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第97話 辺境

王国西部の辺境では、冬の訪れが早い。


空がわずかに白み始めた頃には、遠方の山々は灰白色の霧に覆われ、ぼんやりとした輪郭しか見えなくなっていた。


昨夜は薄く雪が降った。


野営地の外に広がる泥地には薄氷が張り、兵士の靴が踏みつけるたびに、細かな亀裂の音が響いている。


リサは、野営地を囲む木造の防壁の上に立っていた。


学院にいた頃のように金色の長髪を無造作に下ろしてはいない。


一本の黒い布紐で、後頭部にまとめていた。


身につけているのは、動きやすさを重視した銀色の軽鎧だった。


胸元と肩には、いくつもの目立つ傷が残されている。


そのうちの一本は、ベルマン家の紋章を横切るように深く刻まれていた。


リサは、防壁の外へ視線を落とした。


敵軍の焚き火はすでに消えている。


霧の向こうでは、無数の人影がゆっくりと動いていた。


これまでのように、関所へ向かって正面から突撃してくる様子はない。


敵は三つの部隊に分かれ、山腹と森林に沿って左右へ広がっている。


複数の防衛線を、同時に攻撃するつもりなのだろう。


隣で監視を担当していた騎士が、魔導観測器を下ろした。


その表情が一気に険しくなる。


「少なくとも千五百人」


「後方には攻城車もあります」


リサは剣の柄へ手を置いた。


「昨日の倍ね」


「どうやら、これ以上長引かせるつもりはないらしい」


背後から、低い声が聞こえた。


リサが振り返る。


大柄な中年の男が、木製の梯子を上って防壁へ姿を現した。


彼の鎧は、ほかの騎士が身につけているものよりも厚く、重々しい。


肩には深い青色の外套を掛け、腰には二本の長剣を下げていた。


金色の髪には、すでにわずかな白髪が混じっている。


顔立ちはリサとどこか似ていたが、その眼差しは彼女よりもはるかに落ち着いていた。


王国西部騎士団の騎士団長。


そして、リサの父親でもある男。


シド・ベルマンだった。


「お父様」


リサが呼びかける。


シドは防壁の端まで歩き、移動を続ける敵軍を一度見渡した。


すぐに部下へ命令を下し始める。


「第一隊は正門を守れ。弓兵は全員、防壁へ上がれ」


「第二隊は東側の山腹へ向かい、食糧庫の背後へ回り込ませるな」


「第三隊は俺とともに出撃する。攻城車が二百メートル以内へ入った瞬間、突撃しろ」


伝令兵は命令を復唱すると、梯子を駆け下りていった。


間もなく、防壁の下から無数の足音が響き始める。


つい先ほどまで休んでいた兵士たちは素早く鎧を身につけ、武器棚から長槍と盾を取り出していった。


リサもシドについていこうとした。


しかし、父親の腕が目の前へ伸び、その進路を遮る。


「お前は防壁に残れ」


リサは眉を寄せた。


「なぜですか?」


「ここは戦場だ。学院の試合ではない」


「今回の敵は数が多すぎる。お前にまで気を配っている余裕はない」


「私はもう、第三隊と一緒に五回も戦っています」


リサの声が少しだけ大きくなった。


「前回、東側の防衛線を突破されたときも、私が兵を率いて穴を塞ぎました」


シドは顔を向け、娘を見つめた。


「だから何だ?」


リサは一瞬、言葉に詰まった。


「だから私は、もう戦場に出る資格があります」


父と娘は、数秒間無言で見つめ合った。


やがてシドは、それ以上止めようとはしなかった。


城門付近に待機している騎兵隊を指さす。


「俺の後ろについてこい。勝手に隊列を離れるな」


「陣形を崩された場合は、すぐに関所まで退け」


「分かりました」


◇ ◇ ◇


重い摩擦音を響かせながら、城門がゆっくりと開いていく。


三百人の騎士が、野営地から一斉に飛び出した。


馬蹄が地面の薄氷を踏み砕き、泥の上へ無数の乱れた蹄跡を残していく。


リサはシドの背後を走っていた。


冷たい風が、絶え間なく頬へ叩きつけられる。


霧の中にあった敵兵の姿が、次第にはっきりと見えるようになった。


最前列の敵兵たちが、長槍を一斉に構える。


霧の中に並んだ無数の槍先が、冷たい光の壁を作り出していた。


「盾を上げろ!」


シドが大声で命じる。


先頭の騎士たちは同時に姿勢を低くし、盾を正面へ構えた。


両軍が激突した瞬間、金属同士の衝突音と、軍馬の嘶きが入り混じった。


何人かの騎士が長槍で馬上から突き落とされる。


しかし敵軍の陣形にも、騎兵の突進によって大きな亀裂が生まれた。


シドは長剣を抜き、目の前へ伸びてきた槍の柄を一撃で斬り落とした。


そのまま剣を振り下ろす。


背後に隠れていた敵兵の肩鎧ごと、身体を深く切り裂いた。


シドは振り返らない。


騎士たちを率い、そのまま攻城車のある方向へ突き進んでいった。


リサの側面へ、二人の敵兵が回り込む。


左側の男は斧を振り上げ、リサの軍馬の脚を狙った。


もう一人は短槍を構え、彼女の胸元へ突き出してくる。


リサは即座に手綱を放し、馬の背から飛び降りた。


同時に、手の中のカードが淡い緑色の光を放つ。


「《恋人》――自然の鎧!」


カードから、大量の蔓が溢れ出した。


蔓はリサの腕と腰に沿って急速に成長し、互いに複雑に絡み合っていく。


瞬く間に、身体の表面を覆う硬い植物の鎧が形成された。


さらに右腕の外側からは、二メートル近い長さを持つ植物の剣が伸びていく。


