第80話 深夜の語らい
夜は墨を流したように深かった。
月明かりが木造小屋の隙間から差し込み、粗末な床板の上へまだらな光と影を落としている。
アーガは窓辺に掛けた破れ布をそっと引き寄せ、隙間から入り込む夜風を遮った。
それから振り返り、ベッドで眠るリナへ目を向ける。
少女は毛布の中で小さく身体を丸めていた。
呼吸は穏やかで、規則正しい。
炉の火に照らされた金色の睫毛が、蝶の羽のようにかすかに震えている。
(ようやく、ゆっくり眠れるようになったか……)
アーガの口元が、無意識に緩んだ。
足音を立てないよう炉へ近づき、数本の蛇木を中へ放り込む。
薪が弾け、赤い火の粉が舞った。
その光が、疲れながらも安堵したアーガの顔を照らす。
この半月で、リナの寒症が発作を起こす回数は明らかに減っていた。
今夜は特に珍しく、途中で目を覚ますこともなく眠り続けている。
アーガは痛む肩を揉みながらベッドのそばへ戻った。
窓の外には、決して消えることのない赤骸城の炎が揺れている。
そのとき、風が突然強くなった。
窓枠が小さく音を立てる。
アーガが破れ布を固定し直そうと立ち上がると、背後から布の擦れる音が聞こえた。
「アーガ様……?」
寝起きでぼんやりとした、リナの声だった。
アーガが振り返る。
少女はすでに身体を起こしていた。
乱れた金色の長髪が肩へ広がり、深青色の瞳が暗闇の中でかすかに光っている。
「起きたのか?」
リナは両目を擦り、小さな声で答えた。
「私……夢を見たんです……」
声は少しずつ小さくなっていく。
指先で、毛布の端を何度もねじっていた。
アーガはベッドのそばへ戻り、少女と目線が合うようにしゃがみ込む。
「怖い夢だったのか?」
リナは一度首を横へ振った。
次に、ためらうようにうなずく。
最後には唇を噛み、声を絞り出した。
「夢の中で……アーガ様がいなくなってしまって……」
ほとんど聞こえないほど小さな声だった。
「目が覚めたら、本当にベッドのそばにいなかったから……」
アーガは一瞬、何を言われたのか理解できずに目を瞬かせた。
やがて、思わず笑ってしまう。
「薪を足していただけだよ」
炉を指さした。
「ほら、ちゃんと火も燃えているだろ?」
しかし、リナの視線は落ち着かなかった。
何度も迷うように揺れている。
しばらくためらったあと、ようやく勇気を出したように口を開いた。
「アーガ様……いくつか、聞いてもいいですか?」
窓の外で、風がさらに強くなった。
破れ布が激しく揺れ、音を立てる。
アーガが窓を閉めようとしたとき。
リナの声が、急に沈んだ。
「嫌でしたら……大丈夫です……」
「私、少し調子に乗ってしまいました……」
その言葉を聞き、アーガの声も自然と柔らかくなった。
「気にしなくていい」
「聞きたいことがあるなら、聞いてくれ」
リナの瞳が一瞬だけ明るくなった。
だが、すぐに光が弱まる。
うつむき、毛布を強く握り締めた。
「アーガ様は……どうして私を買ったんですか?」
「私は、もう死にかけていたのに……」
「治療するにも、たくさんのお金が必要なのに……」
小屋の中が、しばらく静まり返った。
炉で薪が弾ける音だけが、時折響く。
アーガは、少女の細い肩を見つめた。
奴隷市場で初めて見たときの姿が脳裏へ浮かぶ。
金髪の少女が、鉄檻の奥で身体を丸めていた。
吐き出す息が格子へ霜を作り、深青色の瞳は絶望に沈んでいた。
「そのうち分かるよ」
長い沈黙の末、アーガはそう答えた。
リナの肩が、目に見えて震えた。
顔を上げたときには、すでに瞳へ涙がたまっていた。
「私……小さい頃にさらわれたんです……」
押し殺した泣き声が混じる。
「あまりにも幼かったから、それ以前のことは何も覚えていません……」
「私の記憶では……十年くらい、ずっと奴隷として生きてきました……」
「三歳の頃から?」
アーガは眉を寄せた。
「そんなの、あまりにもひどすぎるだろ」
「その頃は、ずっと檻の中にいました」
リナの爪が、無意識に手のひらへ食い込む。
「毎日、決まった時間に餌を与えられるだけで……」
「六歳か七歳くらいの頃、一度誰かに買われたこともあります」
声が震えた。
「でも、奴隷への扱いなんて……どこへ行っても同じでした……」
冷たい風が壁の隙間から入り込み、蝋燭の炎を不安定に揺らす。
アーガの影が、壁の上へ長く伸びていた。
彼は小さく息を吐いた。
「それで、何を聞きたいんだ?」
リナの目から、ついに涙がこぼれ落ちた。
炎の光を受け、小さく輝いている。
「リナは……」
自分の名前を口にしながら、声を震わせた。
「捨てられるんですか……?」
「それとも……ほかに何かされるんですか……?」
アーガは思わず固まった。
片手で額を押さえ、大きくため息をつく。
