第86話 上級魔晶石
赤骸城の鉱山入口は、山肌へ開いた巨大な獣の口のようだった。
奥には光がまったく届かず、黒い空洞がどこまでも続いている。
アーガは、ぼろぼろの服をまとった鉱夫たちに混じって列へ並び、受付を待った。
空気には汗と金属が混ざった、不快な臭いが漂っている。
「新入りか?」
監督官は隻眼の男だった。
顔に刻まれた刀傷は、頬から首元まで長く伸びている。
男は錆だらけのつるはしを、アーガの足元へ放り投げた。
「決まりは簡単だ」
「一日の最低賃金は三銅貨。鉱石を掘り当てたら、その分だけ追加で払う」
監督官が、隣に置かれた黴だらけの木札を指さす。
そこには、歪んだ文字で買い取り価格が記されていた。
『低級普通鉱石 二銅貨/一個
高温鉱石 一銀貨/一個
混合鉱石 五銀貨/一個
……
上級魔晶石 一金貨/一個』
アーガは最後の一行を見つめ、口元へ冷たい笑みを浮かべた。
(上級魔晶石は、めったに採れない希少品だ)
(市場へ出せば、最低でも三百金貨はする……)
(本当に、骨までしゃぶるつもりなんだな)
それでも、アーガに選択肢はなかった。
「坑道へ入る前に契約書へ署名しろ」
監督官は黄ばんだ羊皮紙を差し出した。
「中で死んでも自己責任だ」
「落盤、毒気の流出、魔獣に食われた場合も、こちらは一切責任を負わない」
アーガは内容へ大まかに目を通し、最下部へ自分の名前を書いた。
監督官は満足そうに契約書をしまう。
そして、真っ暗な坑道を指さした。
「B区は人手が足りていない」
「灯りを受け取って、自分で向かえ」
◇ ◇ ◇
坑道は、想像していた以上に不気味だった。
湿った冷気が奥から吹きつけ、腐敗したような臭いを運んでくる。
アーガはほかの鉱夫たちに続き、凹凸の激しい地面を慎重に進んだ。
「初めて鉱山へ入るのか?」
隣を歩いていた、背中の曲がった老人が突然声をかけてきた。
暗闇の中で、老人の目が不気味な光を放っている。
アーガはうなずいた。
老人は口を大きく歪めた。
並びの悪い黒い歯が覗く。
「そんなに若いのに……かわいそうになあ」
そう言い残すと、老人は急に歩みを速めた。
やがて暗闇の中へ消えていく。
不気味な笑い声だけが、長い坑道へ何度も反響した。
アーガはつるはしを握り直し、さらに奥へ進んだ。
暗闇の中では、水滴が落ちる音と、遠くから聞こえる採掘音が重なっている。
まるで、巨大な怪物の鼓動のようだった。
作業地点へ到着すると、鉱夫たちは持っていた灯りをすべて天井へ吊るした。
坑道の中が、ようやく少し明るくなる。
◇ ◇ ◇
鉱山の奥は、空気が濁り、ひどく蒸し暑かった。
汗がアーガの眉から流れ落ち、乾いた目へ入り込む。
手にしたつるはしは、長時間の使用ですでに熱を持っていた。
手のひらには血豆ができ、振り下ろすたびに鋭い痛みが走る。
「手を動かせ! この怠け者ども!」
監督官の怒鳴り声が、狭い坑道へ響き渡った。
直後、鞭が肉を打つ乾いた音が鳴る。
痩せた鉱夫が悲鳴を上げ、地面へ倒れ込んだ。
背中には、すぐに二本の赤い傷が浮かび上がる。
「役立たずが!」
「まだ始まってからどれだけも経っていないだろう!」
監督官は鞭を戻し、倒れた男へ怒鳴った。
「次に手を止めたら、今日の給料は一銅貨も渡さんぞ!」
アーガは歯を食いしばり、無理やり腕を速く動かした。
両腕はすでに、痛みを通り越して痺れている。
黄色く濁った鉱山灯の下。
周囲にいる数十人の鉱夫たちは、同じ動作を機械のように繰り返していた。
持ち上げる。
振り下ろす。
また持ち上げる。
誰も言葉を発さない。
聞こえるのは、鉄が岩壁を打ちつける音だけだった。
ガンッ!
