回収した大量の魔石の山という臨時の軍資金があるのをいいことに、阿部凛花が「特上カルビ十人前! タン塩も増し増しで!」と叫び、門蒼真が黙々と肉を焼き、南原紗良が「網の上の配置が非効率的です」と理詰めで管理する、いつものカオスな祝勝会が繰り勝り広げられたのだ。
その後、過酷なスケジュールとダンジョン管理の重圧から解放され、満腹になって急激な睡魔に襲われた鮎たち先輩三人を見送り、二年生五人は二台のタクシーに分乗して次なる目的地へと向かっていた。
向かう先は、国内最大手芸能事務所『スノー』の本社ビル。現学園総長にして、裏社会の絶対者である立花雪の待つ社長室である。
深夜二時を回った帝都の闇を、タクシーのヘッドライトが切り裂いていく。車内には、衣服に染み付いた焼肉の脂の焦げる匂いと、戦いのあとの心地よい疲労感が漂っていた。
「……それにしても、まさかこんな深夜に呼び出しがかかるとはね。雪社長も、相変わらず人使いが荒いですわ」
後部座席で、高橋玲央が割れかけた眼鏡の位置を優雅に直しながら、ため息混じりに呟いた。
「文句を言うな、玲央。アモン討伐という特大の戦果を挙げたんだ。総長への即時報告は、合気武道部としての義務であり、礼儀だ」
その隣で、戦闘服の破れから微かに覗く傷口を押さえながら、門蒼真が主将らしい硬派な口調で応じる。
「そうよ、玲央ちゃん! それに、雪社長にちゃんと報告すれば、今回手に入れた莫大な魔石の換金とか、今後の活動資金の口座への送金手続きもスムーズにいくんだから!」
阿部凛花が180センチの長身を少し丸めるようにして、楽しげに笑う。
「……お金の管理に関しては、スノーとクランの共同運用ですから、私たちが無駄遣いできないように理詰めでロックされるのがオチですけれどね」
南原紗良が手元のタブレットの画面をスクロールさせながら、冷徹なトーンで釘を刺した。
やがてタクシーは、深夜にもかかわらず静かに威容を誇る『スノー』の本社ビルへと滑り込んだ。
五人は料金を支払い、車内から降り立つと、冷たい夜風に吹かれながら重厚なガラス扉を潜り、最上階の社長室へと続くエレベーターへと乗り込んだ。
【総長の執務室と、冷徹なる賛辞】
トントン。
門が緊張で強張った拳で、重厚なマホガニーの扉を静かにノックした。
「失礼します」
「入りなさい」
室内から響いたのは、鈴の音のように涼やかでありながら、一切の揺らぎを許さない絶対的な拒絶の気配を孕んだ聲音だった。
五人が足を踏み入れると、そこは外界の喧騒から完全に遮断された静寂の空間だった。
大きな全面ガラス窓の向こうには、深夜の闇に眠る帝都のビル群がミニチュアのように広がっている。
その景色を背に、デスクに鎮座していたのは、夜の闇に溶け込むような、艶やかで美しい黒髪を揺らす女性――立花雪であった。
身体のラインに沿った漆黒のパンツスーツを見事に着こなし、組んだ脚の先まで完璧な所作を維持している。
その鋭い双眸が五人を捉えた瞬間、室内のエーテルがピリリと張り詰めた。
「総長、東京ダンジョン第三層における怪異の群れ、および地獄侯爵アモンの討伐、すべて完了いたしました」
主将である門が、戦闘服の破れもそのままに、直立不動の姿勢で深く頭を下げて報告した。
「……ええ、報告はすでにTIAの検問所から受けているわ。まさか、侯爵級の悪魔を相手に、武器も持たずに膝をつかせるとはね。予想以上の戦果よ」
雪は手元のタブレットをスワイプし、アモンの消滅波形データを確認しながら、その端正な唇の端を僅かに釣り上げた。
「さすがは、あの『極黒の魔王』が直々に育て上げた、歪な種たちというわけかしら。よくやったわ、あなたたち」
絶対者からの、冷徹ながらも確かな賛辞。
「あ、ありがとうございますッス!」
佐藤が緊張のあまり裏返った声で応じると、阿部も「ふふん、当然です!」と誇らしげに豊満な胸を張った。
カチャリ。
雪はデスクの引き出しから、美しく磨き上げられた黒いプラスチック製のカードを一枚取り出し、門の前へと滑らせた。
「今回の依頼金、およびルージュが回収した大量の魔石の換金手続きはすべて完了しているわ。金額は……そうね、一般の高校生が一生遊んで暮らせる程度にはなっているわ」
「お、おおお……!」
佐藤の目が¥マークになって飛び出しそうになる。が、その直後。
「……ぐぅぅぅぅぅ」
深夜の静寂な社長室に、佐藤のあまりにも情けない腹鳴りが響き渡った。
あれだけ焼肉を食べたというのに、魔力を使い果たした肉体がなお消化を急いでいるらしい。
