第85話 二度目の闘技場
朝の光が木造小屋の隙間から差し込んでいた。
アーガが目を覚ますと、リナはまだ彼の腕の中で身体を丸め、安らかに眠っていた。
呼吸は穏やかで規則正しい。
金色の睫毛が呼吸に合わせて小さく揺れ、口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。
どうやら、よい夢を見ているらしい。
アーガはリナを起こさないよう、慎重に腕を抜いた。
音を立てずに起き上がり、部屋の隅に置かれた古い背負い袋を手に取る。
中へ硬い黒パンを数切れと、小さな水袋を詰めた。
出かける直前。
アーガはもう一度、眠っているリナを振り返った。
◇ ◇ ◇
赤骸城の通りは、朝から変わらず騒がしかった。
血と汗の臭いが、淀んだ空気の中へ充満している。
アーガは拳を握り締め、闘技場へ向かって歩いた。
前回、衛兵に言われた言葉を思い出す。
『こんな小さな子供が闘技場へ出るなんて、聞いたこともない』
『次も来るなら、相手に少し手加減させてやる』
(幼いことが、逆に客を集める売りになるのか……)
アーガは歯を食いしばり、闘技場の重い鉄扉を押し開けた。
受付にいたのは、前回と同じ人相の悪い男だった。
男はアーガをちらりと見て、口元を歪める。
「よう、餓鬼」
「また死にに来たのか?」
アーガは何も答えなかった。
黙ったまま木札を受け取る。
そこには《155》という数字が刻まれていた。
「今日の相手は《骨砕き》グロムだ」
受付の男は興味なさそうに言った。
「子供の骨を折って、その悲鳴を聞きながら飯を食うのが大好きな奴だ」
アーガの指先が、わずかに震えた。
それでも、引き返すことはなかった。
◇ ◇ ◇
闘技場の砂場は、記憶にある以上に熱かった。
アーガは裸足で地面へ降りる。
焼けた砂が足の裏を刺すように痛めつけた。
周囲の観客席は、人で埋め尽くされている。
観客たちは興奮した声を上げ、中には腐った果物を場内へ投げ込む者までいた。
(本当におかしな街だ)
(昼は死ぬほど暑いのに、夜になれば風で凍えそうになる……)
「続いての試合!」
審判の声が、魔法の拡声器を通して闘技場全体へ響き渡った。
「155番――親殺しのアーガ!」
「対するは、我らが大盗賊――モルハン!」
「倍率は一対八十だ!」
「モルハン!?」
アーガは驚いて声を上げた。
「まさか、あいつなのか……!」
正面の鉄格子が、ゆっくりと上がっていく。
その奥から、見覚えのある男が姿を現した。
顔には以前なかった、薄い傷痕が一本走っている。
右手には、大きな鎌が握られていた。
モルハンは凶悪な笑みを浮かべ、首を左右へ傾ける。
骨が擦れ合うような、不快な音が鳴った。
「よう、アーガ」
モルハンは唇を舐めた。
「奇遇だな」
「今すぐお前を殺してやりたいところだが――それはできないらしい」
戦いはすぐに始まり。
それ以上に早く、終わった。
アーガが短剣を抜く暇すらなかった。
モルハンの拳が胸へ突き刺さる。
強烈な衝撃によって、アーガの身体は数メートルも吹き飛ばされた。
地面へ激しく叩きつけられる。
「がはっ……!」
口から血を吐いた。
どうにか起き上がろうとする。
だが、モルハンはすでに大股で近づいてきていた。
そのままアーガの手首を踏みつける。
バキッ――。
骨が折れる音が、はっきりと響いた。
アーガの悲鳴は、観客たちの歓声にかき消された。
それから数分間。
試合は、ただの拷問へ変わった。
モルハンは、わざと致命傷を与えなかった。
猫が鼠をいたぶるように、アーガの指を一本ずつ折る。
さらに何度も脇腹を蹴り、肋骨を砕いていった。
アーガの意識が、次第にぼやけていく。
耳に残るのは、観客たちの狂った笑い声と、モルハンの荒い呼吸だけだった。
「そこまで!」
ようやく審判が試合を止めた。
「勝者――モルハン!」
「やっと復讐できたぜ!」
モルハンはまだ物足りなそうに唾を吐いた。
最後にアーガの腹を強く蹴りつけてから、悠々と砂場を去っていった。
◇ ◇ ◇
アーガは乱暴に治療室へ引きずり込まれた。
顔中に痘痕のある老婆が、質の悪い治療薬を口へ無理やり流し込む。
その後、傷口へ適当に包帯を巻いただけで処置は終わった。
「ほら。今回は前より客が入ったからな」
前回と同じ衛兵が姿を現した。
足元へ銀貨を一枚投げる。
「これが報酬だ」
続いて、もう一枚の銀貨を指先で弄んだ。
「今度は頭を下げたら、もう一枚やるぞ」
アーガの視界は霞んでいた。
全身が痛み、ほとんど動くことができない。
家には、まだ六枚の金貨が残っている。
そして、リナがいる。
(頭を下げるだけだ……)
アーガは震える腕で身体を支えた。
汚れた床へ額をつける。
そして、そのまま強く頭を打ちつけた。
「ははははっ!」
衛兵が腹を抱えて笑う。
「見ろ、この負け犬を!」
もう一枚の銀貨を地面へ投げた。
「さっさと失せろ!」
「次もちゃんと来いよ!」
二枚の銀貨が床の上を転がった。
アーガは震える手を伸ばし、一枚ずつ拾い集める。