アーガのつるはしが、再び硬い岩壁へ突き刺さる。
火花が周囲へ飛び散った。
そのとき。
右前方から、普段とは異なる澄んだ音が聞こえた。
「こ、これは……」
顔を炭で真っ黒にした中年の鉱夫が、震えながら地面へ膝をついた。
指先で、周囲の砕けた石を慎重に取り除いていく。
頭上に吊るされた灯りを受け、岩の隙間から眩い紫色の輝きが漏れ出した。
上級魔晶石だけが放つ、特有の光だった。
中年の鉱夫は、すぐに自分の身体で光を隠した。
震える手で、周囲の岩を必死に掻き分ける。
しかし、魔晶石を取り出そうとした、その瞬間。
背後から鋭い叫び声が上がった。
「魔晶石だ!」
「上級魔晶石が出たぞ!」
坑道全体が、一瞬で騒然となった。
最も近くにいた三人の鉱夫が、真っ先に飛びかかる。
飢えた狼のように、中年の男を地面へ押さえつけた。
拳が肉へめり込む鈍い音。
爪で皮膚を引き裂く音。
狂ったような罵声。
すべてが入り混じった。
「どけ! 俺が最初に見つけたんだ!」
魔晶石を発見した男が叫ぶ。
「死ね、老いぼれ!」
上へ覆いかぶさった男が、鉱石へ手を伸ばした。
「これがあれば、何か月も腹いっぱい食える!」
誰かが獣人の言葉で咆哮する。
「女奴隷だって買えるぞ!」
別の男の目は、完全に血走っていた。
アーガは突然の混乱に、呆然と立ち尽くした。
一人、また一人と乱闘へ加わっていく。
通りかかった男は、邪魔だと言わんばかりにアーガを突き飛ばした。
「っ……!」
アーガは地面へ倒れ込む。
鉱夫たちはつるはしを武器として振り回し、砕けた石を人混みへ投げ込んだ。
血が地面へ広がり始める。
あちこちから、悲鳴が上がった。
「全員、そこまでだ!」
雷が落ちたような怒声が響いた。
坑道が揺れ、天井から小石がぱらぱらと落ちる。
鉱夫たちの動きが、一斉に止まった。
全員が入口へ顔を向ける。
深紅の外套を身につけた大男が、ゆっくりと坑道へ入ってきた。
腰には三級カード《カップの5》が下げられている。
その能力は《鋭刃魔法》。
自分の身体のあらゆる場所を、鋭利な刃へ変える魔法だった。
アーガは、その男から放たれる恐ろしい威圧感を肌で感じた。
冷たい汗が頬を伝う。
目の前の男は、すでに校尉級へ達している。
「私は赤骸城の副城主、クロードだ」
冷え切った声が、坑道内へ響き渡った。
「赤骸城の法に基づき、暴動を起こした者には厳しい罰を与える」
鉱夫たちの顔が、一瞬で青ざめた。
「お、大人……違うんです……」
「お前たちのような暴徒に与える罰は――」
クロードは、鉱夫たちが殺し合って流した血を踏みながら進んだ。
「死だ」
一人の男がつるはしを捨て、地面へ跪いた。
「お許しください、大人――!」
次の瞬間。
クロードの右手が不気味に歪んだ。
五本の指が伸び、それぞれが鋭い刃へ変化する。
冷たい光が一閃した。
ザシュッ!
命乞いをしていた男の首が宙を舞った。
噴き出した血が、岩壁へ赤い跡を残す。
「逃げろ!」
坑道内に、恐慌の叫びが爆発した。
鉱夫たちは四方へ逃げ出す。
だが、クロードの姿は幽鬼のように何度も瞬いた。
刃と化した腕を振るうたび、血の雨が舞い上がる。
切断された手足が飛び散った。
狭い坑道に悲鳴と断末魔が反響する。
そこは、まさにこの世の地獄だった。
アーガは岩壁へ背中を押しつけた。
冷たい汗が、衣服を完全に濡らしている。
(死ぬ……)
(絶対に殺される……!)
