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第70話 帰宅

数日後。


ラインハルト家の紋章で飾られた一台の馬車が、ゆっくりと屋敷の敷地へ入ってきた。


最初に馬車を降りたのは、アルドリック・ラインハルトだった。


威厳ある家長の顔には、長旅による疲労が色濃く浮かんでいる。


彼は振り返って妻のアイランへ手を差し出し、馬車から降りるのを助けた。


二人は屋敷へ向かいながら、今回の襲撃について話していた。


「まさか凛冬王国が、学院へ人を送り込んで襲撃するなんて……」


アイランは小さくため息をついた。


旅用の外套にできた皺を、無意識に指先で整える。


「あまりにも常軌を逸しているわ」


アルドリックの太い眉が、険しく寄せられた。


「私も予想していなかった。本当にひどい災難だ」


彼は王都の方角を見上げた。


まるで、遠く離れた学院の惨状が見えているかのようだった。


「巻き込まれた生徒たちが気の毒でならない」


アイランは夫の腕へ自分の腕を絡ませた。


「幸い、もうすぐ長期休暇でしょう?」


「一か月あれば、かなり復旧も進むはずよ。次の学期を予定どおり始めることも、難しくはないと思うわ」


二人が屋敷へ入ると、使用人たちがすぐに迎えに出た。


荷物と外套を受け取っていく。


「旦那様、お疲れさまでございました」


年長の侍女長が、恭しく頭を下げた。


アルドリックは軽くうなずき、近くに控えていた執事へ顔を向ける。


「留守の間、ご苦労だった」


執事も深く一礼した。


「王都近郊の鉱脈はいかがでしたか? あちらも被害を受けたと聞いておりますが」


アイランが首を横に振る。


「多少の影響はあったけれど、まだ対処できる範囲よ」


執事は何かを言おうとして、しばらくためらった。


やがて、声を落として報告する。


「もう一つ、お伝えすることがございます……」


「アーガ様が、昨日お戻りになりました」


「何だと?」


アルドリックとアイランが、同時に声を上げた。


アイランは不思議そうに眉を寄せる。


「救援部隊はもう到着したのでしょう? 避難用の天幕も用意されているはずだけれど」


アルドリックは顎に生えた無精髭を撫でた。


「天幕で眠るのが嫌で、先に戻ってきたのか?」


執事の表情が険しくなる。


「アーガ様は戻られてから、一言もお話しになりません」


「食事にも手をつけず、ずっとご自分の部屋に閉じこもっておられます……」


夫婦は顔を見合わせた。


次の瞬間には、二人とも足早に階段へ向かっていた。


アルドリックの重い足音が廊下へ響く。


アイランもスカートの裾を持ち上げ、小走りであとを追った。


「アーガ!」


アルドリックが息子の部屋の扉を強く叩く。


「扉を開けろ! 私たちだ!」


部屋の中から、返事はなかった。


不気味なほど静まり返っている。


アイランは扉へ耳を当てた。


しかし、内側からは物音一つ聞こえない。


声に焦りが混じり始める。


「アーガ、お母さんよ。大丈夫なの?」


それでも、返事はなかった。


アルドリックは何度か呼びかけた。


だが、状況は変わらない。


ついには苛立ったように、扉を蹴りつけた。


「この馬鹿息子が! 中で何をしている!」


「やめて」


アイランが夫の腕をつかむ。


「怪我をしているのかもしれないわ。それとも……」


その先を口にすることはできなかった。


◇ ◇ ◇


翌朝。


アルドリックは、部屋の前へ運ばせた食事が、手つかずのまま残っていることに気づいた。


水にさえ、口をつけた様子がない。


彼は険しい顔で執事を見た。


「二日だ」


低い声だった。


「二日間、食事どころか水さえ飲んでいない」


「旦那様……」


執事は何か言おうとしたが、アルドリックは片手で制した。


「そこをどけ」


二歩ほど後退する。


そして肩から、厚い扉へ勢いよく体当たりした。


重厚な樫の扉が、苦しげな音を上げる。


一度目では開かなかった。


二度目でも、扉は耐えた。


