第72話 新たな陰謀
早朝。
ラインハルト家の屋敷の門前には、すでに二台の馬車が用意されていた。
アルドリックは濃い灰色の旅用外套を羽織り、階段の上に立つ執事へ小さくうなずく。
「留守の間、屋敷のことは任せた」
執事は恭しく一礼した。
「ご安心ください。すべて滞りなく整えておきます」
アイランは動きやすい旅装に身を包み、手には精巧な籐籠を提げていた。
中には、道中で食べるための菓子や軽食が詰められている。
彼女は三人の息子を振り返り、柔らかく笑った。
「みんな、準備はできた? 忘れ物はないでしょうね」
アーガは腰に下げた画材袋を軽く叩いた。
「大丈夫。大事な物は全部持ったよ」
ノエルは小さな手帳を確認している。
そこには鉱石の価格や王都の相場がびっしりと書き込まれており、今回の取引へかなり力を入れていることが分かった。
ヴィエンは少し離れた場所で腕を組み、余裕のある表情を浮かべている。
「王都の道なら俺が知ってる。迷うことはないさ」
ラスティとウムも、すでに馬車のそばで待機していた。
「それでは、出発するぞ」
アルドリックが片手を上げた。
七人は二台の馬車へ分かれて乗り込んだ。
先頭の馬車には、アルドリックとアイラン、それに護衛が一人。
後ろの馬車には、アーガ、ノエル、ヴィエンと、もう一人の護衛が乗る。
車輪が小石の多い道を踏み、かすかな軋みを立てた。
ラインハルト家の屋敷は次第に遠ざかり、代わりに広大な畑と、遠くに連なる山々が視界へ広がっていった。
◇ ◇ ◇
馬車は街道を穏やかに進んでいく。
初夏の風が、青草と野花の香りを運びながら窓から入り込んだ。
アーガは窓辺へ身体を預け、外を流れていく景色を眺めていた。
黄金色の麦畑が、風を受けて波のように揺れている。
遠くでは羊飼いが長い鞭を振り、白い雲のような羊の群れがゆっくりと移動していた。
「そういえばさ」
ノエルが突然口を開いた。
手にした帳簿をめくりながら尋ねる。
「今回取引する鉱石って、何なんだ?」
ヴィエンが答えた。
「主に火晶石と寒鉄鉱だ。どちらもかなり品質がいいらしい」
「火晶石?」
アーガが片方の眉を上げる。
「魔法道具を作るときによく使う素材だよな?」
「ああ」
ヴィエンはうなずいた。
「王都の魔法工房では、かなり需要がある」
ノエルは考えるように顎へ手を当てた。
「それなら、値段も期待できそうだな……」
アーガが笑う。
「兄さん、本気で商人へ転職するつもりなのか?」
ノエルは鼻を鳴らした。
「将来のことは考えておかないとな」
「俺はお前や兄さんとは違うんだ。一人は才能に恵まれていて、もう一人は……」
そこで言葉を止める。
自分が何を言おうとしたのかに気づいたのだろう。
慌てたように言い直した。
「……いろんな才能を持っているからな」
アーガは、ノエルが本当は何を言おうとしたのか分かっていた。
それでも気にした様子はなく、肩をすくめる。
「商人も悪くないさ。少なくとも、剣を持って殺し合う必要はない」
ノエルは一度だけアーガを見た。
それ以上、何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
正午。
二台の馬車は、開けた林のそばへ停車した。
アイランが籠からパン、チーズ、燻製肉を取り出す。
一行は木陰へ集まり、簡単な昼食を取ることにした。
ヴィエンはパンを一口かじり、口に物を入れたまま言った。
「この調子なら、日が暮れる前には王都へ着けそうだな」
アルドリックは水を一口飲んだ。
「急ぐ必要はない」
淡々と続ける。
「安全が最優先だ」
しばらく休憩したあと、一行は再び出発した。
午後の道は、午前中よりも平坦だった。
街道の両側に広がる景色も、広大な畑から小さな村々へ少しずつ変わっていく。
時折、商隊や旅人とすれ違った。
馬につけられた鈴の音が、澄んだ音色を残しながら遠ざかっていく。
アーガは窓辺へ寄りかかっていた。
揺れる馬車の心地よさに身を任せているうちに、いつの間にか眠りへ落ちていた。
穏やかに眠るアーガを見て、ラスティは嬉しそうに表情を緩めた。
隣にいるウムへ顔を寄せ、小声で何かを話し始める。
◇ ◇ ◇