ピク。
雪の美しい眉が僅かに跳ね上がり、冷徹な黒目の視線が佐藤を射抜く。佐藤は「ひぇっ」と顔を青くして両手で腹を押さえた。
その隣では、阿部が立ったまま完全に船を漕ぎ始めており、頭がカクンカクンと揺れている。
「……当然ですが、事前に交わした契約通り、この資金はすべてあなたたちの『共通積立口座』へと即座に暗号化されて送金されます。個人での引き出しは不可よ」
雪は軽く咳払いをして何事もなかったかのように話を戻し、五人を見渡した。
「この積立資金は、あなたたちが成人――二十歳になった時、すべて均等に分配して引き渡される予定よ。それまでは、スノーとTIAが共同で厳重に管理・運用させてもらうわ。……今後も何か必要な事態が生じた時は、いつでも私に相談しなさい。相応のバックアップは約束するわ」
「感謝いたします、総長」
門が再び頭を下げ、カードを慎重に懐へと収めた。二十歳になった時の莫大な資産を想像し、佐藤が後ろで小さくガッツポーズを決めている。
しかし、主将である門の表情は、未だ晴れてはいなかった。
彼は自身の強靭な肉体を僅かに前に進め、雪の冷徹な視線を真っ向から受け止めながら、意を決したように口を開いた。
「総長……。今回の任務を経て、私から一つ、質問と相談がございます」
「……何かしら、門くん」
雪が組んだ脚を組み替え、興味深げに顎を引いた。
「――今年度、合気武道部に入部した『一年生五人』の今後の処遇についてです」
門の言葉に、先ほどまで意識が飛びかけていた阿部もハッと目を覚まし、二年生全員が真剣な表情へと戻った。
「彼らは全員、『能力者』です。ですが、その能力の級も、戦闘スタイルも完全にバラバラです。彼らを今後、この裏社会とどう関わらせていくべきか……主将として、測りかねているのです」
門は後輩たちの将来を真剣に見据え、重々しい口調で続けた。
「能力的なポテンシャルだけで言えば、雨宮千歳が唯一『B級』という突出した数値を叩き出しており、東京ダンジョンに入る最低限の資格を有しています。ですが……総長もご存知の通り、本人が極度のビビリであり、実戦では使い物になりません。自分の力を恐れて暴発させるのが関の山です」
「ええ。そして桃井たち四人に関しても、それぞれ身体強化や電気発生といった一芸こそあれど、現状では東京ダンジョンで戦える水準には到底達していません。今連れ込めば、一瞬で怪異の餌食になり、命を落とすでしょう」
南原がタブレットのデータを指し示しながら、冷酷な正論で補足した。
雪は五人の懸念を静かに聞き届けた後、窓の外の深夜の闇を見つめながら、指先でトントンと規則正しくデスクを叩いた。
「……結論から言うわ。彼らを今すぐ、東京ダンジョンのような深淵へ連れて行く必要は一切ないわ」
「え……?」
佐藤がキョトンと声を漏らす。
「TIAから、級の低い能力者でも安全に処理できる『地上の依頼』をいくつか融通してもらうように手配してあるわ。……これからは、地上の軽微な怪異の排除や、霊災の事前防壁展開といった、実戦の基礎を地上で積ませることにします」
雪は再び五人に視線を戻し、冷徹な組織の長としての笑みを浮かべた。
「その地上の依頼に、あなたたち二年生が数人、指導役として必ず付き添いなさい。彼らの盾となり、同時に現場での立ち回りを教え込むのよ。そこで地道にレベルを上げ、級を上げさせるの」
「地上の依頼……っスか」
佐藤が納得したように拳を叩いた。
「全学年の能力者たちには、一般的な裏社会の常識や最低限の知識の学習はすでに終了しているわ。今は個人の素質や能力の偏りに応じて、それぞれのクランが個別に対応している段階よ」
雪は立ち上がり、ガラス窓の前へと歩み出た。美しく豊かな黒髪が室内の照明に照らされて妖しく輝く。
「急ぎはしないわ。ですが、合気武道部の日常の稽古共々、能力の効率的な開発、魔物や悪霊などの退治を通じた実戦経験を、その身に徹底的に積ませなさい。――それが、この学園の新たなカリキュラムよ」
「生存と防衛のための技術、というわけですわね。承知いたしました」
高橋が優雅に一礼する。
しかし、ここで副主将の佐藤が、ポリポリと頬を掻きながら、ある根本的な問題点を口にした。
「あの、総長……。お言葉ですけど、一つめちゃくちゃ難しい問題があるんスよ」
「何かしら、佐藤くん」
