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第95話 氷

リナはイータの隣へしゃがみ込み、冷え切った小さな手を優しく握った。


「私とアーガ様が、あなたに魔法を教えるわ。最初は少し大変かもしれないけれど……」


「わ、私も……本当に魔法を学べるんですか?」


イータの声は、蚊の鳴くように小さかった。


琥珀色の瞳が、油灯の明かりを受けて揺れている。


アーガは木製の机へ歩み寄ると、カードケースの中身を音を立てて広げた。


強化を終えた六枚のカードが、油灯の下で淡い光を放つ。


カード内部を流れる魔力の筋は、呼吸するように明滅していた。


「一枚選べ」


アーガは腕を組んだ。


「ただし、リナのように手取り足取り教えてもらえるとは思うなよ」


イータは怯えた様子で机へ近づいた。


一枚ずつカードへ目を向け、最後に赤の五《氷》で視線を止める。


カードの表面に描かれた霜の模様が、彼女の曖昧な記憶に残る北境の雪原を思い起こさせた。


それは、過去の記憶の中に残された、数少ない温かな景色だった。


「こ、これ……」


イータは小さな爪のある手を伸ばした。


しかし、カードへ触れる直前で、怯えたように引っ込めてしまう。


「《氷》を選ぶの?」


リナは少し意外そうに目を瞬いた。


「私はてっきり、《治癒体》を選ぶと思っていたわ」


一方、アーガは口元をわずかに上げた。


「それなら決まりだ」


小ジョーカーを斜めに傾け、赤の五《氷》へ重ねるように差し込む。


二枚のカードが重なった状態で、イータの手のひらへ置いた。


カードが皮膚へ触れた瞬間。


凍えるような冷気が、イータの魔力回路へ流れ込んだ。


冷気は腕から肩へ、さらに全身の隅々まで一気に駆け巡る。


「ひゃっ!」


イータが小さな悲鳴を上げた。


――パキッ。


手のひらに、白い氷の結晶が生まれる。


「手を離すな!」


アーガはすぐにイータの手首をつかんだ。


「魔力がお前を拒絶している」


「その力を支配するか、それとも全身を凍らされて氷像になるかだ」


イータは歯を強く食いしばった。


白い尻尾の毛が、一斉に逆立つ。


氷の結晶は手のひらから腕へ向かって広がり、肌を覆い尽くしていく。


しかし、肩へ届く直前で、その進行が突然止まった。


イータの額から、冷たい汗が流れ落ちる。


それでも、恐怖に揺れていた瞳は、少しずつ一点へ集中していった。


赤の五《氷》に刻まれた霜の模様が、イータの指先に合わせるようにゆっくりと回転し始める。


やがて模様は、淡い氷青色の霧へ変わった。


その霧が指先から身体へ入り込み、イータの皮膚へ溶け込んでいく。


「せ、成功したの?」


リナは息を止めたまま、二人を見つめていた。


アーガはイータの手首から手を離した。


元の姿へ戻った赤の五《氷》を確認する。


カードの右上には、それまで存在しなかった小さな氷の紋章が浮かんでいた。


「これが、《氷》の力か……」


アーガは独り言のように呟いた。


イータは呆然と、自分の手を見つめている。


指先では、小さな氷の結晶が楽しそうに跳ねていた。


冷たい光が、彼女の琥珀色の瞳を明るく照らしている。


アーガはその様子を見つめたあと、突然手を伸ばし、イータの柔らかな髪を撫でた。


狐耳が驚いたように真っすぐ立つ。


しかし、意外にもイータは逃げなかった。


「ここに置くと決めた以上、もう怯える必要はない」


アーガの声は、いつもよりわずかに柔らかかった。


指先が、首枷によって残されたイータの首の傷痕へ軽く触れる。


「俺は、奴隷を痛めつけて喜ぶような連中とは違う」


イータの尻尾の先が、小さく震えた。


手のひらに生まれた氷が、固まっては溶けていく。


彼女は勇気を振り絞り、顔を上げた。


アーガの琥珀色の瞳と、真正面から視線が重なる。


そこには、イータがこれまで何度も見てきた暴虐さも、侮蔑もなかった。


ただ、静かな約束だけが宿っている。


「わ、私……本当に、ここにいてもいいんですか?」


イータは小さな声で尋ねた。


両手の爪が、無意識に服の裾を強くつかんでいる。


アーガは軽く鼻を鳴らした。


「今さら何を言っている」


「目覚めたばかりの魔力を持ったお前を、街へ放り出して標的にしろとでも言うのか?」


わざと険しい顔を作っていたが、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。


窓から差し込む月光が、三人の重なった影を石壁へ映している。


屋外では、赤骸城の冷たい夜風が、相変わらず激しく吹き続けていた。


◇ ◇ ◇


その夜。


イータは猫用の寝床で、何度も寝返りを打っていた。


柔らかな敷物は、落ち着きなく動く尻尾によって、すっかり乱れている。


イータはそっと上半身を起こした。


月明かりを頼りに、向かい側にある寝床へ目を向ける。


リナはすでに眠っていた。


長い金髪が枕の上へ広がり、胸元が穏やかな呼吸に合わせて上下している。


イータの指先が、無意識に寝間着の裾をつかんだ。


この二日間、アーガが自分へ向ける視線は、いつも冷静で感情が読み取れなかった。


顔を合わせるたび、反射的に尻尾を丸め、耳を頭の後ろへ張りつけてしまう。


この家では、温かい食事を食べられる。


清潔で柔らかな寝床でも眠れる。


それでも、いつか突然捨てられるのではないかという恐怖が、影のようにイータへまとわりついていた。


イータは音を立てないように猫用の寝床から出た。


裸足のまま、冷たい木製の階段を一段ずつ下りていく。


一階の炉には、まだ赤い熾火がわずかに残っていた。


普段アーガが座っている木製の椅子には、誰もいない。


