第99話 脱出計画
アーガは密命書に記された一行を見つめ、口元へ冷たい笑みを浮かべた。
今の彼は、二年前のように、ただ黙って殺されるのを待つ少年ではない。
少なくとも現在の実力なら、普通の暗殺者に簡単に殺されることはなかった。
窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえてきた。
アーガはふと、数年前、死体の穴へ投げ捨てられた午後のことを思い出す。
あの頃は全身を血と泥にまみれさせ、自分はこのまま闘技場で死ぬのだと思っていた。
「つまり――」
アーガはゆっくりと顔を上げた。
「赤骸城から逃げ出すしかないのか?」
クロードが突然、大声で笑い始めた。
その笑い声によって、暖炉の炎が激しく揺れる。
「俺は、お前のそういうところが好きだ」
「どんな状況でも、まず生き残る方法を考える」
だが、途中で笑みを収めた。
「ただし……赤骸城の周囲は、ほとんど未開の荒野だ」
「これまで、自力で外へ抜け出せた者はいない」
「城主の部屋には転移魔法陣があるが、まさか城主代理を脅して、お前たちを転送させるつもりではないだろうな?」
「ヴァルガは、明日から城主府で城主代理として働くのか?」
「そのとおりだ」
「もう一人の副城主は、ヴァルガという名前だったな」
アーガは探るように尋ねた。
「実力は、どの程度だ?」
「校尉級だ。俺と大きな差はない」
クロードはアーガを見つめる。
「勝てる自信はあるか?」
アーガの瞳孔が、わずかに縮んだ。
クロードの実力なら、以前に目の当たりにしている。
鉱道で戦ったとき、この男は全身を刃へ変化させ、そこにいた全員を追い詰めた。
当時のアーガが融合変身を使っても、クロードは最後まで本気を出していなかった。
「なるほど」
アーガは小さく笑った。
「連中は、まだ俺の本当の実力を知らないらしい」
「自信を持つのは構わないが、過信するなよ、小僧」
クロードは立ち上がった。
真紅の外套が、背後で大きく揺れる。
「油断すれば、必ず痛い目を見る」
少し間を置き、再び口を開く。
「ただ、お前にとっては朗報と言えそうな話もある」
「何だ?」
「その前に一つ聞こう」
クロードは新しい杯へ酒を注ぎ、一息で飲み干した。
「お前はこの街へ来て、もう三年になる」
「血髑髏闘技場で最も強い戦士が、いつまで経っても遊侠級のままだということを、不思議に思わなかったか?」
アーガは何も答えなかった。
「それに、戍佐級へ到達しそうになった者は、決まって闘技場から姿を消す」
「例えば、お前と一緒にこの街へ連れてこられたモルハンのようにな」
「それには、俺も気づいていた」
アーガは少し考え込んだ。
しかし、すでに答えへ辿り着いていたように続ける。
「理由は、おそらく単純だ」
「戍佐級の戦士が増えすぎれば、赤骸城の支配そのものを脅かす可能性がある」
「正解だ!」
クロードは思わず手を叩いた。
「今の闘技場では、上位五人が再び強くなりすぎている」
「そこで俺たちは、上位五人をまとめて処分することにした」
クロードの笑みが深くなる。
「そして、お前はちょうど第五位だ」
「つまり、ほかの四人と手を組めるということか?」
アーガが尋ねた。
「そういうことだ」
「お前たち五人の処刑日は、同じ日に設定されている」
クロードは一枚の書類を取り出した。
だが、今度はアーガへ見せず、淡々と告げる。
「明日の闘技場で行われる決闘を利用し、全員を殺すつもりらしい」
アーガはしばらく考えた。
そして、外の鳥の声にかき消されるほど小さな声で、あることを尋ねる。
クロードの目に、驚きが浮かんだ。
「それ自体は難しくないが……」
「お前、まさか……」
「心配するな」
アーガはクロードの言葉を遮り、さらに続けた。
「もう一人、住所を知りたい人間がいる」
それを聞いたクロードは、さらに意外そうな表情を見せた。
「それも難しくはない」
「今すぐ調べさせれば、出発前には教えられるだろう」
「分かった」
アーガはわずかに笑った。
「最後まで助かった。ありがとう」
クロードは小さく笑い、アーガの前まで歩み寄った。