「俺たち二年生五人は、あの理不尽な持子先輩から直接魔力を分け与えられて覚醒したから、お互いの共通点とか、得意不得意が感覚でなんとなく解るんスよ。だから、五人で相談し合ったり、アドバイスしたりしてここまで強くなれたんスけど……」
佐藤は困り果て顔で両手を広げた。
「一年生たちの能力は、生まれつきだったり、突然の覚醒だったりして、俺たちとは根本的なシステムが違うんスよね。そんなアクの強い能力者たちに、俺たちの感覚だけで『こうやって魔力を流せ!』とか具体的なアドバイスをしろって言われても……正直、めちゃくちゃ難しいんスよ」
「ええ、陽翔くんの言う通りだよ。神品ちゃんの電気のコントロールとか、桃井くんの変身能力のコツとか、私たちが教えようとしても『感覚が違いすぎて分からん!』ってなるのがオチだもん」
阿部も激しく同意して首を縦に振った。天才肌の魔王に育てられたが故に、異質の能力を持つ後輩への「論理的な指導法」に限界を感じていたのだ。
そんな二年生たちの最大の弱点を見透かしたように、立花雪はふっと、どこか悪戯っぽく、そして最高に不穏な笑みを浮かべた。
「――そのことなら、心配いらないわ」
「え?」
五人の背筋に、不意にゾクリとした冷たい悪寒が走った。
雪は、自身のデスクの上にある内線電話へとしなやかな指先を伸ばしながら、淡々と、しかし決定的な一言を告げたのである。
「あなたたちの技術的な限界を補うために、一年生たちの能力開発を担当する『特別外部アドバイザー』を、私の方から直々に――風間楓さんにお願いしてあるわ。彼女はTIAの特級エージェントとして、多くの能力者を指導してきた実績があるからね」
ピキィィィィィン!!!
その瞬間、死闘を生き抜いたはずの二年生五人の脳裏に、完全なる【絶対零度の恐怖】が直撃した。
室内の空気が一瞬にして凍りつき、五人の瞳のハイライトが同時に完全に消え去った。
ガタガタガタガタ!!!と、全員の膝の皿が恐怖のあまり凄まじい音を立てて震え出している。
風間楓。
あの伝説の怪物・風間助平の顔面に、一切の手加減なしで完璧なドロップキックを叩き込む、本物の修羅である。
もし、あのアクが強くてポンコツな一年生たちを、あの冷徹極まりない風間楓に会わせてしまったらどうなるか。
(((((確実に、死ぬ……!!!)))))
五人の脳内念話が一瞬で同期し、絶望の悲鳴が吹き抜けた。
「あ、あの! 総長!!!」
佐藤が、さっきまでボロボロだったはずの肉体からは想像もつけないほどの神速の体捌きで前に飛び出し、必死の形相で両手を振った。
「アドバイスなら俺たち五人で死に物狂いで考えて、完璧な指導をしてみせるッス!!! だから、アドバイスなんて貰わないくらい、俺たちだけで死ぬ気で頑張るッスから!!!」
「そうですわ!! 私の完璧主義のプライドにかけて、後輩たちの能力を100%開花させてみせますわ!! だから風間先輩の手を煩わせるなんて絶対に無理ですわ!!!」
高橋が女優生命のすべてを賭けたような必死の形相で叫ぶ。
「私の計算に狂いはありません! 私たちが責任を持って一年生を一人前に仕上げます!!」
南原も眼鏡をガタガタと震わせながら悲痛な声で訴えかけた。
「そうよ雪社長!! 一年生たちを、風間先輩にだけは絶対に会わせてはいけないのよぉぉぉっ!!」
阿部に至っては、涙目で雪のデスクに縋り付かんばかりの勢いだった。
主将の門すらも、岩のような肉体をガタガタと震わせ、「自分たちだけで、やらせてください……!」と、決死の覚悟で懇認している。
彼らの心は完全に一つだった。
一年生たちを守るため、そして何より自分たちの平和を守るため。
あの愛すべき一年生たちを風間楓の前に差し出したら、一週間以内に道場が血の海になり、自分たちも巻き添えを食らって精神的に完全破壊される。その恐怖が、五人をかつてない一致団結へと突き動かしていた。
そんな五人の、命がけの「拒絶」を前にして、立花雪はくすくすと、心底楽しそうに黒髪を揺らして笑った。
「ふふ……。随分と気合いが入ったわね。いいわ、そこまで言うなら、まずはあなたたちの指導力を見せてもらいましょうかしら」
「「「「「うすっ(はい、ですわ、よ、はい)!!! ありがとうございますッス(ございます)!!!」」」」」
地獄の執行猶予を勝ち取った五人は、滝のような冷や汗を流しながら、魂の底からの返事を深夜の社長室に響かせるのだった。
一年生たちを守るため、そして何より自分たちの平和を守るため、新生・合気武道部の二年生たちの、真の「地獄の指導者」としての戦いが、今、ここに幕を開けたのである。




