第92話 草の力
アーガはリナの隣へ歩み寄り、その肩へそっと手を置いた。
「よく聞け、リナ」
その声は、今までにないほど穏やかだった。
「俺は、お前を一生守り続けることはできない」
リナは勢いよく顔を上げた。
瞳には、今にもこぼれそうな涙が浮かんでいる。
「私も一緒に行きます!」
「駄目だ」
アーガはきっぱりと拒絶した。
「だが、別のことを考えている」
腰のカードスロットから、強化を終えた六枚のカードを取り出し、机の上へ並べる。
この一年で、アーガは大ジョーカーと小ジョーカーの能力をほぼ完全に把握していた。
大ジョーカーが持つのは、集合の力。
選択したカードの力を限界まで引き出し、それらを一つに束ねることで、強力な技として解き放つことができる。
一方、小ジョーカーが持つのは、分離の力だった。
一つの能力を細かく解析し、その一部を切り離して複製することで、元の能力とよく似た、新たな力を生み出す。
ただし、同じカードから能力を分離できるのは、一度きりだった。
「お前には、魔法を学んでもらう」
アーガは、机に並べたカードを指さした。
「私が……ですか?」
リナは呆然と自分を指さした。
「お前の身分は普通じゃない」
アーガは彼女の瞳と金髪へ視線を向ける。
「お前自身は忘れているようだが、俺には大体の見当がついている」
「おそらく、お前の本当の名前はリナ・ベルマンだ」
わずかに間を置き、続ける。
「王国騎士団長の娘だろう」
「え……?」
「その瞳と髪の色が、俺の知っているベルマン家の特徴と一致している」
屋外では、風雪がますます激しさを増していた。
細かな雪が窓を叩き、絶え間なく小さな音を立てている。
リナは指先で、自分の髪へそっと触れた。
冷たい金髪の感触が、一年前の記憶を呼び起こす。
鉄の檻へ閉じ込められ、死を待つことしかできなかった自分の姿。
「もし……」
リナは顔を上げた。
瞳に浮かんでいた涙は、すでに固い決意へと変わっている。
「それがアーガ様の望みなら……私、学びます」
アーガはリナを見つめ、少しだけ口調を和らげた。
「よし。それなら、自分に合ったカードの選び方は知っているか?」
リナは一瞬戸惑い、うなずきかけてから首を横へ振った。
「少しだけ聞いたことがあります。魔力の反応を見る、とか……」
「でも、実際に試したことはありません」
その声は、次第に小さくなっていく。
自分に合ったカードを選び、魔法を学ぶなど、これまでのリナにはあまりにも縁遠い話だった。
「ほかの場所なら、それで正しい」
アーガはカードケースから、小ジョーカーを一枚取り出した。
「だが、赤骸城は違う」
「自分に合うカードを系統的に選ぶ設備がないどころか、新しいカードそのものが一枚も手に入らない」
リナは彼を見つめた。
「それなら、アーガ様はどうするつもりなんですか?」
「これを使う」
アーガは小ジョーカーを机の上へ置いた。
その表面に刻まれた紋様は、普通のカードとはまるで違う。
一枚のカードというよりも、複数の魔力回路を管理する中枢のように見えた。
「数字札そのものには限界がある。だが、小ジョーカーには固定された属性がない」
アーガは指先でカードの表面を軽く叩いた。
「こいつができるのは、カードの中にある魔力を抽出し、それを別の形へ再分配することだ」
リナは眉を寄せる。
「抽出……ですか?」
「簡単に言えば、カードの力を、元々の固定された構造から解放する」
アーガは一度言葉を切った。
「使いこなせるようになれば、俺がお前に与えるカードでも、四級カードに匹敵する効果を発揮できるはずだ」
「四級……?」
リナの目が大きく開かれた。
そんな高位の力について、これほど簡単なことのように語られるとは思ってもいなかった。
アーガの口元が、無意識にわずかに上がる。
「それでは、興味を持ったカードを一枚選べ」