敵兵の短槍が、自然の鎧へ突き刺さった。


しかし、外側に生えていた葉を数枚貫いただけで、穂先は止められる。


リサは腕を上げ、槍先を脇に挟み込んだ。


そのまま身体を回転させ、植物の剣を横薙ぎに振るう。


緑色の刃が、敵兵の胸元を切り裂いた。


吹き出した血が、凍りついた地面へ飛び散る。


もう一人の敵兵が背後へ回り、斧を振り下ろした。


だが、リサは初めから気づいていたかのように、半歩だけ前へ踏み出す。


背中を覆う蔓が急速に伸び、斜めに傾いた盾の形へ変化した。


振り下ろされた斧が、蔓の盾へ食い込む。


敵兵が武器を引き戻すよりも早く、植物の剣が下顎から突き刺さった。


刃は頭部を貫き、兜の上部から突き出す。


温かな血が、植物の刃に沿って流れ落ちた。


それでも、リサの表情はほとんど変わらなかった。


刃を引き抜き、前方を進む騎士隊を追いかける。


一年前、初めて人を殺したとき。


リサは死体のそばに立ったまま、長い間吐き続けていた。


夜になって目を閉じれば、殺した相手の顔が浮かんだ。


しかし今では、敵の鎧を正確に避け、最も脆い場所へ刃を突き刺せる。


人を殺しても、その足を止めることさえなくなっていた。


◇ ◇ ◇


短い戦闘が終わった。


シドはリサの前まで歩き、彼女の腕へ視線を向けた。


「怪我をしたのか?」


「ただの擦り傷です」


「先ほど敵の盾陣へ突撃したとき、第三隊から二十メートル以上離れただろう」


「私が側面へ回り込まなければ、攻城車が関所まで近づいていました」


「結果が正しかったからといって、過程に問題がなかったことにはならない」


シドは淡々と言った。


「今回は成功した。だから、お前は今もここに立っている」


「だが、蔓で盾陣を崩せていなければ、数十人の敵に包囲されていた」


リサはしばらく黙っていた。


言い返すことはしなかった。


シドの口調が、少しだけ和らぐ。


「それでも、三か月前よりはかなり良くなった」


「少なくとも、先に陣形を観察するようになった。以前のように、ただ正面へ突っ込むこともなくなった」


「それは褒めているのですか?」


「一応はな」


シドはそう答え、負傷兵が集められている場所へ歩いていった。


リサも、そのあとを追う。


城門を通りかかったとき、一人の若い騎士が木板の上へ横たえられていた。


胸には、途中で折れた長槍が深く刺さっている。


まだ意識が残っているらしく、唇だけが何度も動いていた。


だが、すでに声は出なかった。


隣にいた医師が、しばらく傷を確認する。


最後には何もせず、ただ若い騎士の瞼を閉じた。


学院の試合でも、怪我をすることはあった。


しかし、試合場の外には常に教師と医師が待機していた。


審判が危険だと判断すれば、すぐに戦いは止められる。


ここには審判などいない。


誰かが倒れても、戦闘が中断されることはない。


敵の武器が、急所を避けてくれるはずもなかった。


「今日、何人死にましたか?」


リサが尋ねた。


「現時点で確認できたのは十七人だ」


シドが答える。


「重傷者が、あと六人いる。生き残れるかどうかは、本人たち次第だ」


リサは振り返り、白い布を掛けられた死体を見た。


不意に、学院の訓練場を思い出す。


試合が終わったあと、アーガはいつも手首を回しながら、相手の能力が厄介だったと口にしていた。


あの頃の自分たちは、試合に負けることを、とても深刻な問題だと思っていた。


今となっては、はるか昔の出来事のように感じられる。


「まだ、アーガの情報はありませんか?」


リサは突然尋ねた。


シドの足が、わずかに止まる。


「ない」


「王都や、周辺の領地は?」


「すべて調べた」


シドは再び歩き始めた。


「失踪してから、身分証明書を使った記録はない」


「傭兵ギルドにも、都市防衛軍にも、あいつに関する記録は残されていなかった」


シドは娘へ視線を向ける。


「すでに一年以上が過ぎている」


「お前も、最悪の結果を考えるべきだ」


リサは顔を伏せた。


指先で、腰にあるカードへそっと触れる。


「遺体が見つかっていない以上、死んだとは断定できません」


シドは、それ以上説得しようとはしなかった。


リサがこのところ必死に辺境軍へ入ろうとしていたのは、単に自分の実力を証明するためだけではない。


ベルマン家が持つ情報網を利用したかったのだ。


各地へ赴いて戦う中で、偶然アーガに関する情報を耳にすることも期待していた。


しかし、辺境の戦火が冬の間ずっと続いても、リサのもとへ届くのは、同じ内容が記された返事ばかりだった。


――該当者なし。


◇ ◇ ◇


冬の雪が解けると、辺境の道は深い泥に覆われた。


春になると、敵軍は再び攻撃を開始した。


リサは騎士団とともに、三つの関所を守り抜いた。


夏を迎える頃には、二十人からなる小隊を率い、一人で巡回任務を遂行できるようになっていた。


そして、二度目の雪が辺境へ降り始めた頃。


軍営の兵士たちは、彼女を見ても、もはや「騎士団長の娘」とは呼ばなかった。


一人の騎士として、先に敬礼を向けるようになっていた。


誰か一人が失踪したからといって、時間が止まることはない。


辺境の戦争もまた、終わることなく続いていた。


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