第87話 新たな力
「これは……」
アーガの指先が、赤の一《火》へ触れた瞬間。
焼けるような熱が伝わり、全身が大きく震えた。
アーガは迷わず、先ほど導き出した方法で体内の魔力を呼び起こす。
「――轟っ!」
激しい炎が噴き上がり、アーガの両腕へ絡みついた。
体内に取り込んだ魔晶石の力と、手にした赤の一《火》が、奇妙な共鳴を起こしている。
血管を流れる血液が、沸騰しているかのように熱かった。
「面白い」
クロードが唇を舐める。
その右腕が不気味に捻れ、変形していく。
直後、腕そのものが、全長二メートルはある巨大な鋸刃へ変わった。
「どこまで耐えられるか、見せてもらおうか!」
鋸刃が空気を引き裂きながら振り下ろされる。
アーガは身体を横へ投げ出すようにして回避した。
同時に、足元で炎を爆発させる。
その勢いを利用し、一瞬でクロードの懐へ飛び込んだ。
炎に包まれた拳を、その腹部へ叩き込もうとする。
しかし次の瞬間、クロードの胸から鋭い棘が突き出した。
「っ!」
アーガは慌てて身体を反らし、拳を引く。
「俺の全身は武器なんだよ、坊主」
クロードが凶悪な笑みを浮かべた。
直後、左肩の皮膚が大きく裂ける。
その内側から現れた三本の骨槍が、アーガを目がけて一斉に射出された。
アーガは地面を転がり、辛うじて攻撃を避ける。
立ち上がると同時に、七つの火球を生み出した。
「行け!」
火球が扇状に広がりながら飛んでいく。
クロードは素早く地面を蹴り、次々と回避した。
轟音とともに爆発が起きる。
衝撃波によって坑道全体が揺れ、天井から無数の小石が雨のように降り注いだ。
立ち込める煙の中から、クロードがゆっくりと歩いてくる。
「その程度か?」
アーガは肩で激しく息をしていた。
冷や汗と血が混ざり合い、顎の先から地面へ滴り落ちる。
腰に巻いたカードベルトも、熱を帯び始めていた。
それに対し、クロードはようやく準備運動を終えたばかりのように見える。
背中が不自然に隆起した。
脊椎から鋭い骨が皮膚を突き破り、背中に禍々しい刃の列を作り出していく。
「そろそろ終わりにしよう」
クロードの声が、低く危険なものへ変わった。
「赤骸城の城主も、お前の頭なら、いい飾りになると喜ぶだろうよ」
クロードが一歩ずつ近づいてくる。
死が目前まで迫っている。
そう理解した瞬間、アーガの心を激しい恐怖が襲った。
(死ぬ……)
(いや……駄目だ……)
(賭けるしかない……!)
「取引をしないか?」
アーガが突然口を開いた。
手のひらでは、弱々しい炎が揺れている。
クロードの足が止まった。
骨の刃が、アーガの喉元から指一本分の位置で静止する。
「死ぬ前の命乞いか?」
「俺が何を食べたのか、あんたも分かっているはずだ」
アーガはクロードの目を真っすぐ見返した。
「上等魔晶石だ。今さら俺を殺しても、あれは戻ってこない」
クロードの瞳が、わずかに細くなる。
「大量の上等魔晶石を見つけられれば、それだけで大きな功績になる」
アーガは口元の血を拭った。
「いずれ城主の座を狙うときにも、かなり有利になるんじゃないか?」
「……続けろ」
クロードの骨刃が、無意識のうちにわずかに引かれた。
「俺なら、この鉱脈にある上等魔晶石を、もっと見つけられる」
アーガは自分の目を指さす。
「あれを食べてから、上等魔晶石がある場所を感じ取れるようになった」
クロードはしばらく黙っていた。
やがて突然、大声で笑い始める。
「俺が、死にかけたガキの戯言を信じると思うか?」
「なら、殺せばいい」
アーガは激しく息をしながら、両手を広げた。
「ただし、上等魔晶石の鉱脈を見つける唯一の手掛かりを、自分の手で潰すことになる」
骨刃がアーガの首筋を浅く切り裂いた。
細い血の筋が流れ落ちる。
だが、刃はそれ以上進まず、ゆっくりと引き戻された。
クロードの表情は、激しく揺れ動いていた。
そのとき、そばにいた監督官が口を挟む。
「クロード様、こいつの言うことにも一理あります」
「今ここで殺したところで、上等魔晶石は戻ってきません」
