第83話 死の循環
アーガは薄い冊子を開いた。
紙はすでに黄ばみ、背表紙に近い部分には濃い色をした黴の跡がいくつも残っている。
最初は、見た目が薄いだけだと思っていた。
しかし目次を確認してみると、冒頭の説明と巻末の実験記録を除けば、トランプの構造について詳しく解説している部分は二十ページにも満たなかった。
「これで、トランプの元素魔法カードについての記述は全部なんですか?」
アーガは最後のページまでめくり、欠けている箇所がないことを確かめた。
思わず管理人へ顔を向ける。
「随分とページ数が少ないですね」
「もともと、それほど研究する価値がないと判断された物だからな」
管理人は手提げ灯を机へ置き、袖についた埃を払い落とした。
「書かれていることも、結局は同じ内容の繰り返しだ」
そう言って、階段の方角へ目を向ける。
「好きに読んでいろ」
「帰るときは灯りを机へ置いておけ。本は持ち出すなよ」
「ありがとうございました」
管理人は片手を振り、石段を上っていった。
足音が少しずつ遠ざかる。
やがて地下書庫は、再び静寂に包まれた。
魔法灯の光が時折揺らめき、並んだ書架の影を背後の石壁へ映し出している。
アーガは椅子を引いて座り、最初のページから読み直し始めた。
◇ ◇ ◇
トランプは、もともと子供向けの玩具として作られた物ではなかった。
安価に大量生産できる、基礎的な魔法媒体として開発された物だった。
希少な素材を必要としない。
カードに刻まれる紋様も非常に単純だった。
魔力を感じ取ることさえできれば、普通の人間でも一定期間練習することで使用できる可能性がある。
しかし、トランプにはすぐに、解決できない問題が見つかった。
上限が低すぎる。
数字の小さなカードが生み出すのは、非常に弱い元素魔法だけだった。
数字が大きくなるにつれて威力も上がる。
だが、それもすぐに一定の範囲で止まってしまう。
使用者がどれほど多くの魔力を流し込んでも、最終的に形成される魔法にはほとんど変化が現れなかった。
アーガはさらにページをめくった。
ようやく、魔力構造について書かれた部分へたどり着く。
トランプの紋様は一見単純だが、実際には始点と終点がつながった閉鎖回路になっている。
使用者の魔力は下部の入口から入り、元素節点を通過することで魔法を形成する。
その後、残った魔力は別の紋様を通り、再び入口へ戻っていく。
これこそが、トランプを何度も繰り返し使用できる理由だった。
アーガは、描かれた回路図をじっと見つめた。
その瞬間。
頭の中で、何かが引っかかった。
この閉鎖回路の形には見覚えがある。
入口と出口がつながっている。
力は一周して出発点へ戻り、そこから再び流れ始める。
前世で学生だった頃に学んだ、ある動力系のモデルとほとんど同じ構造だった。
そのモデルは、閉じた管の中を流体が循環し続けるシステムを表していた。
流体は途中で、複数のエネルギー交換節点を通過する。
理論上、循環回数が増えるにつれて、システムは一定の安定状態へ近づいていく。
ただし、それには一つの前提があった。
管そのものに自己調節機能があり、流速が上がりすぎたとき、自動的に抵抗を増加させなければならない。
このモデルをトランプへ当てはめるなら――。
カードの紋様が管。
魔力が流体。
火元素の節点が、エネルギー交換地点となる。
紋様そのものが魔力に対して基礎的な抵抗を持っている。
魔力が強くなるほど、その抵抗も大きくなる。
典型的な非線形フィードバックだ。
アーガは紙面を指で二度軽く叩いた。
それから筆を取り、計算を書き始める。
カードへ流れ込む初期魔力を (M_0) とする。
魔力が一度循環するごとに、一定の割合 (a) が残ると仮定すれば、数回循環した後の回路内の魔力は、
[M_k=a^kM_0]
となる。
(a) が一より小さい限り、魔力は循環回数が増えるにつれて少しずつ失われていく。
過去の研究者たちは、元素節点から一部の力を取り出し、回路内で失われた魔力を補おうとした。
その場合、式は次のように変わる。
[M_{k+1}=(a+b)M_k]
ここで (b) は、元素節点から回路へ戻される魔力の割合を表す。
アーガは別の紙へ、簡単な計算を書き出した。
(a+b) が一より小さければ、魔力は依然として減少し続ける。
一より大きければ、回路内の力は増加し続ける。
そして最後にはカードの許容量を超え、すべての紋様を焼き切ってしまう。
安定して動かすためには、二つの値の合計を正確に一へ合わせなければならない。
だが、それはほとんど不可能だった。
魔力の流れは、使用者の状態、カードの素材、周囲の元素濃度によって変化する。
ほんのわずかな変動だけでも、数値はどちらかへ傾いてしまう。
一見維持できているように見える均衡も、少し誤差が生じれば、結果は消失か暴走のどちらかになる。
本の研究者は、この構造を《閉鎖魔力死循環》と呼んでいた。
巻末の数ページには、大量の実験記録が残されている。
素材の変更。
紋様の幅の調整。
魔力入口の追加。
さらには複数人が同時に、同じカードへ魔力を流し込む実験まで行われていた。
それでも、固定された上限を超えることはできなかった。
冊子の最後には、簡潔な結論だけが残されている。
