表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
94/202

第94話 枷を解く

朝霧がまだ晴れきらないうちに、アーガはクロードの屋敷を訪れた。


訓練場の石柱のそばでは、真紅の外套をまとったクロードが、気だるそうに身体を預けている。


刃のように変形した指先で黒曜石の塊を削り、黒い欠片をぱらぱらと地面へ落としていた。


アーガが近づいても顔を上げず、鼻を鳴らす。


「例の小狐のためか?」


「知っていたのか?」


アーガはわずかに眉を寄せた。


「昨日、報告が入った」


クロードは指先で黒曜石の欠片を弾いた。


鋭い破片が暗器のように空気を切り裂き、離れた場所にある標的の中心へ突き刺さる。


「あの路地には、何人も見張りを置いている」


アーガはしばらく黙っていたが、やがて単刀直入に尋ねた。


「禁魔の首枷を外す鍵は手に入るか?」


クロードはそこで初めて顔を上げた。


瞳に、面白がるような光が浮かぶ。


「捨てられた奴隷なら、鍵は元の主人が持ったままのことが多い」


クロードは懐から青銅の令牌を取り出し、近くに控えていた従者へ投げ渡した。


「骨牙通りへ行け」


「足の悪いホムを探して、俺の名前を出せ。あいつは、捨てられた奴隷の『遺品』を専門に買い取っている」


従者は令牌を受け取ると、すぐに屋敷の門から出ていった。


「助かった」


アーガは短く礼を述べ、その場を離れようとした。


「まだ礼を言うのは早いぞ」


クロードが口元を吊り上げ、白い歯を見せる。


「最近のお前は、何かを企んでいるのか?」


アーガは振り返らなかった。


「さあな。どうだろうな」


それだけ答え、屋敷をあとにした。


◇ ◇ ◇


正午の血髑髏闘技場は、煮えたぎる鍋のような熱気に包まれていた。


アーガは観客席の高い場所に座り、手の中で血髑髏令牌を弄んでいる。


冷たい金属の感触が、掌へ伝わってきた。


闘技場の中央では、巨大な斧を持った戦士が、双頭の魔狼と死闘を繰り広げている。


鮮血が黄色い砂へ飛び散り、生温かく生臭い空気が立ち上っていた。


(左肩が三寸下がっている)


(右脚に十分な力が溜まっていない)


アーガの視線は刃のように鋭く、戦う者たちの動きに潜む欠点を切り分けていく。


半年にわたる命懸けの戦いによって、相手を観察する習慣は、すでに本能に近いものとなっていた。


戦士が斧を振るう軌道。


魔狼が飛びかかる直前に緊張する筋肉。


さらには、観客席の賭博師たちが金を賭けるときの表情さえも。


そのすべてが、アーガにとって戦いを学ぶための糧となっていた。


「次の試合!」


審判の怒鳴り声が、闘技場全体へ響き渡る。


「《毒牙》ドワーフ!」


痩せた暗殺者が、軽やかな身のこなしで砂地へ飛び降りた。


手にした短剣には、暗い緑色の毒が怪しく輝いている。


対するのは、巨大な鍛造槌を肩へ担いだドワーフだった。


槌の頭には、弾けるような音を立てる電撃が絡みついている。


アーガは少しだけ上体を前へ傾けた。


ドワーフは一見すると鈍重だった。


だが、暗殺者が懐へ飛び込んだ瞬間、身体を回転させて槌を横薙ぎに振るう。


銀色の蛇のような雷が炸裂し、暗殺者を三歩も後退させた。


しかし、その直後。


暗殺者は手にしていた短剣を投げ放った。


短剣は不自然な軌道を描きながら空中を旋回し、ドワーフの背後へ回り込む。


――ザシュッ!