クロードはしばらくアーガを睨みつけていた。
やがて、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「いいだろう。その取引、受けてやる」
声には、隠しきれない殺意が込められていた。
「だが、もし見つけられなかったら――」
「そのときは、自分から首を副城主邸へ届ける」
アーガは血に染まった歯を見せ、笑った。
クロードの身体が、少しずつ元の姿へ戻っていく。
彼は腰から禁魔の手枷を取り出し、アーガの前へ放り投げた。
「それをつけろ。俺についてこい」
(助かった……)
(今のところは……)
◇ ◇ ◇
クロードの私室には、濃い鉄錆の匂いが漂っていた。
アーガは硬い木製の椅子へ座らされている。
手首にはめられた禁魔の手枷が重く、皮膚へ食い込んで痛んだ。
アーガはそれを表情に出さず、狭い石室の中を観察する。
壁には、形も大きさも異なる無数の武器が掛けられていた。
部屋の隅には、完全に干からびた魔獣の頭蓋骨がいくつも積み上げられている。
机の上に広げられた地図には、鉱山内部を示す細かな坑道が、隙間なく書き込まれていた。
「城主直属の採掘隊が掘り出す普通魔晶石は、毎月三十トンほどだ」
クロードは琥珀色の酒を杯へ注いだ。
当然のように、アーガの分は用意しない。
「だが、上等魔晶石となると――」
クロードは三本の指を立てた。
「去年一年で見つかったのは、たった三個だ」
アーガの指先が、無意識に腰のベルトをなぞった。
先ほどまで熱を放っていたベルトは、今ではすっかり冷え切っている。
まるで、あの戦いで噴き出した炎が、すべて幻だったかのようだった。
「俺が正確な場所を特定できれば……」
アーガは、わざとそこで言葉を止める。
クロードが目を細めた。
「採掘効率は大幅に上がる」
突然、クロードが身を乗り出した。
濃い酒の匂いが、アーガの顔へ吹きかかる。
「だが、妙な真似をしていると分かったら――」
クロードはアーガの目を覗き込み、低い声で告げた。
「明日から毎日、鉱山を調べてもらう」
「そのたびに、正確な場所を俺へ報告しろ」
アーガは少し考えたあと、真剣な表情で口を開いた。
「もう一つ、上等魔晶石をもらえないか?」
クロードの眉が動く。
「何だと?」
「必要なんだ」
アーガは視線を逸らさなかった。
「上等魔晶石の位置を、もっと正確に感じ取るために」
クロードはしばらく無言でアーガを見ていた。
やがて立ち上がり、壁際に置かれた棚へ向かう。
隠し扉のようになっていた小さな戸棚を開き、中から一つの箱を取り出した。
「いいだろう」
箱の蓋を開ける。
中には、淡い光を放つ上等魔晶石が収められていた。
クロードはそれをアーガへ投げ渡す。
「妙な真似はするなよ」
◇ ◇ ◇
手枷を外され、鉱山の外へ出た頃には、すでに夕暮れを迎えていた。
沈みかけた太陽が、赤骸城の荒野を血のような赤色に染めている。
アーガは汚れた通りを、機械のように歩いた。
一歩進むたび、足の裏で刃を踏んでいるような気分だった。
(何も感じない……)
(上等魔晶石がどこにあるのかなんて、まったく分からない……)
(終わった……)
軋む木製の扉を押し開ける。
リナは火床のそばへ膝をつき、鍋でスープを作っていた。
振り返った瞬間、金色の髪に銀色の光が走る。
「アーガ様、その傷は……!」
リナは慌てて立ち上がろうとした。
「どうして、また新しい傷が増えているんですか?」
「大丈夫だ」
アーガは血に染まった布を身体から外し、火の中へ投げ込んだ。
そして、そのまま黴臭いベッドへ倒れ込む。
顔を粗い毛布へ埋め、爪が食い込むほど強く手のひらを握り締めた。
「もうすぐ夕食ができます……」
リナが恐る恐る声をかける。
鍋をかき混ぜていた手が、一度止まった。
アーガは答えなかった。
薪が爆ぜる音を聞く。
質素な夕食の匂いが、狭い部屋へ広がっていた。
その何気ない日常が、今は息苦しいほどの絶望を感じさせる。
(明日……)
(明日が、俺の命日になる……)
(逃げるか?)
