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第100話 再び闘技場へ

「もう一人の副城主は、随分と仕事が早いな」


アーガは手紙を握り潰した。


掌から炎が立ち上がり、丸められた紙を瞬く間に灰へ変える。


「標的は、上位五人全員か」


「昨夜密命が出されたばかりなのに、今朝にはもう俺たちを殺すつもりらしい」


リナが険しい表情で尋ねた。


「大勢の観客が見ている前で、堂々と殺すつもりなんですか?」


「堂々としているうえに、何も不自然ではない」


アーガは冷笑した。


「『闘技場での不慮の事故』――完璧な筋書きだ」


そのとき、イータが突然アーガの服の裾をつかんだ。


「わ、私も行きます!」


アーガは眉を寄せた。


すぐに断ろうとしたが、リナが先に口を開く。


「連れていきましょう」


リナはイータの前へしゃがみ、同じ高さから目を見つめた。


「ただし、何が起きても観客席の一番安全な場所から動かないこと」


「必ず約束して」


イータは力強くうなずいた。


しかし、膨らんだ尻尾は不安そうにアーガの脚へ巻きついている。


アーガはため息をつき、柔らかな狐耳を軽く撫でた。


「よく聞け。もし俺が倒れたら――」


「倒れません」


リナが突然、アーガの言葉を遮った。


深青色の瞳には、危険な光が宿っている。


「アーガ様は、絶対に負けません」


間もなく、窓の外から集合を告げる角笛が響いた。


赤骸城を覆う巨大な影が、ゆっくりと三人へ迫ってくるようだった。


アーガは腰帯を強く締め、カードケースの位置を確認する。


「行くぞ」


木製の扉を押し開けると、朝の陽光が彼の影を長く引き伸ばした。


「副城主様に見せてやろう」


「本当の『不慮の事故』が、どういうものなのかを」


◇ ◇ ◇


正午の烈日が、血髑髏闘技場を焼いていた。


黄砂に覆われた地面から、歪んだ熱気が立ち上っている。


アーガが石造りのアーチをくぐった瞬間、耳を塞ぎたくなるほどの歓声が押し寄せた。


「レックス!」


「レックス!」


「レックス!」


闘技場の中央では、藍色の長衣をまとった細身の男が、親衛隊長の大剣を優雅にかわしていた。


レックスが指先で地面へ触れる。


その瞬間、ざらついた砂岩が滑らかな氷面へ変化した。


全身を重い鎧で覆った親衛隊長が足を滑らせ、大きく体勢を崩す。


「第七親衛隊長――《鉄壁》のバード!」


実況役の男が、魔導拡声器へ向かって叫んだ。


アーガは目を細め、試合の様子を観察する。


レックスの戦い方は、芸術と呼べるほど洗練されていた。


バードが大剣を振り下ろした瞬間、レックスは身体を半歩ずらし、剣の柄へ指先を触れさせる。


硬い鋼鉄が、瞬時に柔らかなゴムへ変化した。


大剣は力なく折れ曲がり、地面へ垂れ下がる。


観客席から、熱狂的な歓声が上がった。


「材質変換……」


リナが小さく呟く。


「さすがは闘技場第一位ですね」


イータは不安そうに尻尾で地面を掃いていた。


「で、でも……」


その言葉が終わるよりも先に、異変が起きた。


鈍重に見えていたバードの突進が、突然加速する。


ゴムへ変えられた腕当ての下から、冷たい光が走った。


隠し持っていた短剣が、レックスの脇腹を浅く切り裂く。


「ぐっ……!」


レックスは呻き声を漏らした。


倒れそうになりながらも、最後の力でバードの胸甲へ掌を押し当てる。


「――密閉しろ」


掠れた声とともに、バードの鎧が変形した。


わずかに存在していた隙間がすべて塞がり、全身を覆う鉄の棺へ変わっていく。


親衛隊長の悲鳴は、厚い兜の内側へ閉じ込められた。


熱した炉へ投げ込まれた蟹のように、鎧姿のまま激しくもがいている。


「勝者!」


実況役が一瞬言葉を詰まらせた。


「レ、レックス選手!」


闘技場を、凄まじい歓声が包んだ。


しかしレックスは、勝利を喜ぶことなく膝をついた。


立ち上がろうとしても、両脚が鉛のように重く、身体を支えられない。


切り裂かれた長衣の下から、紫黒色の血が滲み出していた。


「早く、医療班を!」


四人の黒衣をまとった男たちが、禿鷹のような速さで闘技場へ駆け込んだ。


崩れ落ちかけていたレックスを担架へ載せ、そのまま運び出していく。


あまりにも手際がよかったため、観客たちは通常の治療だと思っているようだった。


だが、アーガの目は誤魔化せない。


先頭にいた黒衣の男が、レックスの首筋へ細い注射器を突き刺していた。


解毒剤ではない。


意識を奪い、昏睡を早めるための薬だった。


「最初から、生かして帰すつもりはないということか」


アーガは小さく呟いた。


◇ ◇ ◇


アーガは観客席を離れ、両手をポケットへ入れたまま、闘技場の外周通路をゆっくりと歩いていた。


粗い石壁へ掛けられた松明が、彼の影を長く引き伸ばす。


影は歩みに合わせ、異形の怪物のように歪んでいた。


魔導拡声器から、実況役の興奮した声が聞こえてくる。


「ロック選手、絶体絶命!」


「しかし、この瞬間、自分と親衛隊長の短剣の位置を入れ替えた!」


「ロック選手が背後へ出現!」


「第二の挑戦者、ロック選手が親衛隊長を撃破しました!」


(ロックか)


