第93話 イータ
路地の奥にある暗がりで、小さな影が身体を丸めていた。
近づいてみると、それは狐型の獣人の少女だった。
年齢は、せいぜい十歳ほどにしか見えない。
白い狐耳は力なく垂れ下がり、むき出しになった背中には、何本もの鞭の痕が交差していた。
傷のいくつかはすでに腐り、膿が流れ出している。
何よりも目を引いたのは、首にはめられた禁魔の首枷だった。
太い鉄の輪が皮膚と肉へ深く食い込み、その縁には黒赤色の血の痂がこびりついている。
少女は意識を失っているにもかかわらず、時折小さく痙攣していた。
汚れた尻尾を痩せ細った身体へきつく巻きつけている。
その姿は、捨てられた幼い獣そのものだった。
「まずは、命だけでも助けろ」
アーガが言った。
リナはすぐに少女の傍らへ跪き、その傷を調べ始めた。
だが、慎重に触れたつもりでも、指先が傷口へ触れるたびに、少女の身体が激しく震える。
「やめて……」
意識のないまま、少女は小さく呟いた。
「もう……逃げませんから……」
アーガは二歩ほど離れた場所に立ち、冷たい目でその様子を眺めていた。
血髑髏闘技場へ通い始めてから、すでに半年が過ぎている。
その間、アーガは似たような光景を何度も目にしてきた。
主人に捨てられた奴隷。
戦いに敗れた剣闘士。
病に侵された流民。
赤骸城では、どのゴミ捨て場の傍らにも、このような「廃棄物」が転がっていた。
「手当てが終わったら帰るぞ」
アーガは携帯していた止血粉を取り出し、リナへ放り投げた。
「この子には浄化魔法と、栄養のある食事が必要です!」
リナは慌ただしく、特にひどい傷の手当てを続けた。
「家へ連れて帰らないと……」
「毎日、闘技場から何人分の死体が運び出されているか知っているか?」
アーガの声は、夜風よりも冷たかった。
「二十人か? 三十人か?」
「その一人一人を、すべて助けるつもりなのか?」
「でも、この子はまだ生きようとしています!」
リナが突然顔を上げた。
瞳には涙が浮かんでいる。
「この子の指を見てください……」
獣人の少女は、禁魔の首枷をつけられていた。
両手の爪はすべて剥がれ、指先の肉は潰れて血まみれになっている。
首枷を外そうと、必死に鉄の輪を引っかき続けた痕だった。
「よく聞け」
アーガは、無理やり心を冷たくした。
「俺たちは救護院じゃない」
「血を止めて、今すぐ死なないようにしてやった。それだけでも十分だ」
リナの瞳から、とうとう涙がこぼれた。
雫は、少女の腐った傷口のすぐそばへ落ちる。
「行くぞ」
アーガはリナの腕をつかんだ。
リナは数歩引きずられるように歩いた。
何度も後ろを振り返りながら、それでも最後には、アーガとともに木造小屋へ戻った。
◇ ◇ ◇
小屋へ戻った頃には、煮込み料理はすっかり冷めていた。
リナは無言のまま、機械的に食事を口へ運んでいる。
路地で流していた涙は、すでに風で乾いていた。
深夜。
アーガは硬い板張りの寝床で、何度も寝返りを打っていた。
屋外から、腐肉を漁る犬の鳴き声が聞こえてくる。
脳裏には、獣人の少女の脚に残っていた新しい噛み傷が浮かんでいた。
あの獣たちは今夜、血の臭いを嗅ぎつけて、必ずあの場所へ集まる。
(俺には関係ない)
(この街では、道端で死ぬ奴隷だけで堀を埋められる)
アーガは無理やり目を閉じた。
だが、今度は少女が首枷から逃れようとしたときの両手が浮かんだ。
剥がれた爪の間には、赤錆が深く食い込んでいた。
その手は、リナの手よりもさらに小さく、細かった。
(もし、あそこに倒れていたのが俺だったら……)
アーガは突然、上半身を起こした。
その仮定は、煮えた油のように内臓を焼いた。
「もし俺があそこに倒れていたら……」
