第9話 酒蔵の手掛かり
一方、追跡に出たセシたちは、早くも行き詰まっていた。
「まずい……!」
セシが突然足を止めた。
紫色の瞳に、険しい光が浮かぶ。
「魔力の反応が途切れました」
ムハン隊長は眉間に深いしわを寄せた。
「結界を張られたのか?」
腰の剣を握り締め、低い声で続ける。
「この一か月、モルハンの足取りをつかみかけるたび、必ず途中で手掛かりが消えていた。捜索範囲を広げても、奴らの潜伏先は見つからない」
「魔導師を呼び、残留魔力まで調べさせたこともある。だが、そのときも何一つ痕跡が残っていなかった」
セシはわずかに眉をひそめた。
その声には、わずかな非難が含まれている。
「そのことは、もっと早く教えていただきたかったですね」
「申し訳ない」
ムハンは小さく息を吐いた。
「私の考えが足りなかった」
「……いえ、もう構いません」
セシは首を横に振った。
「先ほどの状況では、詳しく説明する余裕などなかったでしょうから」
ムハンはうなずいた。
「それに、モルハンに仲間がいたことも想定外だった」
追跡隊は、街道の途中で立ち止まった。
セシは目を閉じ、先ほどまで感じ取っていた魔力反応を思い返す。
「反応は、この辺りで急激に弱まりました」
周囲を見回しながら続ける。
「おそらく、印をつけられた衣服をここで捨てたのでしょう」
ムハンは即座に命じた。
「捜せ!」
衛兵たちは周囲へ散開した。
間もなく、道端の茂みからモルハンの衣服が発見される。
ムハンは血に染まった外套を拾い上げ、険しい顔で見下ろした。
「服はここにある。では、本人はどこへ消えた?」
彼はセシへ顔を向ける。
「魔力反応が完全に消えたのではなく、弱まっただけということは、あなたの光球は奴の皮膚にも触れていたのだろう?」
「そのわずかな繋がりから、追跡を続けることはできないか?」
セシは再び目を閉じた。
しばらく魔力を探ったあと、静かに答える。
「最後に反応を感じたのは、ここから十一時の方向へ約二百メートルです」
そのとき、一人の衛兵が慌ただしく駆け戻ってきた。
「隊長! 馬車を発見しました! この先の路地に放置されています!」
ムハンはすぐに問い返した。
「付近で、ほかに馬車が盗まれたという届けは出ているか?」
「今のところはありません。確認に向かわせますか?」
「今すぐ調べろ!」
ムハンが命じる。
「同時に、捜索範囲も広げるんだ!」
「はっ!」
衛兵はすぐに走り去った。
セシとムハンの間に、短い沈黙が流れる。
手掛かりは途切れ、追跡は完全に行き詰まっていた。
セシは衛兵から魔法灯を受け取ると、地面へ身をかがめた。
馬車の轍が残っていないか確かめる。
しかし、セント・ローランの石畳は平らで頑丈だった。
車輪が通った痕跡など、ほとんど見つけられない。
その頃、ラスティとウムが銀鹿亭の裏口から飛び出してきた。
街道に残っていたのは、遠ざかっていく馬車の音だけだった。
ラスティはすでに長剣を抜いている。
ウムに至っては、矢筒の留め具さえ締める暇がなかったらしい。
二人は外から戦闘音を聞き、すぐに駆けつけようとしていた。
しかし、宿の中で混乱する客たちに進路を塞がれ、外へ出るのが遅れてしまったのだ。
街道へ飛び出したときには、衛兵たちが道の中央へ集まり、セシが北東方向を見つめていた。
「セシ先生!」
ラスティは彼女の前で足を止め、何度か荒い息を吐いた。
「私たちはアーガ様の護衛です。ラインハルト子爵家の者です」
「先ほど、ここで何があったのですか?」
「アーガ君が、モルハンの仲間に連れ去られました」
セシは早口で答えた。
「相手はモルブと名乗り、モルハンの弟だと言っていました。二人は馬車で北東へ逃走しています。ここを離れてから、まだ半刻も経っていません」
ラスティの顔色が一変した。