――閉鎖回路は、魔力がゼロではない状態で安定を維持できない。トランプ元素魔法カードに、これ以上研究する価値は存在しない。
アーガは、その一文を長い間見つめた。
それから前のページへ戻り、数式をもう一度確認する。
本に記された計算方法に従うなら、この結論に誤りはない。
回路の中にある魔力は減り続けるか、増え続けるかのどちらかだ。
その中間にあるのは、現実には維持できない臨界点だけだった。
「確かに、死の循環だ……」
アーガは小さく呟いた。
椅子の背へ身体を預け、机の上に置いた赤の1カードを見る。
数百年前の研究者たちは、数回実験した程度で諦めたわけではない。
巻末の記録を見る限り、思いつく方法はほとんどすべて試している。
それでも。
アーガは、どこかがおかしいと感じていた。
もう一度、あの式を紙へ書き写す。
筆先で (a+b) の部分を二度軽く叩いた。
この式では、すべての循環を完全に同じ過程として扱っている。
回路の中にごくわずかな魔力しかない場合も。
カードが耐えられる限界近くまで魔力が増えた場合も。
損失と還元の割合は変化しない。
最初に値が決まれば、その後は循環するたび、機械的に同じ数を掛け続けるだけだ。
だが、実際の魔力の流れが、そのように単純なはずはない。
昨日、赤の1カードを使用したとき。
魔力がカードへ入った直後は、紋様の光が速く進んだ。
しかし、火元素の節点を通過した後は、明らかに速度が落ちていた。
リナが使ったときも同じだった。
炎が大きくなるほど、カード後半の紋様の光は弱くなっていた。
つまり、魔力が増えるにつれて、カードが生み出す抵抗も強くなっている。
損失の割合が、常に一定であるはずがない。
アーガは筆を握ったまま、前世で学んだ非線形反復モデルを思い出した。
現実世界に存在する多くのシステムには上限がある。
温度が上がるほど、放熱量も増える。
速度が上がるほど、受ける抵抗も大きくなる。
魔力の流れも、同じなのではないか。
回路内の力が強くなるほど、紋様によって生じる追加損失も増えていく。
そうだとすれば、元の式には一つの項が足りない。
アーガは紙へ、新しい式を書いた。
[M_{k+1}=aM_k+Q-\beta M_k^2]
(a) は、一度循環した後に残る魔力の割合。
(Q) は、使用者が継続的に入力する魔力。
最後の (\beta M_k^2) は、魔力が強くなるにつれてカードの紋様から生じる追加損失を表す。
魔力が少ないとき、最後の項はほとんど無視できる。
そのため、回路内の力は増加していく。
しかし魔力が強くなるほど、追加損失も急激に大きくなる。
やがて入力と損失が等しくなり、回路内の魔力は変化しない値へ近づいていく。
アーガは身体を起こし、その下へ平衡条件を書き出した。
「この方程式にゼロより大きな解が存在するなら、トランプの魔力は必ずしも無限に減衰したり、増加し続けたりするわけじゃない」
「ある値の近くで止まり、相対的に安定する可能性がある」
だが、平衡点が存在するだけでは足りない。
一度の循環で生じた誤差が、次の循環ではさらに小さくならなければならない。
そうでなければ、魔力は平衡点の両側を何度も行き来する。
振動が大きくなれば、最後にはやはりカードを破壊してしまう。
筆先が紙の上で止まった。
染み出した墨が、ゆっくりと広がっていく。
アーガは自分が書いた数行の式を見つめた。
長い時間が過ぎてから、机に置いた薄い冊子をもう一度手に取る。
過去の研究者たちの計算が間違っていたわけではない。
彼らは最初から、トランプを完全な線形回路として扱っていた。
損失も還元も永遠に変化しないと考えた。
そのため、得られる結論は一より小さい、一と等しい、一より大きいという三種類だけだった。
だが、本物のカードは発熱する。
紋様には抵抗が生まれる。
元素節点が受け入れられる魔力量にも限界がある。
そうした変化のすべてが、循環する魔力の値へ影響するはずだった。
「死の循環なんかじゃない」
アーガは紙に書いた式を見つめた。
興奮のため、声が少し速くなる。
「お前たちが見つけた平衡点が、不安定だっただけだ」
紋様そのものが持つ抵抗を利用する。
魔力が特定の値へ近づいたとき、自動的に損失を増やすことができれば。
減衰するか暴走するしかなかった閉鎖回路を、少しずつ安定値へ収束する構造へ変えられるかもしれない。
地下書庫には時計がなかった。
どれほど長く座っていたのか、アーガ自身にも分からない。
手提げ灯の光は少しずつ弱くなっていく。
その一方で、机の上に積み重なる紙の数は増え続けた。
最後の節点まで計算したところで。
アーガの筆が突然止まった。
今しがた得られた数値を見つめ、眉をひそめる。
カードを爆発的な稼働状態へ入れるためには、最初に流し込む力が、すべての節点で生じる損失を上回らなければならない。
最低でも、一度は完全な循環を終える必要がある。
そのためには、非常に強い魔力が必要だった。
そうでなければ、回路が自己調節を始めるより前に、魔力は途中ですべて消えてしまう。
アーガは自分の手のひらを見た。
「駄目だ……」
今の自分が魔力をそこまで細かく操作するのは、あまりにも難しい。
それ以前に。
必要なだけの魔力量が、体内に残っていなかった。