アーガが目を覚ました頃には、太陽はすでに西へ傾いていた。
空は鮮やかな橙色に染まっている。
窓の向こうに、王都の輪郭が少しずつ姿を現した。
高くそびえる城壁。
先端の尖った時計塔。
そして、王都を象徴する銀白色の王宮の丸屋根。
それらが夕暮れの中で眩しく輝いていた。
「着いたぞ」
ノエルがアーガの肩を軽く押した。
半年が過ぎ、王都はすでに以前の繁栄を取り戻していた。
大通りには明かりが灯り、大勢の人々が行き交っている。
酒場からは陽気な歌声が聞こえ、商店の窓には色とりどりの商品が並べられていた。
戦争の影など、住民たちはすでに忘れてしまったように見える。
ただ、時折通り過ぎる武装した巡回兵だけが、この街で何が起きたのかを思い出させた。
「ずいぶん変わったな……」
アーガが小さく呟く。
ヴィエンは笑った。
「王都の復旧は、昔から速いからな」
アルドリックの指示で、馬車は『銀の樫亭』という宿の前へ停車した。
中規模ほどの宿で、建物は清潔に整えられている。
入り口には銅製の風鈴が吊るされ、風を受けて澄んだ音を鳴らしていた。
「今夜はここで休む」
アルドリックは馬車から降り、宿の主人へ軽くうなずいた。
主人は丸顔の中年男性だった。
人懐っこい笑みを浮かべ、一行を迎える。
「いらっしゃいませ! お部屋はいくつご用意いたしましょう?」
「二部屋だ」
アルドリックが簡潔に答えた。
◇ ◇ ◇
荷物を置いたあと、一行は宿の食堂で簡単な夕食を取った。
アイランは長旅で疲れたのか、早々に部屋へ戻った。
アルドリックはウムと一緒に、翌日の取引内容を確認するため外へ出ている。
部屋には、三兄弟だけが残された。
アーガは窓を開けた。
王都特有の喧騒と、人々の生活の匂いを乗せた夜風が、一気に室内へ入り込んでくる。
空には丸い月が浮かび、銀白色の光を地上へ降り注いでいた。
「そういえば」
アーガが何気なく尋ねる。
「明日は誰と取引するんだっけ?」
荷物を整理していたヴィエンが、顔を上げずに答えた。
「グルバート家だ」
「グルバート?」
アーガは目を瞬かせた。
「あそこって新聞社じゃなかったか? 鉱石なんて何に使うんだ?」
ノエルが肩をすくめる。
「さあな。新しい事業でも始めたんじゃないか?」
ヴィエンは笑った。
「グルバート家が持っている事業は新聞社だけじゃないぞ」
「最近は魔法工房へ投資しているらしい。だから大量の鉱石が必要なんだろう」
「なるほどな」
アーガは考えるようにうなずいた。
それ以上は深く尋ねなかった。
そのとき。
ドンドンドン――!
激しく扉を叩く音が、アーガの思考を遮った。
「誰だ?」
眉を寄せながら立ち上がる。
扉を開くと、そこにはアーガと同じくらいの年齢に見える少女が立っていた。
淡い紫色のドレス。
緩く波打つ栗色の長髪。
琥珀色の瞳が、廊下の蝋燭を受けて明るく輝いている。
「あなたが……アーガ・ラインハルト様ですか?」
少女は少し緊張した様子で尋ねた。
アーガはうなずく。
「そうだけど。君は?」
少女の表情が一気に明るくなった。
嬉しそうに両手を合わせる。
「やっぱり!」
「以前、グルバート家で起きた暗殺事件のときに、あなたをお見かけしたんです!」
胸元へ片手を当てる。
「あのとき会場にいた貴族、メルセン家の娘です。覚えていらっしゃいますか?」
アーガは何度か瞬きをした。
記憶を探ってみる。
あのとき、大勢の貴族が会場にいたことは覚えていた。
しかし、目の前の少女についてはほとんど思い出せない。
「ええと……たぶん覚えてるよ」
気まずそうに笑う。
少女は、彼の曖昧な返事をまったく気にしていないようだった。
背中に隠していた精巧な布包みを取り出し、両手で差し出す。
「こちらを受け取ってください!」
「私のお小遣いで買った物です。あの事件以来、ずっとあなたに憧れていました!」
アーガは慌てて両手を振った。
「いや、受け取れないよ。そこまでしてもらう理由は――」
「駄目です! 絶対に受け取ってください!」
少女は強引に布包みをアーガの胸へ押しつけた。
そして、返される前に廊下を走っていく。
途中で一度だけ振り返り、大きく手を振った。
「それでは、おやすみなさい!」