突然手を伸ばし、その肩を強くつかむ。
「死ぬなよ」
アーガは一瞬、目を瞬いた。
やがて笑い返す。
「何だ。俺がいなくなるのが寂しいのか?」
「自惚れるな」
クロードは手を離し、暖炉のそばへ戻った。
「お前がもう一人の副城主の手から逃げ延びれば、俺は赤骸城で最も名声のある副城主になれる」
「そうなれば、今まで以上の権限と資源を手に入れられるからな」
クロードは棚から二本の薬剤を取り出し、アーガへ差し出した。
「高級強化薬だ」
「これが、俺からお前への最後の贈り物になる」
「精々、頑張れ」
◇ ◇ ◇
帰り道。
アーガは、クロードから受け取った高級強化薬を手の中で転がしていた。
これは極めて希少な薬剤だった。
服用すれば、短時間のうちに身体能力と魔力を大幅に高められる。
ただし、効果が続くほど身体への負担が増し、時間の経過とともに負傷も悪化していく。
有効なのは、学徒級と遊侠級の者だけ。
それほど貴重な薬が、赤骸城で普通に流通することなどあり得なかった。
アーガは、月明かりに落ちた自分の影を踏みながら歩いた。
頭の中では、考えが目まぐるしく巡っている。
クロードの言葉が何度も蘇った。
未開の荒野。
瘴気に覆われた沼地。
これまで一人も、赤骸城から無事に逃げ切った者はいない。
「やはり、俺が何かを企んでいることには気づいていたか」
アーガは鼻で笑った。
◇ ◇ ◇
夜風が、赤骸城特有の鉄錆の臭いを運んでいた。
アーガがオーク通り七番地の門を開くと、家の中にはまだ明かりがついていた。
「まだ寝ていなかったのか?」
アーガは小さな声で尋ねた。
靴底についた夜露が、敷居へ濃い足跡を残していく。
リナは、古い外套を縫い直していた。
声を聞いた瞬間、針を持つ指が小さく震える。
「アーガ様、お帰りなさい!」
慌てて席を立ち、アーガを迎えに向かった。
金色の髪が、油灯の明かりを受けて温かな色に輝いている。
部屋の隅から、小さな物音がした。
イータが暗がりから顔を覗かせる。
柔らかな狐耳が、不安そうに動いていた。
「ア、アーガ様が帰ってくるまで……待っていたくて……」
声は次第に小さくなった。
尻尾が、無意識に食卓の脚へ巻きついている。
アーガの口元が、わずかに緩んだ。
「そうか。二人とも、ありがとう」
窓際へ歩き、窓を開ける。
夜風がすぐに吹き込み、額にかかっていた髪を揺らした。
遠くに見える血髑髏闘技場では、今も明かりが煌々と灯っている。
観客たちの歓声も、微かに聞こえてきた。
「何かあったんですか、アーガ様?」
リナは針仕事を置いた。
深い青色の瞳に、不安が浮かんでいる。
アーガはすぐには答えなかった。
煙霧に覆われた赤骸城の夜空を見つめ、突然尋ねる。
「二人は、この街の空を綺麗だと思うか?」
「ここの空気は、好きか?」
「えっと……綺麗ではありませんね」
リナは鼻に皺を寄せた。
「いつも灰色で、薄暗いですから」
「イータも……空気が変だと思います」
小狐も、遠慮がちに答えた。
「血と、鉄の臭いがします……」
二人は困惑した様子で顔を見合わせた。
アーガが、なぜ突然こんな質問をしたのか分からない。
沈黙が部屋の中へ広がった。
薪が弾け、小さな火の粉が舞い上がる。
その光が、緊張したアーガの横顔を一瞬だけ照らした。
アーガは深く息を吸い、窓枠へ背を預ける。
「お前たちは……」
一度言葉を切った。
「赤骸城から逃げ出そうと考えたことはあるか?」
「逃げ……出す?」
リナの瞳孔が、大きく縮んだ。
イータの尻尾は、一瞬で大きく膨らんだ。
小さな爪が無意識に床を引っかき、木の表面へ何本もの白い跡を残す。
「俺は、かなり前からその準備をしていた」
アーガの声は小さかった。
しかし、その言葉は雷のように部屋へ響いた。
「ただ、あの頃は……」
「いつか無実が証明されるかもしれないと、まだ期待していた」
リナが勢いよく立ち上がった。
椅子が床を擦り、耳障りな音を立てる。
「アーガ様、それは……」
「二人は――」
アーガはリナとイータをまっすぐに見つめた。
一語ずつ、はっきりと尋ねる。