血飛沫が散った。


ドワーフは怒号を上げ、槌を地面へ叩きつける。


衝撃波が短剣を吹き飛ばした。


だが、その大振りな動きによって、腰と腹部が無防備になる。


暗殺者は影のように距離を詰めた。


もう一本の短剣が、ドワーフの喉元へ一直線に伸びる。


(終わったな)


アーガは静かに目を閉じた。


この程度の実力者同士による戦いでは、勝敗はほんの一瞬の判断で決まる。


そして敗者の結末は、勝者の気分次第だった。


その場で殺され、死体を魔獣の餌にされることもある。


半死半生の状態で生かされ、次の試合でもう一度戦わされることもあった。


◇ ◇ ◇


夕暮れが街を包む頃、アーガはオーク通り七番地の門を開いた。


庭の中央では、リナが魔法の練習をしていた。


指先には淡い緑色の魔力がまとわりついている。


足元に生えた一本の野草が、異常な速さで成長していた。


伸びた蔓は生き物のように絡み合い、柵に似た形を作っている。


足音に気づいたリナが、嬉しそうに振り返った。


「アーガ様!」


「見てください。形を変えられるようになったんです!」


次の瞬間。


蔓の先端が勢いよく立ち上がり、硬質化して木の棘のような形へ変化した。


「蔓も操れるのか?」


アーガは少し驚きながら、木の棘を指でつまみ、硬さを確かめる。


「悪くない」


「だが、実戦では敵が大人しく魔法の完成を待ってくれるわけじゃないぞ」


リナは不満そうに頬を膨らませた。


それに合わせるように、蔓も力を失って地面へ垂れ下がる。


そのとき。


扉の陰から、白く毛深い影が顔を覗かせた。


イータは古びた布人形を胸へ抱えていた。


狐耳を緊張したように小刻みに動かしている。


「リ、リナお姉ちゃんが、もっと練習するって……」


アーガが視線を向けると、イータはすぐに身体の半分を扉の陰へ引っ込めた。


尻尾も大きく膨らみ、ふわふわの毛玉のようになっている。


「行くぞ」


アーガは再び門を開いた。


「北側にある、使われていない訓練場へ行く」


◇ ◇ ◇


放棄された訓練場には、背の高い雑草が生い茂っていた。


壊れかけた木製の杭には、刀や斧で何度も斬られた痕が残っている。


リナは広場の中央へ立った。


袖口から伸びた蔓が、蛇のように宙を這う。


あるときは複雑に編み込まれて網となり、またあるときは硬質化して長い槍へ変化した。


アーガは少し離れた場所で腕を組み、その様子を見守っている。


時折、攻撃の角度や、魔法を放つタイミングについて口を挟んだ。


イータは、風雨に削られた大きな岩の上へ座り、身体を丸めていた。


琥珀色の瞳が、月明かりを受けて薄く輝いている。


リナの蔓がアーガの服をかすめるたび、イータの耳が緊張したように真っすぐ立ち上がった。


「アーガ様……」


リナが突然、蔓を止めた。


力を失った蔓が、地面へ垂れ下がる。


「アーガ様は……イータのことが、あまり好きではないんですか?」


アーガは一瞬、言葉を失った。


夜風が荒れた草原を通り抜ける。


草が擦れ合う音が、短い沈黙を埋めた。


遠くに見える赤骸城の明かりは、血のように赤く染まっている。


血髑髏闘技場からは、観客たちの歓声が微かに聞こえてきた。


「嫌いというわけではない」


やがてアーガは答えた。


その声は、夜霧よりも冷たかった。


「西部国境の戦争は、まだ終わっていない」


「情勢は不安定で、赤骸城も以前より明らかに荒れてきている」


アーガは岩の上にいるイータへ視線を向ける。


小狐の耳が、瞬時に頭へ張りつくように垂れ下がった。


「そんな状況で、自分の身も守れない人間を連れて歩くのは、正直に言えば不便だ」


リナの指先が、無意識に蔓を強く握り締めた。


「でも、禁魔の首枷を外せば、イータも魔法を学べます!」


「たとえ上手に使えなくても……私が守ります!」