だが、三度目の衝突で、ついに蝶番が壊れた。


轟音とともに扉が内側へ倒れる。


部屋の中は、夜のように暗かった。


窓のカーテンは固く閉ざされ、外の光を完全に遮っている。


アーガはベッドの隅で、身体を小さく丸めていた。


制服は皺だらけになり、洗っていない黒髪が額へ張りついている。


扉が壊された音を聞いても、わずかに顔を上げただけだった。


灰青色の瞳には、何の光も残っていない。


「アーガ!」


アイランが息子へ駆け寄る。


しかし、身体へ触れた瞬間、その場で動きを止めた。


その目に浮かぶ絶望。


息子がこれほど深く傷ついた表情を、彼女は一度も見たことがなかった。


アルドリックは入り口に立ったまま、激しく胸を上下させていた。


「お前、いったい……」


「出ていって」


アーガの声はかすれ、人間の声とは思えないほど乾いていた。


「何だと?」


アルドリックが信じられないように目を見開く。


「出ていけって言ったんだ!」


アーガは突然身体を起こした。


近くにあった枕をつかみ、父親へ向かって投げつける。


「全員、出ていけ!」


声が裏返った。


「そもそも、俺は二人の本当の子供じゃないだろ!」


投げられた枕は力なく床へ落ちた。


その柔らかな音とは裏腹に、今の言葉が部屋へ重苦しい沈黙をもたらした。


アイランは、ゆっくりとベッドの端へ腰を下ろした。


震える手で息子の頬へ触れようとする。


だが、指は途中で止まった。


「知っているわ」


声は、羽根が落ちるように小さかった。


「ずっと前から知っていた」


アーガは呆然と母親を見た。


「何があったの?」


アイランが優しく問いかける。


「お願いだから、話して」


アーガの唇が震えた。


次の瞬間。


堪えていたものが決壊したように、子供のような泣き声を上げた。


母親の胸へ身体を預ける。


涙がアイランの服を濡らしていった。


「俺……」


声を詰まらせながら、どうにか言葉を絞り出す。


「もう、魔法が使えないんだ……」


「何だと……?」


アルドリックは雷に打たれたように固まった。


大きな身体が、わずかによろめく。


両親に何度も促され、アーガは途切れ途切れに事情を話した。


シーリンの裏切り。


トールによる襲撃。


命をつなぎ止めた五本の薬。


そして、自分の魔力が自分を拒絶していること。


「身体の中に、知らない誰かが住みついたみたいなんだ」


アーガは苦しそうに髪をかきむしった。


「魔力が残っていることは分かる」


「でも、俺の言うことを聞かない……」


アルドリックは近くの椅子へ、重く腰を下ろした。


指先で何度も膝を叩いている。


「そんなことがあるはずがない……」


自分へ言い聞かせるように呟く。


「必ず、何か方法がある」


アイランは息子を強く抱き締めた。


頬を涙が音もなく流れ落ちる。


「一番腕のいい治療師を探しましょう」


「魔法に詳しい人も、薬に詳しい人も……できることは全部試すわ」


「必ず治してみせるから……」


アーガは力なく笑い、首を横に振った。


「ベルマン家の医師が言ってた……」


「今までに、一度も見たことがない症状だって」


片手を持ち上げる。


体内の魔力を動かそうと、必死に意識を集中した。


指先に、弱々しい火花が一つだけ生まれる。


しかし、すぐに消えてしまった。


「見ただろ?」


しばらく沈黙したあと、さらに呟く。


アイランとアルドリックは顔を見合わせた。


部屋は、死んだような静けさに包まれた。


長い時間が過ぎたあと、アイランが優しく口を開く。


「まずは何か食べましょう」


息子の背中を撫でながら続ける。


「生きて帰ってきてくれただけで、今は十分よ」


◇ ◇ ◇


食卓には、銀製の食器が触れ合う音だけが響いていた。


普段なら気にも留めない小さな音が、今は妙に耳障りだった。


アーガは機械のように食べ物を口へ運んでいる。


だが、何を食べても味はしなかった。


アルドリックとアイランは、魔法や剣術の話題を慎重に避けた。


王都で起きた襲撃について、差し障りのないことだけを尋ねる。