(でも、この街からは逃げられない……)
不意に、ひんやりとした指がアーガのこめかみへ触れた。
いつの間にか、リナがベッドのそばへ膝をついていた。
「温かいうちに、食べてください」
アーガはどうにか身体を起こした。
差し出された器を受け取るときも、少女の心配そうな視線をわざと避ける。
スープは薄く、塩の味もほとんどしなかった。
だが、中に入っているジャガイモは、ちょうどよい柔らかさまで煮込まれていた。
◇ ◇ ◇
夜。
辺りは墨を流したように暗かった。
アーガは小屋の裏にある、使われなくなった古井戸のそばへしゃがみ込んでいた。
指先で、腰に巻いたカードベルトを何度もなぞる。
井戸の縁に生えた苔が、月明かりを受けて薄く光っている。
遠くからは、赤骸城の闘技場の騒がしい歓声が、時折風に乗って聞こえてきた。
アーガは井戸の周囲を何度も往復した。
靴底が小石を踏み、細かな音を立てる。
無理やり自分を落ち着かせるように、深く息を吐いた。
ようやく、強張っていた肩から力が抜ける。
月明かりの下。
アーガは慎重に、赤の一《火》を取り出した。
指先へ、あの焼けるような感覚が伝わってくる。
「試してみるか……」
カードを握り、目を閉じる。
体内の魔力をゆっくりと動かした。
自分の細胞そのものが、すでに炎の力へ適応し始めている。
そんな感覚があった。
直後。
腹の奥から、激しい熱が湧き上がる。
熱は血管を通り、腕へ向かって一気に流れ込んだ。
「はっ!」
アーガは前方へ向けて、勢いよく拳を突き出した。
次の瞬間。
拳の表面から、灼熱の火柱が噴き出した。
三メートルほど離れた場所に積まれていた枯れ草が、一瞬で燃え上がる。
高温によって井戸水が蒸発し、白い蒸気が音を立てながら噴き上がった。
月明かりの中に、奇妙な白い幕が広がっていく。
「やっぱり、魔晶石のせいか……」
アーガは呟きながら、燃え上がった火を消した。
「確かに、これなら発動条件は満たしている」
「でも、本当に魔晶石をそのまま食べられるものなのか……?」
(魔晶石の力によって、身体から直接カードの力を引き出せるようになった……)
(普通なら、魔力に耐えきれず身体が破裂してもおかしくない)
(なのに、どうして俺は生きている?)
アーガは自分の腹へ手を当てた。
(以前受けた毒によって、体内の魔力が制限されているからか?)
(そのせいで、取り込んだ魔晶石の力まで抑えられている……?)
目を閉じ、身体の内側へ意識を集中させる。
上等魔晶石の力は、今も体内に残っていた。
魔力の通り道も、相変わらず塞がれている。
それにもかかわらず、赤の一《火》を使うときだけは、魔力が驚くほど滑らかに流れた。
さらに注意深く感覚を探る。
すると、体内の力が、別の上等魔晶石とわずかに共鳴していることに気づいた。
反応は、家の中から伝わっている。
クロードから受け取った、もう一つの上等魔晶石だ。
(もっと魔晶石を食べろってことか?)
アーガは黄色の一を取り出した。
先ほどと同じように魔力を送り込み、発動を試みる。
しかし、何も起こらなかった。
カードは光らず、身体にも変化はない。
アーガは考え込みながら、カードの表面を指でなぞった。
「ほかのカードへ適応するには、もっと上等魔晶石が必要なのか……?」
夜風が吹き抜けた。
汗ばんだ肌へ、冷たい空気が触れる。
そのとき、アーガは背後に何者かの気配を感じた。
勢いよく振り返る。
「リナ?」
小屋の裏口。
金髪の少女が、扉の枠から顔を覗かせていた。
深い青色の瞳が、月明かりを受けて輝いている。
見つかったと気づくと、リナは怯えた小動物のように首を縮めた。
「アーガ様……」
裸足のまま、湿った草の上へ立っている。
「何をしていたんですか……?」
アーガはリナの前まで歩いていった。
そして、驚かせないように、そっとその頭へ手を置く。
「俺は、どうやら……」
少し考え、静かに言った。
「新しい力を手に入れたらしい」
リナの瞳が、一瞬で明るくなった。
まるで、無数の星を閉じ込めたようだった。
「本当ですか?」
嬉しそうにアーガの袖をつかむ。
「よかったです!」
しかし、すぐに何かを思い出したように手を離した。
「それなら……アーガ様は、もう鉱山へ行かなくてもいいんですよね?」
月明かりが二人へ降り注ぐ。
地面に伸びた二つの影は、細長く重なっていた。
アーガは、期待に満ちた少女の瞳を見つめる。
胸の奥へ、微かな温かさが広がった。
「しばらくは、まだ行かなきゃならない」
アーガは穏やかな声で答えた。
「でも、これから少しずつ状況はよくなるはずだ」
リナは力強くうなずいた。
金色の髪が、夜風に揺れる。
「はい!」
少女は迷いのない笑顔を浮かべた。
「私は、アーガ様を信じています!」
遠くに見える赤骸城の灯火は、今夜も血のように赤く燃えていた。




