第77話 闘技場
アーガが最後の市場を通り抜けると、さまざまな匂いが一気に押し寄せてきた。
焼きたてのパンの香り。
干し肉の濃い匂い。
そして、その奥に混じる魔獣の革特有の生臭さ。
露店は粗い木材と獣の骨を組み合わせて作られ、軒先には乾燥させた薬草や燻製肉が吊るされていた。
片腕を失った老人が、鉄板の上で砂サソリを焼いている。
高温で炙られた甲殻は、食欲をそそる赤金色へ変わっていた。
香辛料を振りかけると、不思議なことに焼いた海老のような香りが漂ってくる。
「生きた人間への賭けだ!」
「できたての賭け札はいらないか!」
小人の商人が、仲間の肩へ乗って声を張り上げていた。
手には血のついた賭け札を何枚も握っている。
「次の試合は、貴族の旦那様方が大好きな《挽き肉の宴》だ!」
アーガは地面へ広がった血だまりを避けながら進んだ。
そのとき、鱗を売る商人が正面へ立ちはだかる。
「坊主、鎧はいらないか?」
商人が外套を開く。
胸には、紫色の鱗が何枚も埋め込まれていた。
「昨日も一人、この鱗のおかげでロックの必殺の一撃を防いだんだぞ」
アーガは何も答えず、その横を通り抜けた。
最後に現れたのは、人間の皮で作られた灯籠が吊るされた大きな門だった。
その門をくぐった瞬間。
血髑髏闘技場の全貌が、アーガの前へ姿を現す。
巨大な黒曜石の城壁。
その表面には、深さの異なる無数の亀裂が走っていた。
裂け目の一つ一つには、砕かれた骨が詰め込まれている。
正門の上には、精鉄で作られた巨大な門がそびえていた。
そこへ埋め込まれた血晶石が、強い日差しを受けて真紅に輝いている。
まるで巨大な血管の中を、本物の血が流れているようだった。
直後。
闘技場の中から、凄まじい歓声が爆発した。
アーガは鉄格子越しに、中央の砂場を覗き込む。
そこでは、岩のような巨体を持つ男が、敗者の背骨を鞭のように振り回していた。
骨が地面を打つたび、血と砂が激しく飛び散る。
観客席は階段状に何層も重なり、上へ向かって渦を巻くように広がっていた。
最上層の金箔で飾られた特別席では、ハロルド商人団の副団長が翡翠の義眼で試合を眺めている。
その手は休むことなく、賭け口へ大量の金貨を流し込んでいた。
「次の生贄!」
審判の怒鳴り声が、魔法の拡声器によって闘技場全体へ響き渡る。
「王都から来た親殺し!」
「対するは、我らが《背骨収集家》ロック!」
「倍率は一対五十だ!」
受付台の前に立ったアーガは、喉が締めつけられるのを感じた。
受付の男は顔も上げず、一枚の木札を投げてよこす。
そこには《264》という数字が刻まれていた。
「名前は登録しないのか?」
アーガが尋ねる。
受付の男は鼻で笑った。
ようやく顔を上げ、アーガを値踏みするように眺める。
「名前?」
「三試合生き残って、どこかの貴族様に目をつけられてから聞きに来い」
数人の衛兵が近づき、アーガの背中を押した。
そのまま準備区域へ連れていかれる。
薄暗い通路を進む。
周囲の石壁は湿っており、触れなくても冷たさが伝わってきた。
頭上の小さな鉄窓から、細い光が何本か差し込んでいる。
だが、その光は周囲の陰鬱さを、かえって強めているだけだった。
準備区域には、さまざまな武器が棚へ整然と並べられていた。
刀身が冷たい光を反射している。
周囲では、多くの剣闘士が立ったり座ったりしていた。
刃を研ぐ者。
身体をほぐす者。
黙って目を閉じている者。
誰の瞳にも、獣のような凶暴さが浮かんでいた。
アーガは隅へ座り、鉄窓越しに試合を眺めた。
ロックは砂場の中央に立っていた。
鍛え上げられた大きな身体。
全身の筋肉は、はっきりと盛り上がっている。
短く切られた髪は、日差しを受けて茶色く輝いていた。
顔には傷痕一つない。
むしろ若者らしい爽やかささえ感じられる。
闘技場にいなければ、ごく普通の戦士に見えただろう。
「三十一連勝!」
「ロック! ロック!」
観客席から、狂ったような歓声が上がった。
次の対戦相手は、顔に分厚い肉をつけた連続殺人犯だった。
両手には、刃が鋸状になった短剣を一本ずつ握っている。
試合開始の合図が鳴る。
だが、勝負は一瞬だった。
ロックが身体を滑らせるように前へ出る。
肘打ち。
膝蹴り。
すべての動きに無駄がなかった。
わずか数手で相手を地面へ倒す。
最後は胸へ強烈な蹴りを叩き込んだ。
鈍い音とともに肋骨が砕ける。
男の口から血と内臓が噴き出し、その場で動かなくなった。
アーガの胃が大きくひっくり返った。
「新入りか?」
背後から低い声が聞こえた。
振り返る。
身長が二メートル近くある大男が、壁へ寄りかかって腕を組んでいた。
「ずいぶん小さいな」
「俺……十歳……」
アーガの声は小さかった。
先ほどの光景に、明らかに怯えている。
大男は砂場へ視線を向けた。
「あいつはロックだ」
「一年前にここへ来て、今では上位二十人に入っている」
アーガは唾を飲み込んだ。
「上位二十人……?」
大男が口元を歪める。
「闘技場の上位二十人は、全員化け物だ」
「お前みたいなのが出れば、ただ殺されるだけだぞ」
「それなら、上位の人たちはどのくらいの階級なんだ?」
アーガは続けて尋ねた。
「だいたい遊侠級だな」
大男はどうでもよさそうに答えた。
「え?」
アーガは目を見開く。
「一番強い人たちでも、遊侠級なのか?」
「全員が学院へ通ったことがあるわけじゃない」
大男は冷たく言った。
「階級が低いのは珍しくないし、大きな目標を持っていない奴も多い」
一度言葉を切る。
「それに、知らない方がいいこともある」
そう言い残し、大男はどこかへ歩いていった。
アーガが返事をするより早く。
場内放送が響いた。
「264番!」
「対戦相手――ロック!」
アーガは手の中の木札を見た。
そこには、確かに264と刻まれている。
心臓が止まりかけた。
(相手が……ロック?)
