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第7話 磁力の魔導師

そのとき、宿の三階にある窓が勢いよく開いた。


セシが窓枠を蹴り、外へ飛び出す。


長衣が夜風を受けて大きく広がり、彼女はそのまま街道の中央へ軽やかに着地した。


周囲から驚きの声が上がったが、セシは気に留めなかった。


まっすぐ、一人の老人へ歩み寄る。


老人は腰を深く曲げ、木の杖をついていた。


その顔には、突然の騒ぎに怯えているかのような表情が浮かんでいる。


「そちらの方、少しお待ちください」


老人は慌てて後ずさった。


「な、何でしょうか……?」


セシが突然通行人を呼び止めたことで、周囲の衛兵たちはすぐさま武器を構えた。


衛兵隊長も足早に彼女の前へやってくる。


セシは銀色の徽章を取り出し、相手へ見せた。


それを確認した衛兵隊長は、すぐに部下たちへ武器を下ろすよう命じる。


「ウィンスロー殿でしたか。失礼いたしました。私は王城護衛隊第九隊の隊長、ムハンです」


セシは徽章をしまった。


その視線は、最初から一度も老人を離れていない。


「そちらの方から、先ほどから不自然な魔力の波動が漏れています」


木の杖を握る老人の手が、わずかに震えた。


「何をおっしゃっているのか、私には……」


セシはそれ以上、問いかけなかった。


青い光が瞬く間に彼女の手のひらへ集まる。


老人が背を向けようとした瞬間、見えない力が正面から胸を打ち抜いた。


ドンッ!