机の上には、数枚のカードだけが置かれていた。


「アーガ様……?」


羽毛が落ちるように、か細い声だった。


しかし、返事はない。


扉の隙間から夜風が入り込み、むき出しになった足首へ冷たく触れた。


イータは恐る恐る庭の扉を開いた。


月光が、細い身体へ一気に降り注ぐ。


遠くの荒野に、見慣れた人影があった。


アーガが一人で、カードを使った訓練をしている。


手にした赤の三《草》が、柔らかな緑色の光を放っていた。


周囲の雑草が、彼の動きに合わせて猛烈な勢いで成長し、次の瞬間には地面へ伏せていく。


イータは冷たい土へ足の指を沈め、一歩ずつアーガへ近づいた。


夜風が前髪を揺らす。


青草と夜露の匂いが、風に混じっていた。


「アーガ様……」


イータは五歩ほど離れた場所で立ち止まった。


声は、ほとんど聞こえないほど小さい。


アーガは勢いよく振り返った。


手にしていたカードの光が、瞬時に消える。


月明かりの下に浮かぶ彼の輪郭は、鞘から抜かれた剣のように鋭く、冷たかった。


「どうした?」


その声は、夜風よりも冷たく感じられた。


イータの尻尾が、無意識に自分の脚へ巻きつく。


アーガが自分を嫌っているのかと聞きたかった。


この家に、いつまで置いてもらえるのかと尋ねたかった。


もし自分が強くなれなければ、また捨てられるのかと確かめたかった。


だが、言葉はすべて喉の奥でつかえた。


結局、その口から漏れたのは、小さな嗚咽だけだった。


アーガは、目の前で震えている小狐を見つめた。


月明かりが、薄い寝間着を照らしている。


首には、首枷によって残された青黒い痕が、まだ完全には消えずに残っていた。


その姿を見て、アーガは一年半前、ゴミ捨て場の傍らでリナを見つけたときのことを思い出した。


「何かあるなら話せ」


アーガの口調が、わずかに和らぐ。


「怒ったりはしない」


イータの耳が、小さく動いた。


その直後、琥珀色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。


イータは慌てて袖で拭おうとした。


しかし、拭えば拭うほど、涙は次々に溢れてくる。


「ご、ごめんなさい……」


「すぐに戻ります……」


アーガは深いため息をついた。


イータの目の前へ歩み寄り、その場へしゃがみ込む。


そうすると、涙に濡れた小狐の顔を見るために、アーガの方が少し見上げる姿勢になった。


「よく聞け」


アーガは手を伸ばし、イータの頬を流れる涙を拭った。


カードを扱うときよりも、その動きは優しかった。


「俺がお前を連れ帰った以上、気まぐれに捨てたりはしない」


イータの瞳孔が、月明かりの中でわずかに広がった。


二つの琥珀色の硝子玉のように輝いている。


彼女は何度か口を開閉したあと、小さく答えた。


「……はい」


それでも、イータの身体から緊張は消えていなかった。


アーガは困ったように息を吐き、赤の三《草》をカードケースへしまった。


そして突然腰を屈めると、イータの身体を横抱きにする。


「ひゃっ!」


イータは完全に固まった。


雪のように白い尻尾の毛が、一瞬ですべて逆立つ。


「お前の命を助けて、この家まで連れてきたんだ」


アーガはイータを抱いたまま、家へ向かって歩き始める。


その声は、先ほどの夜風よりもずっと温かかった。


「ここまでした以上、最後まで面倒を見る」


イータの狐耳が、小さく揺れる。


小さな手が、無意識にアーガの胸元の服をつかんだ。


「何か不安なことがあるなら、俺が夜に戻ってきてから、いつでも聞けばいい」


夜風が、イータの額にかかる細い髪を揺らした。


アーガの言葉から伝わる温もりに、イータは少しずつ身体の力を抜いていく。


丸めていた尻尾も緩み、アーガの胸元へ身を寄せた。


「はい……」


イータの声は小さかった。


しかし、その答えには、はっきりとした意志が込められていた。


「アーガ様を信じます」


アーガは足先で扉を押し開けた。


音を立てないように階段を上り、二階の部屋へ入る。


リナはまだ、穏やかな寝息を立てていた。


猫用の寝床では、敷物がすっかり乱れている。


アーガはイータをその中へ下ろし、近くにあった毛布を引き寄せて身体へ掛けた。


そのまま立ち去ろうとしたとき。


袖口が、小さな手につかまれた。


「も、もう少しだけ……」


イータの声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。


「ここにいてもらえませんか?」


「少しだけでいいので……」


アーガは仕方なさそうに、猫用の寝床の傍らへ腰を下ろした。


そのまま胡坐をかき、震えているイータの手を握る。


「安心して眠れ」


イータの尻尾が、ゆっくりとアーガの手首へ巻きついた。


柔らかな毛の感触は、温かい襟巻きのようだった。


窓から差し込む月光が、床の上へ斜めに伸び、銀色の境界線を描いている。


「アーガ様……」


イータの瞼が、次第に重くなっていった。


「おやすみなさい……」


アーガは、小狐の呼吸がゆっくりと穏やかになるまで、その場に座っていた。


眠りに落ちたあとも、イータの狐耳は時折、無意識に小さく動いている。


完全に眠ったことを確認すると、アーガはそっと手首へ巻きついた尻尾を外した。


毛布を掛け直し、音を立てないように一階へ下りていく。


屋外では、夜風が屋根の上を通り過ぎ、柔らかな音を立てていた。


まるで、怯える幼い狐を優しく宥める子守歌のようだった。


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