アーガは扉の前へ立ち尽くした。
手に残された包みを見下ろし、困ったようにため息をつく。
「ずいぶん熱心な子だな……」
扉を閉め、包みを開いた。
中に入っていたのは、いくつかの菓子と一本の水だった。
どれも、街角の店で売られているような普通の物に見える。
アーガは何気なく焼き菓子を一枚取り出し、一口かじった。
味も特別なものではない。
続けて水を一口飲む。
少し甘く、冷たくて飲みやすかった。
だが、それ以外に変わったところは感じられなかった。
◇ ◇ ◇
夜が更けるにつれ、宿の廊下も静かになっていった。
アーガはベッドへ横になっていたが、何度寝返りを打っても眠ることができない。
窓の外では、月明かりが王都の屋根へ降り注いでいる。
銀色の光は、水のように静かだった。
結局、アーガは身体を起こした。
物音を立てないように外套を羽織り、そっと部屋の扉を開ける。
「アーガ様!」
背後から声をかけられた。
「うわっ、ラスティ!」
アーガは驚いて振り返る。
「どうしてここに?」
ラスティは真剣な表情でアーガを見た。
「覚えていらっしゃいますか?」
「三年半前、私たちが初めてこの王都へ来たときのことです」
「夜にアーガ様をきちんとお守りできず、誘拐される結果になってしまいました」
アーガは気まずそうに笑った。
「今回は大丈夫だって」
「駄目です!」
ラスティは即座に言い切った。
その表情はとても真剣だった。
しかし、小柄な身体で必死に言い張る姿は、どこか可愛らしくも見える。
アーガはしばらく見つめたあと、諦めたように両手を上げた。
「分かったよ」
小さく笑う。
「それなら、一緒に少し歩こう」
◇ ◇ ◇
王都の通りには、ほとんど人の姿がなかった。
道端に立つ数本の街灯だけが、寂しそうに周囲を照らしている。
夜風は少し冷たかった。
アーガは特に目的もなく、ラスティと並んで歩いた。
しばらく進むうちに、気づけば学院の近くまで来ていた。
学院は一週間の短期休暇に入っている。
そのため、周囲は静まり返っていた。
校舎の集まりが、月明かりの下で寂しげに佇んでいる。
半年前の襲撃による傷跡は、すでにほとんど修復されていた。
中央校舎は以前より少し低くなっている。
それでも外壁は真新しく、窓も綺麗に磨かれていた。
復旧作業が順調に進んだことが分かる。
「本当に早く直ったな……」
アーガは小さく感嘆した。
ラスティもうなずく。
「そうですね。襲撃を受けたなんて、ほとんど分からないくらいです」
そのとき。
遠くから、慌ただしい足音が聞こえてきた。
アーガは警戒し、素早く振り返る。
見覚えのある人影が、こちらへ向かって全力で走ってきていた。
「ロイス?」
ロイスは息を切らしながら、アーガの前まで駆けてきた。
顔は真っ青だった。
額には大量の冷や汗が浮かんでいる。
彼はアーガの腕を強くつかむと、周囲に聞こえないよう声を落とした。
「逃げろ!」
「家族を連れて、今すぐ王都から出るんだ!」
アーガとラスティは、思わず顔を見合わせた。
アーガが尋ねる。
「いったい何があったんだ?」
ロイスはすぐには答えなかった。
鋭い目で周囲を見渡し、誰にも尾行されていないことを確認する。
それからアーガを引っ張り、近くの暗い路地へ連れ込んだ。
ラスティもすぐに二人のあとを追う。
ロイスの呼吸は、まだ激しく乱れていた。
その声にも、はっきりとした震えが混じっている。
「今夜……誰かが君を訪ねてこなかったか?」
「何か食べ物や飲み物を渡されたはずだ」
アーガはうなずいた。
「ああ。メルセン家の娘だと名乗る子が来た」
「菓子と水をもらったけど、それがどうした?」
ロイスの瞳孔が大きく縮んだ。
「あれはメルセン家の娘なんかじゃない!」
鋭い声で続ける。
「グルバート家の人間だ!」
「連中の目的は、君を夜中に宿から外へ出させることだったんだ!」
「何だって?」
アーガは訳が分からず、眉を寄せた。
「食べ物を渡すことと、俺が夜に外へ出ることに、何の関係があるんだ?」
「説明している時間はない!」
ロイスはアーガの手首を強くつかんだ。
「先に逃げるぞ!」
暗い路地の奥へ向かって走り出す。
「詳しいことは、道中で話す!」