わずかに動くだけでも、折れた肋骨が肺へ突き刺さるような痛みが走った。
何度もふらつきながら立ち上がる。
傷だらけの身体を引きずり、一歩ずつ家へ向かって歩き始めた。
夕日が、アーガの影を長く伸ばしていた。
地面へ滴る血が、曲がりくねった赤い線を作っていく。
◇ ◇ ◇
アーガが軋む木の扉を押し開けたとき。
リナは炉のそばへ座り、薬を煮ていた。
薬鍋の中では、濃い褐色の液体が沸騰している。
苦い匂いが、小屋全体へ広がっていた。
扉の音を聞き、リナが勢いよく顔を上げる。
手にしていた木匙が床へ落ち、乾いた音を立てた。
「アーガ様!」
リナは驚きの声を上げ、駆け寄ってきた。
長い金髪が、背後で大きく揺れる。
「いったい、どうされたのですか!?」
アーガの口元には、乾いた血が残っていた。
右腕は不自然に垂れ下がっている。
衣服は砂埃と暗赤色の血にまみれていた。
アーガは無理に口元を持ち上げる。
「大丈夫だ……」
「少し転んだだけだよ」
リナの瞳孔が、大きく縮んだ。
震える手を伸ばし、アーガの腫れた頬へそっと触れる。
指先から、明らかに異常な熱が伝わってきた。
「嘘です……」
声には泣きそうな響きが混じっていた。
「転んだだけで、こんな怪我をするはずがありません……」
アーガがさらに言い訳をしようとした瞬間。
突然、激しく咳き込んだ。
「ごほっ……!」
手のひらへ鮮血が飛び散る。
リナの顔が、一瞬で青ざめた。
何も言わせず、アーガの腕を自分の肩へ回す。
細い身体で彼を支え、ベッドへ向かって歩き始めた。
「ゆっくりでいい……自分で歩ける……」
「強がらないでください!」
リナが突然、強い声を上げた。
深青色の瞳には、涙がいっぱいにたまっている。
「今は何も話さないでください!」
アーガをベッドへ座らせる。
リナは折れた肋骨の辺りへ、そっと指を当てた。
「闘技場へ行ったんですよね……?」
その声は、再び小さくなっていた。
「私は行ったことがありません」
「でも、赤骸城の奴隷商人の檻には、一年以上閉じ込められていました……」
「この街でお金を稼ぐ方法が、二つしかないことくらい知っています」
うつむいたまま続ける。
「鉱山か……闘技場です……」
アーガは目を閉じた。
これ以上隠すことはできない。
ゆっくりとうなずいた。
リナの瞳から、ついに涙がこぼれ落ちる。
雫がアーガの胸元へ落ちた。
「私のせいですか……?」
「私の薬を買うために……」
「違う」
アーガは即座に否定した。
灰青色の瞳で、真っすぐリナを見る。
「お前がいなくても、金はいずれなくなっていた」
手を持ち上げ、リナの涙を拭おうとする。
だが、強い痛みに眉を寄せた。
「自分を責めるな」
◇ ◇ ◇
それからしばらく。
アーガはほとんど身体を動かせなかった。
リナは毎日包帯と薬を取り替え、雪松精油を使って腫れた関節を揉みほぐした。
その手つきは慣れていなかった。
それでも、驚くほど真剣だった。
一度始めると、何時間も休まず続けることさえあった。
「どこで、こんなことを覚えたんだ?」
アーガは思わず尋ねた。
リナはうつむく。
垂れた金髪が、その表情を隠した。
「昔……」
「奴隷主が、怪我をした闘獣にこうしているところを見たんです……」
声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
「あの頃は……」
「私にも、こうしてくれる人がいたらいいのにって思っていました……」
アーガは手を伸ばし、リナの髪を撫でた。
何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
十数日後。
アーガの怪我は、ようやく回復し始めた。
残っている金を数える。
金貨は、わずか三枚になっていた。
また、金を稼ぐ方法を考えなければならない。
(闘技場は危険すぎる……)
モルハンの凶悪な笑みを思い出す。
骨が折れる音も、今なお耳の奥へ残っていた。
あと数回出場すれば、本当に命を落とすかもしれない。
(残る選択肢は、一つだけか……)
翌朝。
アーガは早い時間に目を覚ました。
音を立てないよう、最も厚い服へ着替える。
最後に残っていたパンは、机の上へ置いておいた。
「アーガ様……?」
リナが目を擦りながら起き上がる。
「どこへ行くのですか?」
アーガは靴紐を強く結んだ。
「鉱山だ」
短く答える。
「今日から、鉱山で働く」
リナの顔色が、一瞬で変わった。
「駄目です!」
「まだ怪我が完全に治っていません……!」
「聞いてくれ」
アーガは少女の言葉を遮った。
その声は、不思議なほど落ち着いていた。
「闘技場は危険すぎる」
「次に行けば、生きて帰れないかもしれない」
「鉱山は辛いだろうけど、少なくとも安定して金を稼げる」
壁へ掛けられていた古い水筒を手に取る。
「お前は家で待っていてくれ」
「勝手に外へ出るなよ」
リナは何かを言おうと口を開いた。
しかし、最後にはうつむいた。
「……はい」
消え入りそうな声で、そう答えた。




