第78話 奴隷を買う
アーガは痛む身体を引きずりながら木造小屋へ戻ると、そのままベッドへ倒れ込んだ。
握っていた五枚の銅貨が指の間からこぼれ落ち、古びた床板の上で鈍い音を立てる。
(これっぽっちじゃ、半日分の生活費にもならない……)
屋根に走る亀裂を見つめていると、遠くの闘技場から歓声が聞こえてきたような気がした。
腹部の傷は、今も脈打つように痛んでいる。
だが、それ以上に苦しかったのは、何もできないという深い無力感だった。
それから二日が過ぎた。
小屋に残っていた最後の黒パンも食べ尽くし、空腹に耐えられなくなったアーガは、再び食料を買うために外へ出た。
◇ ◇ ◇
市場へ足を踏み入れた瞬間、激しい喧騒が押し寄せてきた。
空気には焼き肉と異国の香辛料の匂いが入り混じっている。
アーガがパン屋の露店へ向かおうとしたとき。
道の脇に並ぶ鉄製の檻が目に入った。
一つの檻には、三人の獣人奴隷が閉じ込められている。
彼らには狼のような耳と尾があり、金色の瞳が暗闇の中で光っていた。
セント・ローランやフラン城ではめったに見かけない種族だ。
だが、この赤骸城では、その多くが商品として売られているらしい。
「お客様、奴隷にご興味がおありですか?」
突然、脂ぎった顔の商人が近づいてきた。
アーガは反射的に半歩下がる。
しかし、背中が別の鉄檻へぶつかった。
ガチャリと鎖が鳴る。
振り返ったアーガは、宝石のように鮮やかな翠色の瞳と目が合った。
幼い猫族の少女だった。
首には棘のついた首輪をはめられ、警戒と絶望の入り混じった目でアーガを睨んでいる。
「尊き剣闘士様!」
痩せた顔の商人が再び近づいてきた。
綺麗に切りそろえられた短い髭の隙間から、金歯が冷たく光っている。
「入荷したばかりの商品をご覧になりませんか?」
「見るだけなら無料です。気に入らなければ、そのままお帰りいただいて構いませんよ」
商人は、まるで古い書物を開くかのような優雅な動作で、檻を覆っていた布を持ち上げた。
手入れの行き届いた指先が鉄格子を叩き、澄んだ音を立てる。
青白い顔だけを見れば、没落した貴族にも見えた。
だが、その目の奥には、腐肉の匂いを嗅ぎつけた禿鷹のような貪欲な光が宿っている。
アーガは断り切れず、少し見るだけならと中へ入ることにした。
奥へ進むと、そこには数十もの鉄檻が並んでいた。
錆びた鉄鉤で油布が勢いよく引き剥がされる。
だが、奴隷市場にありがちな腐敗臭はほとんど感じられなかった。
床や檻の周囲も、意外なほど綺麗に掃除されている。
「随分と清潔なんだな」
アーガが何気なく言った。
「もちろんでございます」
商人は後ろをついて歩きながら、両手を揉み合わせる。
「貴族の方々とも頻繁に取引いたしますからね」
「ここにいる奴隷の大半は、闘技場から流れてきた者たちです」
「身体は丈夫ですし、どのようにお使いになっても構いません」
アーガは、その言葉を聞き流した。
奴隷を買うほど金に余裕はない。
そもそも、奴隷を必要ともしていなかった。
適当に一周したら帰ろうと思っていた。
しかし、檻が並ぶ通路の最奥まで来たとき。
アーガの視線が、隅にいる一人の少女へ吸い寄せられた。
金髪の少女が、黴の生えた藁の上で身体を丸めていた。
その姿は、引き裂かれた月光のようだった。
深い青色の瞳には、蜘蛛の巣のような灰色の濁りが広がっている。
首には長年つけられていたと思われる太い鉄鎖が巻かれていた。
傷口からにじみ出た血が光を帯び、鎖骨を伝って破れた服の中へ流れ込んでいる。
アーガが少女を見つめていることに気づき、商人が鉄鉤の先で彼女の顎を持ち上げた。
乱れた金髪の間で、暗赤色の光が一瞬だけ揺らめく。
病的に青白い唇が、かすかに開いた。
少女が吐き出した冷気が、鉄格子へ触れて霜の花を作る。
その深青色の瞳と目が合った瞬間。
アーガは、学院でリサから聞いた話を思い出した。
リサには、同い年の妹がいる。
鉄鉤が少女の白い肌へ食い込み、小さなくぼみを作った。
髪の間に浮かぶ暗赤色の光を見つめながら、アーガの瞳孔が大きく縮む。
(金髪に、深い青色の瞳……)
(ベルマン家の血筋である可能性が高い)
だが、確信はない。
(どうする……?)