慌てて立ち上がる。
手当たり次第に簡素な鎧を身につけた。
棚から短剣を一本取る。
だが、汗で濡れた手の中で、柄が何度も滑った。
闘技場へ足を踏み入れた瞬間。
強い陽射しが目へ突き刺さった。
アーガは思わず目を細める。
足元の砂は焼けるように熱い。
四方から押し寄せる歓声が、耳を壊しそうなほど大きかった。
正面に立つロックが、不思議そうに首を傾ける。
「子供?」
アーガは短剣を強く握った。
指の関節が白くなる。
「お、俺を……甘く見るな!」
地面を蹴り、ロックへ向かって突進する。
短剣を振り上げ、その肩へ斬りつけた。
だが、ロックは避けようともしなかった。
片手を握り、一発の拳を放つ。
拳が短剣へぶつかった。
甲高い音とともに、刃が粉々に砕け散る。
アーガが状況を理解するより早く、ロックの足が腹部へ突き刺さった。
バキッ――!
簡素な鎧が割れる。
強烈な衝撃を受け、アーガの身体が大きく吹き飛んだ。
地面へ激しく叩きつけられる。
「がはっ……!」
口から血を吐いた。
視界が黒く揺れる。
ロックがゆっくりと近づいてきた。
地面へ倒れたアーガを、上から見下ろす。
「お前みたいなのは、鉱山へ行った方がいい」
淡々とした声だった。
「まだ若いんだ。わざわざ死にに来るな」
少し間を置く。
「相手が俺じゃなければ、今日ここで死ぬか、身体が動かなくなっていたぞ」
「俺は、まだ……」
アーガは震える腕で身体を起こそうとした。
「倒れてない……」
近くに落ちていた石をつかみ、ロックへ投げつける。
次の瞬間。
ロックの姿が消えた。
代わりに、投げたはずの石がロックのいた場所へ落ちる。
「え……?」
ロックは、すでにアーガの目の前へ立っていた。
すぐさま蹴りを放つ。
アーガの身体が再び地面を転がった。
(瞬間移動?)
(違う……)
(投げた石と、自分の位置を入れ替えたのか?)
ロックは冷たい目でアーガを見下ろす。
「お前、最低階級の見習い級下位にさえ届いていないだろう」
「俺は遊侠級中位だ」
口元に、わずかな苛立ちが浮かぶ。
「俺を甘く見るな」
アーガはもう一度立ち上がろうとした。
だが、全身を貫く激痛によって、意識が急速に遠ざかっていく。
最後に覚えていたのは。
誰かに足をつかまれ、砂場の外へ引きずられていく感覚。
そして、観客席から浴びせられる大量の罵声だった。
◇ ◇ ◇
治療室には、鼻を刺すような薬品の匂いが充満していた。
質の悪い薬液が、傷口へ直接かけられる。
「ぐっ……!」
激痛に、アーガの全身が震えた。
包帯も雑に巻かれただけだった。
最低限の治療が終わると、すぐに闘技場の裏口から放り出される。
「ほら、報酬だ」
衛兵が五枚の銅貨を投げた。
硬貨は地面の上を何度か転がる。
アーガは這うように近づき、手を伸ばした。
その瞬間。
衛兵の靴が、アーガの指を踏みつけた。
骨が軋む、嫌な音が響く。
「あああっ!」
アーガが悲鳴を上げた。
衛兵は楽しそうに笑う。
「坊主、次もちゃんと来いよ」
「こんな小さな子供が闘技場へ出るなんて、聞いたこともない」
「さっきの試合は、なかなか盛り上がっていたぞ」
アーガの指を踏んだまま、しゃがみ込む。
「次も来るなら、相手に少し手加減させてやる」
さらに五枚の銅貨を取り出した。
アーガの目の前で、見せつけるように揺らす。
「今ここで、頭を三回地面へ打ちつけろ」
「そうすれば、この五枚もくれてやる。どうだ?」
アーガは顔を上げた。
憎しみを込めて、衛兵を睨みつける。
「……夢でも見てろ」
衛兵の笑みが消えた。
直後、アーガの脇腹へ強烈な蹴りが入る。
「身の程を知らない餓鬼が!」
痛みに耐えきれず、アーガは身体を丸めた。
それでも、助けを求めることはなかった。
歯を食いしばり、声を押し殺す。
衛兵はしばらく罵声を浴びせたあと、その場を離れていった。
残されたのは、地面へ散らばった五枚の銅貨だけだった。
アーガは苦労しながら這い進んだ。
一枚。
また一枚。
ゆっくりと銅貨を拾い集める。
身体を動かすたび、傷口が炎で焼かれているように痛んだ。
それでも、すべて拾い終える。
地面へ手をつき、何度もふらつきながら立ち上がった。
そして、傷だらけの身体を引きずり、一歩ずつ住居区へ向かって歩き始める。
夕日が、アーガの影を長く伸ばしていた。
血と砂が混ざり合い、囚人服へべったりと張りついている。
アーガは五枚の銅貨を、手の中で強く握り締めた。
指の関節が、白くなるほどに。