誰に聞かせるでもなく、低く呟く。
「きっと、誰かに助けてほしいと思うはずだ」
アーガは音を立てずに着替え始めた。
腰へ装着したカードケースが、今夜に限って妙に重く感じられる。
手を扉の閂へかけた、そのとき。
背後から、リナの声が聞こえた。
「南東の路地です」
アーガの動きが止まる。
「三つ目のゴミ捨て場の傍です」
アーガは振り返らなかった。
木の扉が、背後で静かに閉じる。
(また半年が過ぎて、リナも随分と自分の意見を言うようになったな)
(だが……それでいい)
(奴隷だった頃の影から、少しずつ抜け出せている証拠だ)
夜風が腐臭を運び、正面から吹きつけてきた。
アーガは月光と影の境目を駆け抜ける。
(剣闘士は、闘技場へ足を踏み入れた瞬間から、死ぬ覚悟をしている)
(鉱山奴隷は、無理やり命を削らされている)
(だが、あの少女は違う)
(あいつには、まだ生きようとする意思がある)
路地へ到着すると、獣人の少女は先ほどと同じ場所に倒れていた。
呼吸はさらに弱くなり、もはや虫の息だった。
その姿を見た瞬間、アーガは鉄の檻へ閉じ込められていた頃のリナを思い出した。
そして、自分が魔晶石を飲み込んだ夜のことも。
(もし俺だったら……)
(まだ生きたいと思っているのなら……)
(こんな場所で、何もできずに死ぬことなど、絶対に受け入れられない)
夜風が砂粒を巻き上げ、頬へ叩きつけた。
アーガは少女を抱き上げる。
来た道を引き返し始めたとき、その足取りには、先ほどまでの迷いがなくなっていた。
◇ ◇ ◇
木造小屋では、リナが温かな湯を用意して待っていた。
アーガが連れ帰った少女の身体を、濡らした布で丁寧に拭いていく。
血と泥を洗い流すと、まだ幼さの残る顔が現れた。
ふわふわとした狐耳と尻尾を除けば、普通の人間の少女とほとんど変わらない。
「この子、イータというそうです」
リナが突然言った。
「何?」
「さっき聞きました」
アーガがイータを連れて帰ってきたことがよほど嬉しかったのか、リナの顔には隠しきれない笑みが浮かんでいる。
アーガはそこで初めて、少女がすでに目を覚ましていることに気づいた。
琥珀色の瞳が、怯えながら部屋の中を見回している。
その視線がアーガと重なった瞬間、少女の瞳に涙が溢れた。
痩せた身体を縮め、必死にリナの胸元へ潜り込もうとする。
「いや……」
「叩かないで……」
その反応を見た瞬間、アーガの胸が重く沈んだ。
アーガは無言のまま、棚にしまってあった干し肉を取り出した。
それを寝床の上へ放り投げる。
「毛布を汚すなよ」
それだけ言い残し、自分の寝床へ向かった。
夜がさらに深くなる。
アーガは、リナが少女を優しく宥める声を聞いていた。
やがて、干し肉を少しずつかじる小さな音も聞こえてくる。
屋外では、風が屋根を撫で、泣き声のような音を立てていた。
アーガは無理やり目を閉じた。
だが、寝返りを打ったとき。
窓から差し込んだ月光が、ちょうど部屋の隅を照らした。
イータはリナの寝床で身体を丸めていた。
尻尾を自分の足首へきつく巻きつけ、眠っている間も、絶えず小刻みに震えている。
◇ ◇ ◇
朝日が赤骸城を覆う霧を切り裂いた頃。
アーガは最後の木箱を、荷馬車の荷台へ乱暴に積み込んだ。
古い木造小屋の扉が、背後で軋みながら閉じる。
扉の枠にリナが昨年刻んだ氷晶の模様は、風雨に削られ、すでに輪郭が分からないほど薄れていた。
「本当に引っ越すんですか?」
リナは薬草を詰め込んだ陶器の壺を抱えている。
金色の髪には、朝露が細かな粒となって付着していた。
アーガは荷物を固定する麻縄を、強く締め直した。
そのまま、荷馬車の隅で身体を丸めるイータへ視線を向ける。