リナの指先が、机に並べられたカードの上で止まった。
わずかに震えている。
彼女の視線が、一枚一枚のカードを通り過ぎていった。
灼熱の力を宿す、赤の一《火》。
強大な肉体を与える、黄色の一。
神秘的な青い光を放つ、青の一《治癒体》。
そして最後に、リナの視線は赤の三《草》で止まった。
「これ……」
恐る恐る、カードの縁へ指先を触れる。
その瞬間、赤の三《草》に描かれた模様が、柔らかな緑色の光を放ち始めた。
「このカードが……私を呼んでいるような気がします」
(《草》か……)
(リサが持っていたのは自然の力だった)
(リナが《草》を選んだのは偶然なのか? それとも、これも運命なのか……)
アーガは静かにうなずいた。
腰のベルトから、銀色の光をまとった小ジョーカーを取り出す。
「目を閉じろ」
リナは深く息を吸い、ゆっくりと瞼を閉じた。
長い睫毛が頬へ影を落とす。
アーガは小ジョーカーを斜めに傾け、赤の三《草》へ重ねるように差し込んだ。
銀色の光と、赤いカードから放たれる緑色の輝きが絡み合う。
カードに描かれた模様が回転し始め、徐々に細かく分解されていった。
やがて、絵柄は無数の小さな光点となり、空中へ浮かび上がる。
次の瞬間。
小ジョーカーから、目を開けていられないほど強烈な光が放たれた。
空中を漂っていた緑色の光点が、何かに導かれるようにリナの胸元へ流れ込んでいく。
「うっ……」
リナの身体が、わずかに後方へ反った。
金色の長い髪が、風もないのに大きく揺れる。
薄い寝間着も、周囲へ広がる魔力の波によって膨らんだ。
リナは眉をわずかにひそめ、無意識に机の縁を強くつかんだ。
その首筋へ、蔓に似た緑色の紋様が浮かび上がる。
緑色の線は、生き物のように皮膚の上を這い、鎖骨へ向かって広がっていった。
やがてすべての紋様が一か所へ集まり、鎖骨の中央に、今にも咲きそうな蕾の印を形作る。
花の印は一度だけ鮮やかに輝き、跡形もなく消えた。
「やはり成功した!」
アーガは、元の姿へ戻った赤の三《草》を確認した。
カードの右上には、以前にはなかった、小さな草の紋章が刻まれている。
「草の力……?」
リナは小さく呟き、手のひらを開いた。
緑色の魔力が細い糸のように集まり、その小さな手の中で、一枚のカードを形作っていく。
それは、リナ自身の魔力から生み出された《草》のカードだった。
「小ジョーカーは、お前に予想外の贈り物を与えたらしい」
アーガは残りのカードを片づけながら、わずかに笑った。
「だが、《草》の力が本当に草だけを操る能力だとは思えない」
「花や樹木を含めて、植物全体を操れる可能性がある」
アーガは、部屋の隅に置かれた鉢植えを指さした。
そこには、まだ花を咲かせていない小さな野草が植えられている。
「試しに、あれを動かしてみろ」
リナは戸惑いながら、鉢植えへ手を伸ばした。
指先が小さく震える。
すると、不思議なことに、野草の葉と蕾も、彼女の動きへ応えるように揺れ始めた。
固く閉じていた蕾が、ゆっくりと開く。
そのうち一枚の花弁が枝から離れ、空中で美しい弧を描いた。
花弁はそのまま、アーガの手のひらへ静かに舞い降りる。
「私……」
リナの声が、興奮によって震えていた。
「本当に、魔法を使えるんですか?」
「操るだけではないはずだ」
アーガは手のひらに落ちた花弁を、指先で軽く潰した。
花弁から染み出した汁が、ほのかな香りを放つ。
「これから練習を続ければ、もっと多くの使い方が分かってくる」
「ありがとうございます、アーガ様」
リナは顔を上げた。
その瞳に宿る輝きは、どのような花よりも明るかった。
「私、必ず強くなります」
「もう二度と、アーガ様の負担にならないくらいに」
アーガは、彼女の金髪を優しく撫でた。
かつては死にかけ、何もできずに震えていた少女。
その瞳には今、アーガと同じ炎が灯っている。