アーガは歩みを止めなかった。


(随分と長い付き合いになった)


(最初に戦ったとき、俺を殺さなかった借りもある。脱出へ誘ってみるか)


やがて再び、実況役の声が響いた。


「残念です!」


「あと一歩及ばなかった!」


「第三の挑戦者グルー選手、敗北!」


「親衛隊長レイモンドの勝利です!」


人気のない通路に、アーガの足音だけが反響する。


彼は口元へ冷たい笑みを浮かべ、石壁に残された無数の傷へ手を触れた。


深いものもあれば、表面を浅く削っただけのものもある。


すべて、過去にこの闘技場で戦った剣闘士たちが残した「記念」だった。


「あれ、聞いたか?」


近くを通りかかった観客の一人が、連れへ話しかけていた。


「副城主様が、勝った奴らを地下の控え室で休ませているらしいぞ」


「夜には屋敷へ招いて、宴を開くんだとさ」


(宴か)


(どう見ても、全員をまとめて始末するための罠だな)


(ヴァルガは、何があっても俺たちを生かしておくつもりがないらしい)


角を曲がると、湿った空気の中へ血の臭いと安酒の臭いが混じっていた。


数人の酔った観客が壁へ寄りかかっている。


アーガの姿に気づいた瞬間、彼らは会話を止めた。


その目には、敬意と同時に、わずかな憐れみが浮かんでいる。


「第四の挑戦者、ケイス選手も勝利!」


突然響いた実況の声に、酔客たちは揃って身体を震わせた。


「これは予想外の結果です!」


アーガは足を止め、頭上を見上げた。


通気口から差し込む一本の陽光の中で、埃がゆっくりと舞っている。


まるで、これから起きる惨劇を予告しているかのようだった。


通路の奥から、慌ただしい足音が近づいてくる。


二人の医療担当者が、担架を運びながら通り過ぎた。


横たわっていたのは、最初に敗北した挑戦者だった。


胸部は大きく陥没し、口元から絶え間なく血が流れ出している。


アーガは小さく鼻を鳴らし、便所の木製扉を押し開けた。


室内は薄暗く、小さな窓から斑な光が差し込んでいる。


黄ばんだ鏡の前へ立つ。


鏡の中には、鋭い眼差しを持つ青年が映っていた。


二年前よりも顔の輪郭は険しくなり、少年らしさはほとんど残っていない。


水を流す音だけが、静かな空間へ響いていた。


アーガは、濡れた自分の掌を見つめる。


水滴が掌の線に沿って流れ落ちていく。


まるで、この闘技場で消えていった無数の命のようだった。


「最後の挑戦者――」


魔導拡声器から発せられた叫びが、厚い石壁を震わせた。


「アーガ選手!」


直後、爆発するような歓声が響き渡る。


アーガは手についた水を振り払い、深く息を吸った。


◇ ◇ ◇


通路の先にある鉄扉を押し開ける。


目を焼くような陽光が、一気に流れ込んできた。


同時に、観客たちの歓声が巨大な波となってアーガを飲み込む。


数千人もの観客が立ち上がり、彼の名を叫んでいた。


「アーガ!」


「アーガ!」


「アーガ!」


闘技場の中央には、最後の親衛隊長が立っている。


暗金色の全身鎧が、真昼の光を冷たく反射していた。


「ようやく来たか」


副城主ヴァルガの声が、魔導拡声器を通して闘技場全体へ響く。


「親衛隊長は、お前が恐ろしくなって逃げ出したのではないかと心配していたぞ」


「お待たせして申し訳ありません」


アーガは腰にあるカードケースの留め具を外した。


声量はそれほど大きくない。


それでも、魔導拡声器によって、言葉は闘技場の隅々まで届いていた。


「少し、考え事をしていました」


親衛隊長が、片方の眉を上げる。


「考え事だと?」


「ええ」


アーガは数枚のカードを掌へ並べた。


金属製のカード表面が、強い陽光を反射する。


「あなたを倒すのに、何分使うべきか考えていました」


観客席が一瞬、完全に静まり返った。


次の瞬間。


先ほどまでを上回る熱狂的な歓声が爆発した。


「第一位のレックスだって、もう倒れたんだぞ!」


「第五位のアーガは、あんなに強気なのか!」


「面白い」


親衛隊長はゆっくりと腰の長剣を抜いた。


刀身には、毒を思わせる幽緑色の光が揺らめいている。


「それなら見せてもらおう」


「流刑にされた貴族の坊ちゃんに、そんな大口を叩く資格があるのかをな」


アーガの指先には、すでに最初のカードが挟まれていた。


口元へ、氷のように冷たい笑みを浮かべる。


「それでは――」


カードを持つ指が、わずかに動いた。


「計測を始めましょうか、親衛隊長殿」


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