「追跡はできなかったのですか?」
「馬車には磁力の印を残しました」
セシは北東の街並みへ視線を向ける。
「ですが、北東区画へ入った直後、魔力を遮断する結界によって反応が途切れました。最後に消えた場所が、この付近だということしか分かりません」
ウムは長弓を強く握り締めた。
力を込めすぎた指の関節が白くなっている。
「俺は坊ちゃんの隣の部屋にいたんだぞ……」
低い声で悪態をつく。
「それなのに、目の前から連れ去られたのか」
ラスティも焦っていた。
だが、自分を責め続けることはしなかった。
剣を鞘へ戻し、大きく息を吸う。
そして、無理やり声を落ち着かせた。
「アーガ様は頭のいい方です」
「たとえ人質にされても、何もせずに連れ去られるとは思えません」
ムハンは馬車が消えた方向を見た。
「だが、あの子はまだ七歳だ」
「だからこそ、ここで待っているわけにはいきません」
ラスティは周囲を注意深く見回す。
「あの方の性格なら、途中で意識を取り戻した時点で、必ず何か手掛かりを残そうとするはずです」
ムハンはすぐに、衛兵たちへ分かれて捜索するよう命じた。
ある者は、馬車が逃げた道に沿って轍を探す。
別の者は、付近の交差点や城門へ向かい、馬車を見た者がいないか聞き込みを始めた。
セシは目を閉じ、消えた磁力の印をもう一度探る。
ラスティは宿の入口から始め、道の両側を一か所ずつ丁寧に確認していった。
ウムも街道に沿って進んでいたが、ある魔法灯の下で不意に足を止めた。
曇りガラスを通した光が、石畳へ落ちている。
その近くに、周囲よりもわずかに色の濃い部分があった。
数歩離れていれば、普通の人間には見分けられないほど小さな違いだった。
しかし、ウムはすぐに異変へ気づいた。
「こっちだ」
全員がすぐに集まってくる。
セシはその場へしゃがみ込み、石畳の隙間に残る暗赤色の跡を見た。
「血ですね」
ラスティの表情がさらに険しくなった。
「アーガ様の血でしょうか?」
「モルハンは重傷を負っていた。奴の身体から落ちた可能性もある」
ムハンは身をかがめ、しばらく血痕を調べていた。
しかし、話の途中で口を閉じる。
その血は、衣服から自然に滴り落ちた丸い跡ではなかった。
一方向へ広がっており、縁には小さく飛び散った跡も残っている。
ムハンは血痕の上で手を動かし、落ち方を確かめた。
「いや、違う」
「服から垂れた血なら、こんな形にはならない」
「誰かが倒れた際に、口から吐いたものに見えます」
セシが言った。
ラスティは無言のまま、血痕を見つめている。
間もなく、一人の衛兵が前方から戻ってきた。
「隊長! 各城門へ確認しましたが、該当する馬車が街を出たという報告はありません!」
「付近の馬車屋にも確認しましたが、別の馬車へ乗り換えた者はいないそうです。奴らはまだ北東区画にいると思われます!」
「モルハンは重傷で、モルブは子供まで連れている」
ムハンは立ち上がり、周囲の建物を見回した。
「確かに、そう遠くまで逃げられるはずはない」
しかし、視界には無数の建物が並んでいる。
「だが、この辺りには家も倉庫も多すぎる。一軒ずつ調べていたら、かなりの時間がかかるぞ」
ウムは血痕のそばから動かなかった。
しゃがんだまま周囲を見ていると、隣の石畳の隙間に薄く土が積もっていることに気づく。
その表面には、浅い引っかき傷のようなものが残っていた。
血痕と魔法灯の影に隠れ、注意して見なければ気づかないほどの跡だった。
ウムは指先で、上に積もった埃を払った。
歪んだ二つの文字が、少しずつ姿を現す。
『酒蔵』
ラスティは目を見開き、すぐにウムの隣へしゃがみ込んだ。
「これは、アーガ様が残したものですか?」
「ここで、わざわざ地面にこんな文字を書く人間はいない」
ウムは傷の表面を確認する。
