第89話 二人きりの食事
鉱山の入り口では、監督官が茨の鞭で新入りの奴隷を打ち据えていた。
アーガの姿に気づくと、すぐに鞭を引っ込め、脂ぎった笑みを顔いっぱいに浮かべる。
「今日はずいぶん早いな。クロード様がお待ちだぞ」
(一年経っても、このハイエナは弱い者に強く、強い者に媚びる性格を直せないらしい)
アーガは監督官を相手にせず、そのまま探知区域へ向かった。
靴底が、岩の隙間から生えている発光苔を踏み潰す。
青紫色に光る小さな苔は、上等魔晶石の近くに生える共生植物だった。
◇ ◇ ◇
わずか二時間後。
アーガは鉱山の奥から戻ってきた。
「今日の探知は終わった」
最後に見つけた、青白い光を放つ上等魔晶石を机の上へ置く。
「この鉱脈にある上等魔晶石は、これですべてだ」
監督官は魔晶石を手に取り、重さを確かめた。
その顔が、突然険しいものへ変わる。
「すべてだと?」
目を細め、声を荒らげた。
「俺をからかっているのか? この鉱山は七十年も採掘が続いているんだぞ! 一度だって途切れたことはない!」
アーガは一歩も退かなかった。
疑いに満ちた監督官の目を、正面から見返す。
「三度も探知を繰り返した。間違いなく、もう残っていない」
「ふざけるな!」
監督官がアーガの襟元をつかんだ。
飛び散った唾が、危うく顔へかかりそうになる。
「探知方法の何かを隠しているんじゃないだろうな?」
「それとも、値段を吊り上げるための芝居か?」
アーガは抵抗せず、つかまれるままにしていた。
この一年で、監督官の短気な性格にはすっかり慣れている。
「信じられないなら、人を送って調べ直せばいい」
アーガの表情は変わらなかった。
「だが、俺の探知結果は変わらない」
監督官がさらに怒鳴ろうとした、そのとき。
暗がりから、クロードの声が聞こえた。
「そこまでだ」
真紅の外套が、湿った岩壁を撫でるように揺れる。
一年が経ったクロードは、以前よりもさらに陰険な雰囲気をまとっていた。
額には、以前はなかった薄い傷痕がある。
闘技場で起きた反乱を鎮圧した際についた傷だという。
「クロード様!」
監督官は慌ててアーガの襟元から手を離した。
「こいつは、絶対に何か企んでいます!」
クロードは監督官を無視した。
値踏みするような視線を、アーガへ向ける。
「もうないと言ったのか?」
「ない」
アーガは袖についた魔晶石の粉を払い落とした。
「普通の鉱脈に含まれる上等魔晶石の総量は、およそ二百個だ」
「この五十年間で、百五十個以上が採掘されている。そして、この一年で俺たちが残りの五十個以上を見つけた」
アーガは鉱山の最深部へ続く坑道を指さした。
「最後の一個は、主鉱脈の先端から掘り出した。あの先には、もう基盤岩しか残っていない」
監督官が目を見開く。
「クロード様、これは……」
「確かに、そのとおりだ」
クロードが突然笑った。
「ラインハルトがいなければ、残りを掘り尽くすまで、さらに百年以上かかっていただろう」
クロードは監督官へ顔を向けた。
「こいつの仕事は終わりだ。報酬として、上等魔晶石を二個追加で渡せ」
「二個も、ですか……?」
監督官は不満そうな顔をした。
だが、クロードに睨まれると、渋々その場を離れていった。
監督官の姿が見えなくなると、クロードはアーガの肩を軽く叩いた。
「今夜は空いているか?」
「一緒に食事でもどうだ?」
アーガの指先が、わずかに震えた。
クロードはその反応を見逃さなかった。
「ただの食事だ」
警戒を見抜いたように、口元を歪める。
「この一年のお前の働きなら、まともな夕食を一度くらい食べる資格はあるだろう」
「……分かった」
アーガは誘いを受け入れた。
