第71話 半年後
「どう考えても、私の方が仕掛けるタイミングを正確に見極めていたでしょう!」
リサは両手を腰へ当て、窓を見上げながら言い返した。
朝日が彼女の全身を縁取るように、金色の光をまとわせている。
アーガは窓枠へ身体を預けたまま、久しぶりに手足の先まで生気が戻ってくるような感覚を覚えた。
「いや、俺がコニーを止めたから、お前がマールまで行けたんだろ」
「その前に、私がコニーの鱗へ傷をつけていたからでしょう?」
「最後に傷口へ攻撃したのは俺だ」
「最初の傷がなければ、あなたの炎も効いていないわ」
二人は窓を挟み、いつまでも言い争った。
まるで学院の廊下で過ごしていた、何でもない朝へ戻ったかのようだった。
いつの間にか、庭の片隅にはアルドリックとアイランが立っていた。
二人は声をかけることなく、静かに息子たちのやり取りを見守っている。
アイランは目尻に浮かんだ涙を、誰にも気づかれないようそっと拭った。
アルドリックの厳しい顔にも、かすかな安堵の笑みが浮かんでいた。
窓越しの言い争いは、なかなか終わらなかった。
その間だけは、アーガも魔力を失った苦しみを忘れることができた。
リサもまた、アーガの痩せた頬や、深くくぼんだ目元には気づかないふりをしていた。
やがて太陽が高く昇った頃。
リサが突然、話題を変えた。
「明日も来るから」
アーガの笑みが固まる。
「……好きにすればいい」
「ええ。これからもずっと来るわ」
リサの声が、急に小さくなった。
「あなたが、その扉から自分の意思で出てくるまで」
アーガは答えなかった。
ただ黙って、ゆっくりと窓を閉めた。
◇ ◇ ◇
八日目の朝。
柔らかな陽射しが、ラインハルト家の庭へ降り注いでいた。
リサはいつものように門の前へ立った。
大きく息を吸い、アーガの名前を叫ぼうとする。
その瞬間。
目の前の門が、ゆっくりと開いた。
リサは驚いて動きを止める。
門の向こうに、アーガが立っていた。
身につけているのは簡素な普段着。
黒髪は少し乱れていたが、その目には数日前よりもはっきりとした光が戻っている。
「中に入って、少し座っていけよ」
アーガはため息をついた。
声はまだ少しかすれている。
リサは何度か瞬きをした。
言われたことを理解できていないようだった。
やがて、その口元がゆっくりと持ち上がる。
太陽のように明るい笑顔が浮かんだ。
「ええ」
二人は前後に並び、屋敷の客間へ入った。
アーガはリサへ椅子を勧めると、自分は茶を用意するために席を離れる。
温かな湯が茶器へ注がれた。
白い湯気がゆっくりと立ち上り、室内にほのかな茶葉の香りが広がる。
アーガはリサの前へ茶杯を置いた。
「……ありがとう」
低い声で告げる。
リサは茶杯を持ち上げた。
深い青色の瞳が、湯気の向こうからアーガを見つめる。
「何に対して?」
アーガはしばらく黙っていた。
視線を自分の茶杯へ落とす。
「毎日来てくれたこと」
声は小さかった。
そこには、まだ隠しきれない疲労がにじんでいる。
「俺はまだ……今の自分を受け入れられそうにないけど」
リサは茶杯を机へ戻した。
その表情が真剣なものへ変わる。
「何か私にできることがあるなら、遠慮せずに言って」
「私にできることなら、何だってするわ」
アーガは苦笑した。
「ありがとう。でも、もう十分助けてもらったよ」
「何度もありがとうって言わないで」
リサは不満そうに眉を寄せる。
「あなたは、私の代わりにあの毒を受けたのよ」
「お礼を言わなければならないのは、私の方でしょう?」
アーガは何も答えなかった。
ただ、口元をわずかに動かして笑った。
客間が静けさに包まれる。
茶杯から立ち上っていた湯気も、少しずつ薄くなっていった。
しばらくして、リサが尋ねる。
「もうすぐ新学期でしょう?」
「学院には行くの?」
アーガは首を横に振った。
声は落ち着いていた。
「行かない。退学するつもりだ」
「え?」
リサが勢いよく顔を上げる。
瞳には、驚きがあふれていた。
「どうして?」
「ちゃんと考えた上で決めたことだ」
アーガの声は静かだった。
しかし、その決意は揺らいでいない。
「今の俺は、一年生より弱い」
「学院へ戻ったところで、惨めな思いをするだけだ」
リサは口を開いた。
何か言い返そうとしたのだろう。
だが、最後には言葉を飲み込み、小さな声で尋ねた。
「それなら……これから、どうするの?」
「何か興味を持てることを探すよ」
アーガは肩をすくめ、わざと軽い調子で答えた。
「いろいろ試してみる」
リサは数秒間、じっと彼の顔を見つめていた。
やがて突然、椅子から立ち上がる。
「私も、もうすぐここを離れるわ」
アーガが目を瞬かせた。
「どういうことだ?」
「西部国境で、すでに戦争の準備が始まっているの」
リサの声は冷静で、固い決意に満ちていた。
「凛冬王国があんなことをした以上、私たちも黙っているわけにはいかない」
「ベルマン家も、王家を代表して戦いへ参加する」
一度言葉を切る。
「私も学院を卒業したら、前線へ行くわ」
「何だって?」
アーガは勢いよく立ち上がった。
眉を強く寄せる。
「もう戦争の準備が始まったのか?」