「どうして、そんなことを考えたんだ?」
リナの涙は、さらに激しく流れ始めた。
それでも、少女は頑固に顔を上げたままだった。
「アーガ様は、私を買ってから……一度も叩いたり、怒鳴ったりしませんでした」
「最初は、とても不思議でした……」
「でも、すごく嬉しかったんです……」
声が少しずつ弱くなる。
「ただ、この数日……アーガ様の態度が、少し変わったような気がして……」
「何かがおかしいように感じるんです……」
アーガは額から手を下ろした。
指が、何もない空中を無意識につかむ。
どう説明すればいいのだろう。
リナの治療によって、残っていた金のほとんどを使い果たしてしまった。
そんなことを伝えれば、この少女は間違いなく自分を責める。
風はさらに強くなった。
木造小屋全体が、耐えかねたように軋む。
いくつもの隙間から冷たい風が入り込み、リナは小さく身体を震わせた。
アーガはもう一度ため息をついた。
ベッドのすぐそばへ歩み寄る。
そして、乱れた金髪へそっと手を置いた。
その動きは、自分でも驚くほど優しかった。
「余計なことを考えるな」
毛布を引き上げ、リナの肩を丁寧に包み込む。
「俺は絶対に、お前を捨てない」
リナの涙が、アーガの手の甲へ落ちた。
驚くほど熱かった。
少女は突然、アーガの袖を強くつかむ。
その声には、十年間の奴隷生活で染みついた卑屈さと、相手の反応を恐れるような響きが混じっていた。
「アーガ様は……」
「私を奴隷として扱わなかった、初めての人です……」
その言葉に、アーガの胸が強く締めつけられた。
もう一度、リナの頭を撫でる。
先ほどよりも、さらに優しく。
「もう大丈夫だ」
「ゆっくり眠れ」
だが、リナは袖から手を離そうとしなかった。
少女の顔が、突然真っ赤に染まる。
「アーガ様……」
「その……お願いが……」
声は蚊の鳴く音よりも小さかった。
「お願い……できますか……?」
「何だ?」
アーガは不思議そうに首を傾げる。
リナの瞳から、再び涙があふれた。
それでも最後には勇気を振り絞り、震えながらもはっきりと言った。
「私を……」
「強く、抱き締めてくれませんか……?」
言い終えた瞬間。
少女の顔は、今にも血が滴りそうなほど赤くなった。
アーガの袖をつかむ指には、関節が白くなるほど力が込められている。
アーガは言葉を失った。
目の前にいる、小さく痩せた少女を見つめる。
十三年の人生のうち、十年を檻と鎖の中で過ごしてきた。
本当の抱擁を知らない。
人の温もりがどのようなものかも知らない。
誰かを信じることさえ、彼女にとっては手の届かない贅沢だった。
アーガはしばらく固まっていた。
だが、もう迷わなかった。
両腕を広げ、リナの身体をそっと抱き寄せる。
少女の身体が、一瞬だけ硬直した。
次の瞬間。
全身が激しく震え始める。
「うぅ……」
押し殺された、途切れ途切れの泣き声。
涙が瞬く間に、アーガの服を濡らした。
「私……初めて知りました……」
「抱き締めてもらうことが……こんなに幸せだなんて……」
アーガは両腕へ少しだけ力を込めた。
顎を、リナの金髪へ優しく乗せる。
髪からは薬草の苦い香りがした。
だが不思議と、その匂いはアーガの心を落ち着かせた。
窓の外で荒れていた風は、少しずつ弱くなっていく。
炉からは、暖かな薪の弾ける音が聞こえていた。
「アーガ様……」
リナが小さな声で呼びかける。
そこには迷いと、かすかな恥ずかしさが混じっていた。
アーガは腕の中の少女へ視線を落とす。
「何だ?」
リナの頬が、再び赤く染まる。
アーガの身体へ、さらに強く抱きついた。
「私……」
「アーガ様のことが、大好きです……」
声は次第に小さくなり、最後には息の音とほとんど変わらなくなった。
言い終えると同時に、リナはさらに深く顔を埋めた。
耳の先まで、真っ赤になっている。
腕の中にいる小さな身体が、かすかに震えていた。
緊張しているのか。
それとも、何かを期待しているのか。
アーガには分からなかった。
彼は小さく息を吐く。
「もう眠れ」
穏やかな声で続けた。
「俺は、お前を捨てないから」
リナの呼吸は、少しずつ安定していった。
強張っていた身体からも、ゆっくりと力が抜けていく。
それでも指だけは、アーガの服の裾をつかんだままだった。
手を離せば、この温もりも消えてしまうと恐れているように。
破れ布の隙間から月明かりが差し込む。
寄り添う二人を、淡い銀色の光が包み込んだ。
赤骸城の深い夜。
この古びた小さな木造小屋で。
二つの孤独な心は、ほんのひととき、互いを支える場所を見つけた。
炉の炎は次第に弱くなっていった。
しかし、その温もりだけは長い間、消えることなく残り続けた。