鉱山を離れる前に、人のいない坑道へ向かう。
そこで受け取ったばかりの上等魔晶石を一個使い、その力をカードと自分の身体へ取り込んだ。
◇ ◇ ◇
夕暮れを迎えた赤骸城は、昼間以上の騒がしさに包まれていた。
アーガはクロードのあとを追い、市場を通り抜ける。
やがて二人は、大きな石造りの建物の前へ到着した。
一年前にはなかった青銅製の門が設置され、その両脇には二体の魔獣像が並んでいる。
「俺の屋敷だ」
クロードが使用人へ合図した。
重い門が、ゆっくりと左右へ開かれる。
「入れ」
中から温かな明かりがあふれ出した。
眩しさに、アーガは思わず目を細める。
屋敷の内部は、これでもかというほど豪華に飾られていた。
床一面には北境に生息する雪熊の毛皮が敷かれている。
天井から下がる水晶の照明には、消えることのない魔法の炎が揺れていた。
一歩外へ出れば、汚水と腐臭に満ちた赤骸城の通りがある。
それが信じられないほど、屋敷の中は別世界だった。
二人は大広間へ入り、長い食卓を挟んで席についた。
琥珀色の酒が、杯の中でゆっくりと揺れている。
その表面には、暖炉で燃える炎が映っていた。
アーガは杯に生まれた小さな波紋を眺めながら、静かに口を開く。
「北境の戦争は……今、どうなっている?」
クロードは、アーガがそんなことを尋ねるとは思っていなかったらしい。
一瞬だけ意外そうな顔をしたが、すぐに酒を注ぎ直した。
「膠着状態だ」
杯の酒を一息で飲み干す。
酒を飲み込むたび、太い喉が動いた。
「王国騎士団は、すでに半数以上が死傷している。今では魔法協会も援軍を送り始めた」
「雪狼国の獣人軍も王国の奥までは攻め込めないが、かといって撤退することもできない」
クロードは酒壺を手に取り、再び自分の杯を満たした。
「このまま、あと数年は続くだろうな」
アーガの指先が、無意識に杯の縁をなぞる。
「王都は?」
「セント・ローランは、今どうなっている?」
わずかに間を置いて、もう一つの名前を口にした。
「グルバート商会は?」
「はっ!」
クロードが突然、嘲るような笑い声を上げた。
その目には、明らかな皮肉が浮かんでいる。
「グルバート商会なら、ほかの大商会をいくつも吸収した」
「今では、王都で動く利益の七割が、連中の手に流れ込んでいる」
クロードは杯を揺らした。
「この一年で、笑いが止まらないほど稼いだだろうよ」
――ピシッ。
アーガが握っていた杯に、細い亀裂が走った。
酒が指の間から流れ落ち、雪熊の毛皮に暗い染みを作る。
クロードが眉を上げる。
「どうした?」
「俺は、グルバート商会に陥れられた」
アーガの声は、ほとんど聞き取れないほど低かった。
「証拠を捏造され、母が作った薬には毒が入っていると濡れ衣を着せられた」
爪が手のひらへ深く食い込む。
「父は、連中が送り込んだ刺客に殺された」
部屋に、短い沈黙が訪れた。
聞こえるのは、暖炉の中で薪が爆ぜる音だけだった。
クロードはゆっくりと杯を置いた。
顎に残る傷痕を指先で撫でる。
「なるほどな」
「復讐がしたいのか?」
アーガは答えなかった。
代わりに顔を上げ、クロードを正面から見つめる。
「俺をここから出せないか?」
クロードの目が、わずかに細くなった。
「赤骸城から出たいと?」
「ああ」
アーガは視線を逸らさない。
「転移魔法陣でも、商隊に紛れ込ませる方法でもいい」
「どんな方法でも構わない」
直後。
クロードが大声で笑い始めた。
だが、その笑いには少しも楽しげな響きがなかった。
「副城主候補に、どれほどの権限があると思っている?」
クロードは足元を指さす。
「この屋敷にある転移魔法陣は、城主府へ移動することしかできない。それが俺に許された限界だ」