(別人だったら、大損だぞ)
(それに、見るからに高そうだ……)
「八金貨です」
商人が突然、三本の指を立てた。
「八金貨!?」
アーガは思わず声を上げた。
「冗談だろ?」
「こんなに衰弱して、もう死にかけているじゃないか!」
商人の金歯が、朝日を受けて毒蛇の牙のように光った。
「この娘の素性は、私にも分かりません」
「ですが、どこかの貴族の娘だったという話です」
「八金貨なら、十分に妥当な価格でしょう」
アーガは商人を無視し、檻の中の少女へ顔を向けた。
「おい。名前は?」
「う……」
少女の身体が小さく震えた。
「リナ……」
弱々しい声で答える。
「姓は……分からない……」
アーガは鼻で笑った。
檻の近くへ身をかがめる。
「この姿のどこが貴族なんだ?」
商人へ聞こえるよう、わざと大きな声で言う。
「どこの家の人間かも分からないんだろう?」
「それじゃ、本当に貴族なのかどうか確認する方法もない」
アーガは少女の手首につながれた鎖を、わざと引っ張った。
金属音に驚き、檻の上にいた腐肉を食らう烏が翼を広げる。
「こんな死にかけの商品を、一番奥へ隠していた」
「どうせ一か月も持たないんじゃないか?」
商人の綺麗に整えられた髭が、かすかに震えた。
右の瞼が、三度目の痙攣を起こす。
アーガは腰の革袋へ手を伸ばした。
「一金貨だ」
「飾り物を買うつもりで引き取ってやる」
「六金貨!」
商人が突然、アーガの腕をつかんだ。
手入れされた爪が、昨夜、砂嵐の傀儡によって裂かれた傷口へ食い込みかける。
「この小娘が運び込まれたとき、氷蚕糸の下着を身につけていたんだ!」
「隠し袋には、さらに――」
檻の中から、陶器が砕けるような咳が聞こえた。
リナが吐いた血が、藁の上で氷の結晶へ変わっていく。
アーガは、その口元に一瞬だけ浮かんだ嘲笑を見逃さなかった。
「二金貨」
アーガは商人の手を振り払った。
そして革袋を逆さにし、二枚の金貨を地面へ落とす。
「今すぐ治療を始めても、大金がかかる」
「治る保証もない」
「今ここで二金貨を受け取るか、一か月後に死体を片づけるか」
靴の踵で、藁のそばにできた氷の結晶を踏み砕く。
甲高い破砕音が鳴り、商人は驚いて金歯で舌を噛んだ。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、商人は不満そうに答える。
「……分かりました。成立です」
嫌々ながらも、商人は檻を開け、リナを乱暴に引きずり出した。
「この忌々しい小娘が……ようやく売れたか」
「これで」
アーガは商人から鍵を受け取り、魔力封じの枷を外した。
その瞬間。
少女の手首に浮かぶ氷晶のような紋様が、一度だけ光り、すぐに消えた。
アーガは商人を見た。
「彼女は俺のものだ」
商人は奴隷契約書と、魔力封じの枷の鍵をアーガへ渡した。
「契約書へ署名すれば、この娘はあなたを攻撃できなくなります」
「安心して、好きなようにお使いください」
アーガは二枚の金貨を数え、奴隷商人へ手渡した。
◇ ◇ ◇
毒気の漂う路地を歩く帰り道。
リナの呼吸は、霜が張った蜘蛛の糸のように細かった。
「どうして……」
一言話すたび、激しく咳き込む。
外套の内側へ吐き出された血が、氷の花となって固まった。
「どうして、私を買ったの……?」
アーガは問い返した。
「本当の名前は何なんだ?」
「本当に、姓を覚えていないのか?」
「わ……分からない……」
リナの声は、次第に小さくなっていった。
「大丈夫だ」
アーガは背中を優しく叩いた。
「必ず治してやる」
「うっ……うぅ……」
リナの目から涙がこぼれ始めた。
「今年、何歳なんだ?」
アーガの声が柔らかくなる。
「姉がいたりしないか?」
「たぶん……十歳……」
リナは少しだけ落ち着きを取り戻した。
「小さい頃に……姉がいた気がする……」
「でも、よく覚えてない……」
ここまで聞けば十分だった。
目の前にいる少女がリサの妹である可能性は、九割を超えている。
二人は、やがてアーガの小屋へ到着した。
それからアーガは、できる限りのことをしてリナの世話をした。
◇ ◇ ◇
赤骸城の夜明けは、いつも血の匂いとともに訪れる。
アーガは重い瞼を開いた。
最初にしたのは、ベッドの反対側へ手を伸ばすことだった。
リナの額は、まだ焼けるように熱い。
だが、昨夜感じた恐ろしいほどの低温よりは、いくらかましになっている。
アーガは少女の貴重な眠りを妨げないよう、静かに身体を起こした。
「ごほっ……アーガ様……?」
蚊の鳴くような細い声が聞こえた。
リナの深青色の瞳が、朝の光を受けて病的に潤んでいる。
「もう少し眠ってろ」
アーガは古びた毛布を、少女の肩までかけ直した。
「市場へ行って、薬を買ってくる」
扉を開く。
赤骸城特有の腐った空気が、正面から押し寄せてきた。
アーガは無意識に腰へ触れる。
金貨は、まだ十数枚残っていた。
外套を身体へ巻きつける。
干からびた人間の頭が吊るされた路地を抜け、東区にある闇市へ向かって歩き始めた。