「引っ越す」という言葉を聞いた瞬間、小さな狐耳が勢いよく立ち上がった。
尻尾が無意識に伸び、リナの足首へ巻きついている。
不安を感じたときに見せる、イータの癖だった。
「鉱脈で稼いだ金があれば、三年分の家賃は払える」
アーガは御者へ銀貨を二枚投げ渡した。
「北区、オーク通り七番地だ」
◇ ◇ ◇
新しい住居は、二階建ての石造りの家だった。
外壁には、枯れた蔓がびっしりと絡みついている。
リナが彫刻の施された木製の扉を開けると、強い黴の臭いが鼻を突いた。
しかし、彼女が植物魔法を使い、蔓で窓のカーテンを一気に巻き上げる。
すると、金色の砂のような陽光が客間いっぱいに流れ込んだ。
イータの瞳孔が、強い光を受けて細長く収縮する。
直後、小さな身体が暖炉の傍へ駆けていった。
そこには、柔らかな敷物の置かれた一角がある。
前の住人が残していった、猫用の寝床だった。
イータの尻尾が、一瞬で大きく膨らんだ。
「お前とリナの部屋は二階だ」
アーガはイータの服の襟を後ろからつかんだ。
まるで小動物を運ぶように、そのまま身体を持ち上げる。
「その猫用の寝床も、あとで二階へ運んでやる」
イータを螺旋階段の前へ下ろすと、小さな狐は名残惜しそうに何度も暖炉の横を振り返った。
◇ ◇ ◇
日が暮れる頃。
三人は、新しく購入したオーク材の食卓を囲んでいた。
リナが作った茸のスープから、食欲をそそる香りが立ち上っている。
イータの尻尾も、ようやく緊張を解いたらしい。
誰にも気づかれないように、そっと食卓の脚へ巻きついていた。
「その首輪……」
リナが突然、イータの首にはまった金属の輪へ手を伸ばした。
「本当に外せないの?」
触れられた瞬間、小さな狐耳が垂れ下がる。
「ご主人様の……鍵が必要です……」
イータは襟元を少し開き、首枷の内側を見せた。
そこには、複雑な錬金術の紋様が刻まれている。
「ここに……自壊の術式があります……」
無理やり外そうとすれば、術式が発動する。
おそらく、首枷だけでなく、装着している者の首まで破壊する仕組みなのだろう。
「クロードなら、何とかできるかもしれません」
リナの視線が、蔓のようにアーガへ絡みついた。
「一応、副城主候補なんですから……」
アーガはスープに浮かぶ茸を見つめた。
昨夜クロードから告げられた条件が、脳裏をよぎる。
「本当に、あいつへ借りを作るつもりか?」
「イータは、私より数か月も年下なんですよ!」
リナは縋るような目で、アーガを見つめた。
「この子に、一生その首輪をつけたまま過ごせと言うんですか?」
「……明日、聞きに行く」
その言葉を聞いた瞬間。
イータの狐耳が、真っすぐに立ち上がった。
尻尾が勢いよく動き、食卓の上に置かれていた陶器の杯を払い落とす。
――パリン!
「ご、ごめんなさい!」
イータは慌てて椅子から下り、破片を拾おうとした。
だが、リナが伸ばした蔓が、その細い手首へ優しく巻きつく。
「駄目。手を切ってしまうわ」
「ありが……とう、ございます……」
イータの琥珀色の瞳が、蝋燭の炎を受けて揺れた。
それでも、理解できないというように、小さく首を傾げる。
「でも……どうして……?」
アーガは深いため息をついた。
面倒そうな表情を浮かべ、ぶっきらぼうに答える。
「リナにあんな目で見られると、夜に悪夢を見るからだ」
「これで満足か?」
リナは小さく笑い、イータの頭を優しく撫でた。
◇ ◇ ◇
深夜。
アーガは一階の机に座り、カードを一枚ずつ布で磨いていた。
二階からは、少女たちの楽しそうな声が微かに聞こえてくる。
リナが植物魔法を使い、蔓で花冠を編む方法をイータへ教えているらしい。
時折聞こえる小さな狐の笑い声は、生まれたばかりの小鳥の囀りに似ていた。