「俺と一緒に逃げる気はあるか?」
部屋が、完全な静寂に包まれた。
暖炉の炎さえ、動きを止めたように見える。
イータの狐耳は、頭へぴったりと張りついていた。
琥珀色の瞳孔が、細い線のように収縮している。
リナも唇を震わせ、すぐには言葉を返せなかった。
アーガは素早く木製の食卓へ歩み寄った。
懐から、黄ばんだ二枚の羊皮紙を取り出す。
リナとイータの奴隷契約書だった。
羊皮紙が机へ置かれ、小さな音を立てる。
静まり返った室内では、その音さえ異様にはっきりと聞こえた。
「一緒に来たくないなら、それでも構わない」
アーガは、契約書へ指を置いた。
「これを破けば、お前たちは自由だ」
「だが、俺とともに逃げるなら……」
その声が低くなる。
「失敗したときは、全員死刑になる」
リナは呆然としていた。
だが、すぐにその瞳へ涙を浮かべる。
「私の命は、アーガ様に助けていただいたものです!」
金髪の少女の声には、これまでにない強い決意が込められていた。
「アーガ様がどこへ行っても、私もついていきます!」
リナはゆっくりとアーガへ近づいた。
両手で、自然な仕草のまま彼の左手を握る。
深い青色の瞳が、炎を受けて鮮やかに輝いていた。
「私は一生……アーガ様のそばにいます」
その手の上へ、もう一つの冷たい手が重なった。
いつの間にか、イータも二人のそばへ歩み寄っていた。
柔らかな尻尾が、緊張したようにアーガの脚へ巻きついている。
「イータも……一緒に行きたいです」
羽毛が落ちるような、小さな声だった。
「小さい頃から、ずっと赤骸城にいました……」
「だから、外の世界のことは、もうほとんど覚えていません……」
小狐は顔を上げた。
琥珀色の瞳には、涙がいっぱいに溜まっている。
「でも、ここから逃げられるなんて……」
「今まで、一度も考えたことがありませんでした」
次の瞬間。
イータはアーガの胸へ飛び込んだ。
狐耳を彼の胸元へ押しつけ、服を強くつかむ。
「イータも連れていってください……」
「イータはもう……アーガ様なしでは、生きていけません……」
アーガは、胸の奥にあった何かがゆっくりと溶けていくのを感じた。
両腕を広げ、二人の少女を強く抱き締める。
「分かった」
アーガの声は、少し掠れていた。
「もう一度、計画を練り直す」
抱擁を解き、リナとイータの頬に残る涙を優しく拭う。
「詳しいことは、明日話そう」
月光が静かに移動し、三人の影を斑になった石壁へ映し出していた。
三つの影は、離れることなく重なっている。
遠くから、夜警の掠れた呼び声が聞こえてきた。
◇ ◇ ◇
朝日が窓の隙間から差し込む頃には、アーガは昨夜クロードから聞いたことを、すべてリナとイータへ伝えていた。
「――つまり、俺たちはすでに標的にされている」
アーガは指先で食卓を軽く叩いた。
その声は、不気味なほど落ち着いている。
リナが勢いよく立ち上がった。
「ふざけないでください!」
「私たちが、大人しく殺されるのを待つとでも思っているんですか?」
イータの尻尾も、大きく膨らんでいた。
緊張した指先へ無意識に氷の結晶が生まれ、すぐに溶けて消える。
「そ、それなら……これからどうするんですか……?」
その言葉が終わらないうちに、屋外から扉を叩く音がした。
訪ねてきた者は、一通の手紙を渡すと、何も説明せずに立ち去った。
アーガは封を切り、手紙を広げる。
内容を読んだ瞬間、口元へ冷たい笑みを浮かべた。
『赤骸城で最も勇猛なる剣闘士諸君へ。
諸君が長年にわたり血髑髏闘技場で示してきた勇姿は、赤骸城へ比類なき栄光をもたらした。
この盛夏祭を記念し、本日正午、副城主自ら闘技場へ赴き、四名の親衛隊長とともに諸君の武技を試すこととなった。
この戦いは赤骸城の武威を示すと同時に、優れた人材を選抜するためのものでもある。
参加者には全員、褒賞として酒一樽を与える。
さらに勝者には金貨百枚と、副城主自ら授与する《赤骸の刃》勲章が贈られる。
諸君には辞退することなく、その熱き血と武技をもって、盛夏祭に最も華やかな演目を捧げてもらいたい。
――赤骸城副城主 ヴァルガ』




