第84話 夜の再構築
アーガは、すぐには机の上の紙を片づけなかった。
新しく導き出した式によって、閉鎖回路が決して安定できないわけではないことは証明できた。
魔力が増加するほど損失も大きくなる構造を作れば、回路内の力は旧理論のように減衰や暴走を続けるのではなく、少しずつ平衡状態へ近づいていく。
だが、理論が成立するからといって、今のアーガが実際に使えるとは限らなかった。
びっしりと文字や数式で埋め尽くされた紙を見下ろす。
胸の中にあった興奮が、次第に冷めていった。
旧理論の誤りさえ見つければ、そのままトランプを改良できると思っていた。
しかし実際には、新しい構造の方が使用者へ求める条件は高かった。
遠くから、鍵同士がぶつかる音が聞こえてきた。
先ほど立ち去った管理人が、別の灯りを手に戻ってくる。
管理人はまず、机いっぱいに広げられた紙を見た。
続いてアーガへ目を向け、少し驚いたような表情を浮かべる。
「まだ読み終わっていなかったのか?」
「外はもう暗くなっているぞ」
「そんなに遅い時間なんですか?」
「これ以上残るなら、お前を地下へ閉じ込めたまま帰ることになる」
管理人は机の端から落ちかけていた紙を、中央へ押し戻した。
「古い本は持ち出せない」
「だが、自分で書き写した物なら持って帰って構わん」
アーガは元の冊子を閉じ、管理人のそばへ戻した。
自分で描いた回路図と数式を整理し、一つにまとめる。
地下書庫を出る前に、一度だけ机の上の本へ振り返った。
『トランプ元素魔法カードの基礎構造』
その冊子は、相変わらず頼りないほど薄かった。
数百年前の研究者たちは、閉鎖回路を安定させる方法を見つけられず、最終的にトランプの研究を諦めた。
アーガは安定する可能性のある条件を見つけた。
それでも、回路を最初に起動するための魔力消費という壁に阻まれている。
前世の知識を使って計算したとはいえ、結果だけを見れば、昔の研究者たちと大して変わらなかった。
◇ ◇ ◇
図書館を出た頃には、街の通りもかなり静かになっていた。
大半の店は扉を閉め、明かりが残っているのは酒場と数軒の食堂だけだった。
通りの反対側から、冷たい夜風が吹いてくる。
アーガは外套の前を閉じ、足早に住居区へ向かった。
小屋の扉を開けると、リナが机のそばへ座っていた。
食事は一度温め直したらしく、スープ鍋の下では小さな火がかすかに燃えている。
扉が開く音を聞いたリナは、すぐに立ち上がった。
椅子が後ろへずれ、床板の上で軽い摩擦音を立てる。
「アーガ様!」
リナは急いで入り口へ駆け寄った。
アーガの身体を上から下まで確認する。
新しい怪我がないと分かると、明らかに安堵したように息を吐いた。
だが、顔に浮かぶ寂しそうな表情までは消えていなかった。
「どうして、こんなに遅くなったのですか?」
「外で何かあったのかと思いました……」
「図書館で本を読んでいたら、時間を忘れたんだ」
アーガは扉を閉め、手にしていた紙を机へ置いた。
「何もなかったよ」
リナは唇を結び、すぐには何も言わなかった。
まだ聞きたいことがあるようだった。
しかしアーガを怒らせることを恐れ、前掛けの端をうつむいたまま指でつまんでいる。
アーガは、そんなリナをしばらく見つめた。
それから手を伸ばし、金色の髪を二度ほど優しく撫でる。
「悪かった」
「次からは、もっと早く戻るよ」
リナは驚いたように目を瞬かせた。
強張っていた肩からも、少し力が抜ける。
小さくうなずくと、慌てて食卓へ戻った。
「スープをもう一度温めます。すぐにできますから」
「そのままでいいよ」
アーガは本当に腹を空かせていた。
椅子へ座り、用意されていた夕食を食べる。
リナが隣で食器を片づけている間にも、図書館で書き写した式をもう一度確認した。
だが、どの箇所の損失を減らしても、最初の循環に必要な魔力が消えるわけではない。
結局、紙を一度片づけるしかなかった。
◇ ◇ ◇
夜。
アーガはベッドへ横になり、目を閉じていた。
しかし、どれだけ待っても眠ることができない。
窓の外では、風が時折木の枝を揺らしていた。
葉が壁を擦る音が、途切れ途切れに聞こえてくる。
あの数式が、何度も頭の中へ浮かんだ。
新しい構造では、魔力を回路内で繰り返し循環させる。
循環するたびに平衡点との差が小さくなり、最後に安定状態へ到達する。
だが、魔力は循環するたび、すべての節点を通過しなければならない。
節点が多いほど、損失も増える。
そして回路全体を起動するために必要な初期魔力も大きくなる。
収束させる条件を見つけたにもかかわらず、カードを発動できない原因はそこにあった。
アーガは寝返りを打ち、毛布を少し上まで引き上げた。
(節点を減らすか?)