両手を広げ、肩をすくめる。
「悪いが、俺には助けられない」
クロードは酒を一口飲み、さらに続けた。
「それに、城主府の転移魔法陣を動かすには、莫大な魔力が必要だ」
「普段は城主府にいる、魔力の高い三人の魔導師が共同で管理している」
「城主本人が転移するときでさえ、あの三人の力を借りなければならない」
アーガは黙ったまま、残っていた酒を飲み干した。
氷炎酒の熱が、喉から胃へ向かって広がっていく。
それでも、胸の奥にある冷たさを消すことはできなかった。
「なら――」
アーガは杯を置いた。
その声は、不気味なほど落ち着いていた。
「次は、血髑髏闘技場へ行く」
クロードが意外そうに目を開く。
「闘技場だと?」
「鉱山での仕事は終わった」
アーガは椅子から立ち上がった。
黒い衣服の下に見える身体は、一年前よりも明らかに引き締まっている。
「実力を上げるには、実戦経験が必要だ」
その目に、揺るぎない決意が浮かんだ。
「戦争が終われば、王廷は必ずグルバート家の罪を調べる」
「そのとき俺の無実が証明され、ここから解放されたなら――」
アーガは強く拳を握った。
「その日が、俺の復讐を始める日だ」
クロードは興味深そうに、アーガを見つめた。
「意外と気が長いんだな」
「もっとすぐに飛び出していくような性格だと思っていた」
クロードは再び酒を注ぎ、杯を持ち上げた。
「お前に一杯」
琥珀色の酒へ、アーガの疲れ切った顔が映り込む。
「この一年、お前のおかげで上からの評価が大きく上がった」
「資金も物資も、以前とは比べものにならないほど与えられている」
クロードは杯をアーガの方へ差し出した。
「ほかに助けが必要なら、遠慮なく言え」
アーガは、わずかに表情を緩めた。
杯を重ね、酒を一口含む。
氷の冷たさと炎の熱さが同時に舌の上で弾けた。
ふと、一年前の夜を思い出す。
貧民街の壊れかけた小屋で身体を丸め、残り少ない銅貨を何度も数えていた夜。
アーガは腰のカードケースへ手を置いた。
そこには、強化を終えた六枚のカードが静かに収められている。
赤の一《火》。
赤の三《草》。
赤の五《氷》。
黄色の一。
青の一《治癒体》。
緑の一《穿刺》。
(これだけあれば、十分だ)
アーガはクロードへ視線を戻した。
「今の俺が、どの階級にいるのか調べられるか?」
「構わない」
クロードは気前よく使用人を呼び、魔力階級を測定するための水晶球を持ってこさせた。
間もなく、透明な球体が食卓の上へ置かれる。
アーガは右手を、その表面へ触れさせた。
水晶球の内部に淡い光が広がる。
光が集まり、一列の文字へ変化した。
『学徒級上位』
その結果を確認したアーガは、顔を上げた。
瞳には、強い決意が宿っている。
「俺と一度、戦ってくれないか?」
「今の俺が実戦でどこまで通用するのか、確かめたい」
アーガの声が、クロードの応接室へはっきりと響いた。
酒を注ごうとしていたクロードの手が、空中で止まる。
琥珀色の酒に、丸い波紋が広がった。
「面白い」
クロードは酒壺を置く。
「本気で言っているのか?」
アーガは、すでに席から立ち上がっていた。
「ああ」
「自分の限界を知りたい」
クロードが豪快に笑った。
身体を動かすたび、真紅の外套が大きく翻る。
彼は外套を乱暴に外し、床へ投げ捨てた。
その下から現れた鍛え上げられた上半身には、新旧無数の傷痕が刻まれている。
その一つ一つが、過去に経験した残酷な戦いを物語っていた。
「いいだろう」
クロードは獰猛な笑みを浮かべる。
「この一年で、お前がどれほど成長したのか――」
「俺が直々に確かめてやる」