月光が、リナの意地を張るような横顔を照らしていた。


金髪には、訓練中についた草の切れ端が絡んでいる。


その姿は、かつて鉄の檻の中で身体を丸めながらも、必死に光へ手を伸ばしていた少女によく似ていた。


アーガは小さく息を吐いた。


リナの髪へ手を伸ばし、絡んでいた草を取り除く。


「本当に、お前には敵わないな」


リナの表情が、ぱっと明るくなった。


一本の蔓が勢いよく伸び、アーガの手首へ巻きつく。


「それなら、首枷を外すとき、アーガ様からもイータへ力を分けてあげてください」


「分かった」


アーガは蔓から手を抜いた。


その口元には、わずかな笑みが浮かんでいる。


岩の上にいるイータへ顔を向ける。


小狐は自分の身体へ尻尾を巻きつけ、震える雪の塊のようになっていた。


(目だけは、あの頃のリナとよく似ているな)


◇ ◇ ◇


訓練を終えたあとの帰り道は、いつも以上に静かだった。


夜風が荒野の冷気を運び、昼間に血髑髏闘技場でまとわりついた血の臭いを吹き散らしていく。


リナは三人の先頭を歩いていた。


指先には、まだ蔓の爽やかな香りが残っている。


イータはアーガのすぐ後ろを、慎重に歩いていた。


尻尾を不安そうに左右へ揺らし、ときどきアーガの様子を盗み見ている。


オーク通り七番地の門を開いたとき。


石段の上に、灰色の布包みが置かれていることに気づいた。


月明かりに照らされた包みは、ひどく不自然に見えた。


「これは……?」


リナが腰を屈め、包みを拾い上げる。


布の中から、金属同士が触れ合う小さな音がした。


アーガは眉を寄せ、リナの手から包みを受け取った。


そのまま大股で家へ入る。


油灯の明かりが、石造りの壁へ揺れる影を映していた。


アーガが布の結び目を解く。


錆びついた黄銅の鍵が、掌へ滑り落ちた。


その下には、二つ折りにされた羊皮紙が入っている。


アーガは紙を開いた。


『鍵を送る。


今度何か困ったことがあれば、直接俺のところへ来い。


――クロード』


乱雑な文字には、まるで刃物で刻みつけたような力強さがあった。


文章の最後には、ひどく歪んだ狼の頭まで描かれている。


「この野郎……」


アーガは鼻で笑い、指先で羊皮紙を軽く弾いた。


「それほど俺に借りを作らせたいのか?」


リナが隣から覗き込んだ。


瞳が期待に満ちて輝いている。


「首枷の鍵ですか?」


イータの耳が、勢いよく真っすぐに立ち上がった。


尻尾は棒のように硬直している。


彼女は扉のそばで身体を縮め、無意識に布人形から飛び出した糸を指で引っ張っていた。


喉の奥から、かすかな怯えた声が漏れている。


アーガはイータを一度見た。


次の瞬間、大股で彼女の前まで歩いていく。


イータは怯えて半歩後退した。


しかし、アーガはその場へ片膝をついただけだった。


錆びた鍵を、禁魔の首枷にある鍵穴へ差し込む。


――カチリ。


「少し我慢しろ」


アーガは低い声で告げた。


錆びた金属同士が擦れ合う音が、耳障りなほど大きく響く。


イータは目を強く閉じた。


身体を震わせながら、何かが起こるのを待っている。


やがて。


――パチン。


小さな音がした。


イータを長い間拘束していた首枷が外れ、石の床へ落下した。


鈍く重い音が、部屋の中へ響く。


首元を締めつけていた圧迫感が、突然消え去った。


イータは震える手を持ち上げ、自分の首へ触れる。


そこには、首枷が食い込んでいた浅い跡だけが残っていた。


「今日から、お前は自由だ」


アーガは立ち上がった。


その影が、小さなイータの身体を覆う。


「だが、赤骸城は獣人に優しい場所じゃない」


アーガは、琥珀色の瞳を正面から見つめた。


「生き延びたいなら、強くなれ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