指先を、腰にある青の7《爆発》カードへ伸ばす。
呼吸さえ止まりそうだった。
(落ち着け……)
(何か方法を考えないと……)
(でも、俺はもう魔法を使えない!)
(剣術は……駄目だ。剣がない!)
最後の鉱夫の死体が地面へ倒れた。
クロードはゆっくりと振り返る。
刃から滴る血が、足元へ真紅の小川を作っていた。
その目が、アーガを捉える。
口元に残酷な笑みが浮かんだ。
「次はお前だ、小鼠」
「赤の1――火炎!」
アーガはカードを投げ放ち、魔力を送り込んだ。
しかし――。
何も起こらなかった。
クロードが鼻で笑う。
「驚いたな」
「今どき、トランプを使う役立たずまでいるとは」
再び右腕が変形する。
細長く湾曲した刃となり、アーガの喉元へ迫った。
アーガは全力で身体を横へ倒す。
刃が首筋をかすめ、細い血の線を刻んだ。
よろめきながら顔を上げる。
その視界の端に、先ほどの上級魔晶石が映った。
わずか三歩先。
血の海の中で、青紫色の光を放っている。
(賭けるしかない……!)
アーガは勢いよく地面を蹴り、魔晶石へ飛びついた。
クロードの二撃目が振り下ろされる、その瞬間。
アーガは、誰もが予想しなかった行動へ出た。
魔晶石をつかみ取る。
そのまま口の中へ放り込み、力いっぱい噛み砕いた。
バキンッ――!
澄んだ破砕音が、坑道全体へ響き渡った。
遅れて駆けつけた監督官が、横から叫ぶ。
「何をしている!」
「そんな物を食べたら、魔力で身体が破裂するぞ!」
クロードの動きが止まった。
瞳孔が大きく縮む。
「狂人め……!」
魔晶石が喉を通った瞬間。
アーガの体内で、荒れ狂う力が爆発した。
血液が沸騰する。
全身の骨が砕かれ、再び組み直されているようだった。
耐え難い激痛に両膝をつく。
喉から、引き裂かれるような絶叫があふれた。
「ああああああっ!」
「愚かな獣だ」
クロードは冷笑を浮かべ、ゆっくりと近づく。
「自ら死を選んだうえに、私の魔晶石まで無駄にしおって」
腕が再び刃へ変わった。
その切っ先が、真っすぐアーガの心臓へ突き出される。
(俺は……死ぬのか……?)
激痛によって霞む意識の中、アーガはぼんやりと思った。
(ヴィエン……)
(リサ……)
(リナ……)
刃が胸を貫こうとした、その瞬間。
轟音が響いた。
「――っ!」
アーガの手に握られていた赤の1カードが、突然激しい光を放った。
本能的に両腕を交差させ、頭を守る。
直後。
灼熱の火柱が、アーガの手のひらから噴き出した。
クロードは反応できなかった。
炎を正面から受け、深紅の外套が一瞬で燃え上がる。
「ぐっ……!」
数歩よろめきながら後退した。
その顔に、初めて驚愕が浮かぶ。
「あり得ない!」
「トランプに、これほどの威力があるはずがない!」
アーガは、ゆっくりと立ち上がった。
両目は、すでに鮮やかな赤へ染まっている。
体内を満たす膨大な力が、赤の1カードと共鳴しているのを感じた。
炎が生き物のように両腕へ巻きつき、絶えず揺らめいている。
「お前……!」
クロードは歯を食いしばり、燃えている外套を引き裂いて捨てた。
鍛え上げられた上半身が露わになる。
「いったい、何を食ったんだ!」
アーガは身体の中を駆け巡る不可思議な力を感じていた。
だが――。
何が起きているのかは、本人にも分からなかった。