すぐに首を振る。
「いや、問題はそこじゃない。お前も前線へ行くつもりなのか?」
「危険すぎるだろ!」
リサは無意識に服の裾を握り締めた。
指の関節が白くなる。
「母はもう説得したわ」
声が低くなった。
押し殺した怒りが、その奥で燃えている。
「私は、あの人たちを絶対に許さない」
アーガは、頑なな横顔を見つめた。
どれだけ言葉を重ねても、彼女の決意は変わらないだろう。
最後には深く息を吐いた。
「……そうか」
リサは息を整え、客間の出口へ向かう。
「少し元気になった姿を見られて、安心したわ」
扉の前で立ち止まる。
振り返り、念を押すように言った。
「絶対に、馬鹿なことはしないで」
アーガは小さく笑う。
「分かってる」
リサは屋敷を出ていった。
陽射しが金色の髪を、眩しいほど明るく染めている。
アーガはその場に立ったまま、彼女の背中を見送り続けた。
姿が完全に見えなくなってから、ゆっくりと扉を閉める。
客間には再び静寂が戻った。
机の上に置かれた茶杯には、わずかな温もりだけが残っていた。
◇ ◇ ◇
その後の半年間。
アーガの生活は、少しずつ穏やかなものへ変わっていった。
魔力を取り戻すことだけに執着するのをやめ、新しい興味へ時間を使うようになった。
朝日が窓から部屋へ差し込む頃。
アーガは画架を立て、筆を手に取った。
白い画布へ、少しずつ色を重ねていく。
時には、前世で見た偉大な画家たちの作品を思い出した。
ゴッホが描いた、燃えるような星空。
モネの、霧に包まれたような睡蓮。
記憶を頼りに少しだけ模倣しながら、自分の目に映る世界を画布へ描いた。
部屋の中には、絵の具の匂いが満ちている。
指先も色とりどりに汚れていた。
それでもアーガは、剣を握っていた頃よりも自由になれたような気がしていた。
午後になると、ピアノの前へ座った。
最初は教師を一人招き、基本的な指の使い方から学んだ。
しかし、しばらくすると、前世の記憶に眠っていた旋律が少しずつよみがえってきた。
ベートーヴェンの『月光』。
ショパンの『夜想曲』。
指が鍵盤の上を滑るたび、音が清らかな水のように流れ出す。
アルドリックは時折、扉の外へ立って黙って演奏を聞いていた。
アイランは曲が終わると、いつも静かに拍手した。
「あなたに、こんな才能があったなんてね」
嬉しそうに微笑む。
アーガは笑うだけで、理由を説明することはなかった。
そうして、一日、また一日と過ぎていった。
◇ ◇ ◇
半年後。
学院に一週間の短い休暇が訪れた。
「ただいま!」
旅の埃をまとったノエルが、勢いよく屋敷の扉を開いた。
ピアノの前に座っていたアーガが顔を上げる。
口元に小さな笑みを浮かべた。
「よう。珍しい客だな」
ノエルは呆れたように目を回し、持っていた荷物を床へ置いた。
「何言ってるんだよ。わざわざ休暇に合わせて帰ってきたんだぞ」
そのとき。
屋敷の扉がもう一度開いた。
背の高い少年が、中へ入ってくる。
長男のヴィエンだった。
「おっ、二人ともいるじゃないか」
ヴィエンは大きく笑った。
肩へ降り注ぐ陽射しが、その姿を明るく照らしている。
三兄弟は互いの顔を見た。
そして、ほとんど同時に笑い出した。
以前のようなわだかまりはない。
張り詰めた空気もなかった。
そこにあるのは、久しぶりに再会した兄弟の気楽さだけだった。
◇ ◇ ◇
夕食の時間。
三人は同じ食卓を囲み、それぞれの近況を話していた。
アーガはステーキを一口分切り分けながら、何気なく尋ねる。
「ヴィエンは最近どうなんだ?」
「悪くないぞ」
ヴィエンは肩をすくめた。
声には少しだけ得意げな響きがある。
「もう見習い級中位だ」
「もう少し頑張れば、近いうちに上位へ進めるかもしれない」
ノエルが口笛を吹いた。
「やるじゃん。さすが兄さん」
ヴィエンは笑い、今度はアーガを見る。
「お前はどうだ?」
「家での生活には慣れたのか?」
アーガはフォークを軽く振った。
「かなり快適だぞ」
冗談めかした口調で続ける。
「毎日、絵を描いてピアノを弾いている。教養のある生活ってやつだ」
ノエルが片方の眉を上げる。
「へえ。意外と優雅に暮らしてるんだな」
アーガは笑うだけで答えなかった。
そのとき、食堂の扉が開いた。
アルドリックが一枚の書類を持って入ってくる。
「明日、王都で鉱石の取引がある」
三人へ目を向けた。
「お前たちも、もう小さな子供ではないからな」
一度、言葉を切る。
「三人とも一緒に来るか?」
「そういえば、俺とノエルも、もう十一歳か」
アーガはほとんど迷わず答えた。
「行くよ。ずっと家にいるのも飽きてきたし、ちょうど外へ出たかったんだ」
ノエルもうなずく。
「俺も行く。将来、商人になるかもしれないしな」
「確かに、俺ももう十三歳だ」
ヴィエンが笑った。
「十分、大人だろ?」
胸を張って続ける。
「王都の道ならよく知ってる。案内してやるよ」
アルドリックは三人の息子を見渡した。
厳しい口元が、誰にも気づかれないほどわずかに緩む。
「よし。では、決まりだ」
夜は少しずつ深まっていった。
それでも、三兄弟の楽しそうな話し声は、長い間途切れることがなかった。