その方法は、すでに本の研究者たちが試している。
トランプの紋様は、もともと極めて単純だった。
これ以上節点を減らせば、元素魔法そのものが正常に形成されなくなる。
(それなら、魔力が戻る経路を短くする?)
それも駄目だった。
回帰する紋様が短すぎれば、魔力が十分に失われる前に入口へ戻ってしまう。
短時間でカードの許容量を超える可能性が高い。
アーガは窓から差し込む月明かりを、長い間見つめていた。
やがて突然、ベッドの上で身体を起こす。
なぜ、魔力を完全に安定するまで循環させなければならない?
過去の研究者たちは、閉鎖回路を長時間動かし続けようとしていた。
だからこそ、魔力が無数の循環を終えた後に、どのような状態へ到達するかを計算していた。
アーガも同じ考えに従い、魔力が最終的に静止する平衡点を探していた。
しかし。
トランプが放つ魔法は、そもそも永遠に存在する必要などない。
アーガは毛布をめくり、ベッドから降りた。
机の上に置いた紙と筆を手に取る。
リナの部屋はすぐ隣にある。
眠りを妨げないように外套を羽織り、音を立てずに扉を開けて外へ出た。
夜風は、先ほどよりも冷たかった。
屋根の上から降り注ぐ月明かりによって、紙に書かれた文字をどうにか読み取ることができる。
アーガは小屋の前の段差へ腰を下ろした。
元の閉鎖回路を、もう一度紙へ描く。
そして、後半部分にある回帰経路の大半を筆で塗りつぶした。
完全な構造では、魔力を何度も元素節点へ通過させ、誤差を少しずつ小さくする必要がある。
だが、今の自分には、何度もの循環を維持することができない。
それなら、最初の一度だけフィードバックを残せばいい。
魔力が元素節点を通過した後。
すべてを入口へ戻すのではなく、ごく一部だけを回帰させて修正へ使う。
残りの力はそのまま出力地点へ送り、魔法として形成する。
これなら、無限に循環を続ける閉鎖構造ではない。
フィードバックを一度だけ行う、打ち切り回路となる。
アーガは新しい式を紙へ書き込んだ。
新しい回路は、完全なモデルのように自動で平衡点へ近づくことはできない。
発動する魔法の威力も安定性も、大幅に低下するだろう。
しかし、起動しなければならない紋様の数が減れば、最初に必要となる魔力も大きく下げられる。
アーガはうつむき、しばらく計算を続けた。
回帰させる魔力の割合を、何度も変更する。
最後の数値を紙へ書き込んだところで、筆を握る手がようやく止まった。
「やっぱり、できる……」
この構造に従って赤の1カードを描き直せば、カードを発動するための魔力操作はずっと簡単になる。
アーガは紙を持ち上げ、月明かりの下でもう一度全体を確認した。
胸の中に、わずかな希望が生まれる。
だが、最後の起動値を計算した瞬間。
その希望は、ゆっくりと沈んでいった。
簡略化そのものには成功している。
しかし一度だけのフィードバックであっても、元素節点と回帰入口を同時に起動するだけの魔力は必要だった。
必要値は大きく下がっている。
それでも、今のアーガが動かせる魔力をわずかに上回っていた。
あと少し。
本当に、あとわずかだった。
だが、少し足りないことと、まったく使えないことに、大きな違いはない。
アーガは段差へ座ったまま、冷たい風に吹かれていた。
紙の端が何度も揺れる。
しばらくして、新しい回路図を丁寧に折り畳んだ。
立ち上がり、小屋の中へ戻る。
リナは目を覚ましていなかった。
室内は、先ほどと変わらず静まり返っている。
アーガは折り畳んだ紙を机の上へ置き、再びベッドへ横になった。
今度は、すぐに目を閉じた。
完全な閉鎖回路は起動できない。
簡略化した構造も、必要な魔力へあと少し届かなかった。
少なくとも今のアーガには、トランプを使って本当に役立つ魔法を放つことはできない。
それでも。
数式で埋め尽くされたあの紙を、捨てることはなかった。