アーガは窓の外へ目を向けた。
雪の幕の向こうでは、血髑髏闘技場が今夜も眩しい光を放っている。
まるで、これから起こる何かを待ち構えているようだった。
(来るべきものは、いつか必ず来る)
(だが、今は――)
◇ ◇ ◇
アーガの身体が吹き飛ばされ、闘技場の壁へ激突した。
背中が石壁へ叩きつけられ、その表面に細かな亀裂が走る。
それでもアーガは倒れ込まなかった。
壁へ片手をつき、再び立ち上がる。
その正面に立っていたのは、ロックだった。
アーガが初めて血髑髏闘技場を訪れた際、最初に出会った対戦相手である。
「かなり成長したじゃないか」
ロックは感心したように、アーガを眺めた。
「それにしても、お前はどうやって能力を取り戻したんだ?」
「はは……」
アーガは手の甲で、口元の血を拭った。
「お褒めいただき、ありがとうございます」
「俺と組む気はないか?」
「何?」
「お前は強い」
ロックは当然のことを告げるように言った。
「自分自身と、触れた物体の位置を入れ替える魔法。それに、その体術が加わっている」
「今のお前に勝てる奴は、そう多くない」
アーガは傷ついた身体を起こし、再び構えを取った。
「それなら、まず俺を倒してから、協力の話をしよう」
「えぇ……そういう答えか」
ロックは困ったように肩をすくめた。
次の瞬間、二人の姿が再び闘技場の中央で交差した。
◇ ◇ ◇
夕暮れは血のように赤く、赤骸荒原城の石畳を染めていた。
アーガとリナは、訓練場の裏手にある細い道を歩いている。
空気には、鉄錆と腐肉が混ざり合った生臭い匂いが漂っていた。
両側へ大量のゴミが積み上げられたこの路地は、すでに二人が家へ帰る際の通り道となっている。
「アーガ様!」
リナは、アーガが片手で腰を押さえていることに気づいた。
「また怪我をしたんですか?」
返事を待つことなく、血に染まった衣服の裾をめくり上げる。
「大したことはない。軽い傷だ」
アーガは痛みを堪えるように、息を吸い込んだ。
「ローユーという元冒険者にやられた」
「タロットカード《ペンタクルの二》から生み出した、《相似変形》という能力で不意を突かれたんだ」
リナは慣れた手つきで、鞄から治療薬を取り出した。
「外周区の雑魚が、アーガ様に手を出したんですか?」
「今日は、怪力を使うドワーフとも戦った」
アーガは顔をしかめながら、リナに薬を塗ってもらう。
「あの力は本当にひどかった。まともに受けたら、骨まで砕かれそうだったぞ……」
「今日も、たくさん戦ったんですか?」
リナは傷口を見ながら、心配そうに尋ねた。
「少し身体を鍛えただけだ」
アーガは今日の出来事を思い返し、さらに続ける。
「観戦席では、闘技場の第一位も見かけた」
「どんな人だったんですか?」
「かなり陰険な奴だ」
アーガは薬を塗られた腰を、痛そうにさすった。
「闘技台の表面を、氷みたいに滑らかに変えられる」
「戦っていた奴らの多くは、走った途端に足を滑らせ、そのまま場外へ飛び出していた」
二人は、今日の闘技場で起きた出来事について話しながら歩き続けた。
この一か月、アーガが血髑髏闘技場で重点的に鍛えていたのは、基本的な戦闘反応と実戦経験だった。
使用するのも、基本となる単体のカードだけ。
魔力ベルトを使った融合変身は、一度も使っていない。
あれほど特殊な能力が知られれば、ほかの戦士たちから警戒される。
場合によっては、排除すべき危険人物として目をつけられる可能性もあった。
今のアーガには、敵視する者すべてを正面から退けられるほどの実力はない。
まだ、融合変身の力を公にするのは早すぎた。
二人が、砕けた骨の積み上がる曲がり角へ差しかかったときだった。
リナが突然足を止め、アーガの袖をつかんだ。
「アーガ様……」
声を落とし、暗い路地の奥を見つめる。
「あそこに……誰かいます」