アーガは短く答えるだけで、視線を皿から上げなかった。


そのとき。


執事が食堂へ入ってきた。


「アーガ様」


静かに告げる。


「リサお嬢様がお見えです。アーガ様にお会いしたいとのことですが」


アーガの指が、強く握り締められた。


フォークの先が陶器の皿を擦り、耳を刺すような音を立てる。


「会わない」


低く答えた。


「家にはいないと言ってくれ」


執事はアルドリックへ視線を向けた。


家長がわずかにうなずく。


執事は仕方なく食堂を退出した。


しばらくすると、窓の外からリサの澄んだ声が聞こえてきた。


「アーガ!」


「早く出てきなさいよ!」


「家にいることくらい分かっているんだから!」


アーガの身体が、明らかに強張った。


それでもすぐに顔を伏せ、何事もなかったように食事を続ける。


「お嬢様、今日はもうお帰りになりましょう」


女性護衛の声が、かすかに聞こえた。


「今は、彼を一人にしておいた方が……」


「私、この休暇中はフラン城に住むから!」


リサの声には、突然泣きそうな響きが混じった。


「毎日ここへ来るわ!」


「あなたが出てくるまで、何度でも来るんだから!」


やがて、外から聞こえる足音は少しずつ遠ざかっていった。


アーガは食器を置いた。


何も言わずに席を立ち、階段を上がる。


自室の窓から外を見た。


道の向こうへ遠ざかっていく、金色の人影。


その姿が見えなくなるまで眺め続ける。


胸の上に、重い石を載せられたようだった。


◇ ◇ ◇


それからの日々。


リサは宣言どおり、毎日ラインハルト家を訪れた。


朝になると、彼女の澄んだ声が決まって庭へ響く。


「アーガ! 初めて訓練場で戦ったときのこと、覚えている?」


「私に顔が腫れるまで殴られたのに、最後まで強がっていたでしょう!」


別の日には、学院の話をした。


「学院の訓練場、もう再建が始まったらしいわよ!」


「私が剣術の授業を選びなさいって言ったときのことも、覚えているでしょう?」


寝室の中。


アーガはベッドの上で小さく丸まっていた。


聞かないようにしているつもりでも、耳は勝手にリサの声を追ってしまう。


忘れようとしていた記憶が、彼女の言葉によって一つずつ呼び起こされた。


騎士決闘で、リサから投げつけられた手袋。


剣術の授業を選び、いつかもう一度戦うよう言われたこと。


地下迷宮の第三層で、互いに背中を預けて戦ったこと。


グルバート家で起きた暗殺事件。


そして、二人一組で挑んだ大会。


六日目の夕方。


庭から聞こえるリサの声は、いつになく優しかった。


「……グルバート家の舞踏会で踊ったとき」


少し間を置く。


「あなた、思っていたより上手だったわよ」


部屋の中で、アーガの口元が無意識に持ち上がった。


しかし、それに気づくと、慌てて唇を強く結んだ。


枕をつかみ、頭へ被せる。


それでも、脳裏に浮かぶ光景を追い払うことはできなかった。


月光を受けて輝く、リサの金色の睫毛。


踊りに合わせて大きく広がったスカート。


手を取ったとき、指先から伝わってきた温もり。


◇ ◇ ◇


七日目の朝。


リサはいつものように、ラインハルト家の庭へ現れた。


だが、この日は普段よりも大きな声で叫んだ。


「二人一組の大会の準決勝、覚えている?」


「三年生の二人と戦ったとき、私のおかげで勝てたようなものよね!」


ベッドの上にいたアーガが、勢いよく身体を起こした。


ふらつきながら窓まで歩く。


窓枠へ手をかけ、一気に押し開けた。


身を乗り出し、庭へ向かって叫ぶ。


「何言ってるんだ!」


「どう考えても、俺の方が活躍してただろ!」


朝日が目へ入り、アーガは眩しそうに目を細めた。


それでも、庭に立つリサの姿ははっきりと見えた。


彼女の顔が、一瞬で明るくなる。


金色の長髪が朝風に揺れた。


深い青色の瞳には、勝利を確信したような光が輝いていた。


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