「それに、この跡はまだ新しい」
セシは二文字を見つめた。
続いて、すぐそばに残された血痕へ目を向ける。
そしてムハンへうなずいた。
ムハンは即座に振り返った。
「この周辺の酒蔵をすべて捜せ!」
◇ ◇ ◇
薄暗い地下酒蔵には、濃い酒の匂いが満ちていた。
壁に沿って木製の棚が並べられ、その上には埃をかぶった酒樽がいくつも積まれている。
モルブは荷物をまとめていた。
盗んだ宝石や魔晶石を、次々と革袋へ詰め込んでいく。
モルハンは壁際へもたれかかっていた。
顔色は今も青白く、片手で胸の傷を押さえ続けている。
「兄貴、どの門から出る?」
モルブが尋ねた。
「東門は駄目だ」
モルハンはしばらく息を整えてから答えた。
「ここから一番近い。護衛隊も重点的に調べているはずだ」
苦しそうに呼吸をしながら続ける。
「今夜、南門で見張りについている三人のうち、二人は金しか見ていない。少し多めに渡せば、俺たちを通すだろう」
モルブは革袋の口を固く結んだ。
「南門を出たあとは?」
「ゴールドウィートへ向かう」
その名を口にすると、モルハンの表情にわずかに力が戻った。
「あそこには紅薔薇盗賊団の仲間がいる。組織と連絡さえ取れれば、今夜の騒ぎなど大した問題じゃない」
「ゴールドウィートには金持ちが多いらしい。貴族たちは芸術品に目がない。適当な品を一つ盗むだけでも、しばらく遊んで暮らせるぞ」
モルブは小さく笑った。
最後の荷物を背負うと、酒蔵の隅へ歩いていく。
アーガは手足を縛られたまま、壁にもたれていた。
まだ完全には意識を取り戻していないように見える。
「念のため、お前も一緒に連れていくか」
モルブは身をかがめ、アーガの襟元へ手を伸ばした。
その指が触れる直前。
アーガは突然、横へ転がった。
背中側で縛られていたはずの縄は、すでに切れている。
同時に一本の短剣が、手元から石床へ落ちた。
屋敷を出る際に持たされた、護身用の短剣だった。
アーガは酒蔵へ連れてこられてから、ずっと気を失ったふりをしていた。
二人が荷造りをしている隙に、短剣の刃を使い、手首を縛る縄を少しずつ切っていたのだ。
アーガは素早く立ち上がった。
カードケースから二枚の赤いカードを抜き取る。
「火球術! 水槍術!」
火球と鋭い水流が、同時にモルブへ放たれた。
モルブは横へ一歩動く。
水流は頬のすぐそばを通り過ぎ、背後にあった酒樽へ激突した。
続いて、魔力をまとわせた右拳を振るう。
正面から迫った火球は一撃で砕かれた。
飛び散った火の粉は湿った石床へ落ち、すぐに消えていく。
「基礎カードで俺を攻撃する気か?」
モルブは前へ踏み込み、アーガの腹部を蹴り飛ばした。
小さな身体が地面へ転がる。
「そんなものは、子供が魔力の使い方を練習するための玩具だ」
「本当に人を傷つけられるとでも思ったのか?」
アーガは腹部を押さえ、激しく咳き込んだ。
口から血がこぼれる。
それでも、後ろへ退こうとはしなかった。
モルブが近づいた瞬間、アーガは勢いよく飛びかかる。
そのまま相手の脛へ、力いっぱい噛みついた。
「ぐあっ!」
モルブが痛みの声を上げる。
「離せ!」
足を激しく振り、アーガを振り払った。
続いて服をつかみ、その身体を酒蔵の隅へ力任せに投げつける。
アーガの背中が、硬い石壁へ叩きつけられた。
一瞬、視界が真っ暗になる。
握っていたカードも、指の間から落ちていった。
モルハンが不機嫌そうに眉をひそめる。
「そいつに構っている暇はない。さっさと気絶させて連れていけ」
「分かってるよ」
モルブは脛に残った歯形を見下ろした。
険しい顔でアーガの前へ歩いてくる。
その拳に、再び魔力が集まり始めた。
拳を振り下ろそうとした、その瞬間。
地下酒蔵の入口から、凄まじい轟音が響き渡った。