老人の身体が後方へ吹き飛ばされる。


それと同時に、身につけていた衣服が空中で形を変え始めた。


大きくくたびれた外套。


白髪交じりの髪。


曲がっていた腰。


それらが一斉に消えていく。


地面へ叩きつけられたとき、老人の姿はすでになかった。


そこに倒れていたのは、黒い仮面をつけた細身の男だった。


商人がすぐに男を指さす。


「そいつです! そいつが盗んだんです!」


周囲の衛兵たちも、一斉に槍を構えた。


ムハンは男の姿を確認し、ようやくその正体に気づく。


「モルハン……」


手配書に描かれていた、紅薔薇盗賊団の一員だった。


セシは、モルハンの身体に残る魔力を観察した。


「なるほど。変装魔法ですか」


「短時間だけ衣服や髪型、体格まで変えられる。だから今まで、追っ手の目を欺くことができたのですね」


モルハンは地面から立ち上がり、口元の血を拭った。


「見破ったから何だっていうんだ?」


肩を軽く回しながら、周囲の衛兵たちを見渡す。


「確かに正面からやり合えば、あんたには勝てないだろうな」


仮面の奥で、目が細められた。


「だが俺が逃げるだけなら、あんたでも止められるとは限らない」


ムハンが剣を抜く。


「包囲しろ!」


衛兵たちは即座に散開し、モルハンを街道の中央へ追い込んだ。


しかし、モルハンの方が一瞬早かった。


片手を地面へ押し当てる。


魔力が石畳の中へ流れ込んだ。


硬かった地面に無数の亀裂が走り、まるで長い年月をかけて風化したかのように、急速に崩れ始める。


踏み込もうとしていた衛兵たちの足元が陥没した。


何人もの兵士が体勢を崩し、次々と地面へ倒れ込む。


モルハンはその隙に包囲を突破し、街道の先へ走り出した。


「追え!」


ムハンも部下を率いてあとを追う。


モルハンは通り沿いに立つ大木のそばを通り過ぎると、走りながら幹へ手を触れた。


接触した場所から魔力が一気に広がっていく。


青々と葉を茂らせていた大木が、見る間に枯れ始めた。


樹皮には大きな亀裂が走り、太い枝もわずかな時間で腐り落ちていく。


轟音とともに、大木が街道の中央へ倒れた。


追いかけていた衛兵たちの進路が塞がれる。


モルハンは止まらなかった。


周囲にある別の木にも次々と触れていく。


何本もの木が続けざまに倒れ、街道には巨大な障害物が積み重なっていった。


セシが片手を上げる。


彼女の周囲に数個の青い光球が現れ、それぞれ倒れた木の幹へ飛んでいった。


光球は木を破壊しなかった。


代わりに、一本一本の幹へ淡い青色の印を残す。


宿の入口に立っていたアーガは、その印を目にした瞬間、本で読んだ内容を思い出した。


三級カード。


星座札――《羅針盤座》。


対象が持つ磁極を変化させるカードだ。


異なる魔力で印をつけられた物体は互いに引き合い、同じ印を持つ物体同士は反発する。


セシはもう一方の手を上げ、赤い光球を通りの脇にある空き地へ放った。


赤い光が地面へ落ちる。


次の瞬間、青い印をつけられたすべての木が一斉に震え始めた。


強大な力に引かれ、赤い印がある場所へ向かって動き出す。


巨大な幹が街道から浮かび上がった。


家屋の壁や軒先すれすれを通り抜け、空き地へ飛んでいく。


セシの力の制御は、驚くほど正確だった。


何本もの大木が宙を舞っているというのに、一軒の建物にもぶつからない。


すべての木が空き地へ積み上がり、街道を塞いでいた障害物は瞬く間に消え去った。


衛兵たちは一瞬、呆然としていた。


だが、すぐに我へ返り、再びモルハンを追って走り出す。


アーガは宿の軒下に立ったまま、傷一つついていない周囲の建物を見回した。


それから、遠くにいるセシへ視線を向ける。


本当に強い魔導師が、どのように戦うのか。


それを目の当たりにするのは、これが初めてだった。


セシが再び片手を上げた。


複数の青い光球が次々と放たれ、街道を逃げるモルハンの背中へ迫る。


空気を切り裂く音を聞いたモルハンは、勢いよく身体を横へひねった。


最初の一発をかわす。


続けて上体を伏せ、急停止した反動を利用して二発目の上を転がるように飛び越えた。


残りの光球も、肩や腰のすぐ脇を通過していく。


セシはわずかに眉を寄せた。


正面から戦う力は大したことがない。


だが、逃げる技術だけは確かなようだった。


モルハンは走りながら振り返った。


その足は一度も止まっていない。


「聖イース学院の教師も、大したことねえな!」


勝ち誇った声が街道へ響いた。


セシは答えなかった。


地面へ赤い印を一つ残す。


それと同時に、両足にも赤い光がともった。


同じ磁極同士の斥力が一気に弾ける。


セシの身体は地面から押し上げられ、そのまま宙へ浮かび上がった。


街道の上空で静止する。


長衣は夜風を受けて揺れていたが、足元の高さはほとんど変わっていない。


周囲の人々から、驚きの声が上がった。


アーガには、セシが何をしたのかすぐに理解できた。


自分の足と地面に同じ磁極を与え、その反発力で身体を浮かせている。


理屈だけなら単純に思える。


しかし実際に行うには、足元へ加える力と身体の均衡を同時に維持しなければならない。


空中に浮かぶセシは、逃げ続けるモルハンを見下ろした。


両腕を左右へ広げる。


「磁性豪雨」


大量の青い光球が、セシの周囲に次々と現れた。


光球は瞬く間に数を増やし、夜空の一角を埋め尽くしていく。


次の瞬間。


すべての光球が一斉に降り注いだ。


異なる方向からモルハンへ迫り、逃げられる場所を次々と塞いでいく。


モルハンの表情が、ついに変わった。


街道を左右へ走り、何度も進行方向を変える。


地面を転がり、壁を蹴って着地点をずらし、大半の攻撃を避けていった。


しかし、降り注ぐ光球の数が多すぎた。


数発が肩と背中へ命中する。


光球そのものには、傷を負わせるほどの威力はなかった。


ただ、モルハンの服へ数個の青い印を残しただけだった。


モルハンは自分の身体に浮かぶ光を見下ろし、すぐに何が起きたのかを悟った。


「まずい……!」


セシが左手を上げる。


手のひらに赤い光が生まれた。


それと同時に、地面や壁に残されていた青い印が次々と消えていく。


残ったのは、モルハンの身体についた印だけだった。


強烈な吸引力が、彼の全身を捉える。


モルハンが前へ一歩踏み出した瞬間、その身体は無理やり地面から引き離された。


空中で必死にもがく。


だが、どれほど抵抗しても力から逃れることはできない。


彼の身体は、急速にセシのもとへ引き寄せられていった。


「捕まえました」


二人の距離が縮まりきる直前。


セシの手のひらから、赤い光が消えた。


代わりに左足が青く輝く。


彼女は空中で半回転し、引き寄せられてきたモルハンの胸へ強烈な蹴りを叩き込んだ。


「斥力・墜星」


接触した瞬間、凄まじい斥力が爆発した。


モルハンの身体が空中から弾き落とされる。


街道の中央へ、激しい勢いで叩きつけられた。


石畳が砕け、土煙と細かな破片が周囲へ飛び散る。


地面には、はっきりと分かるほどの窪みができていた。


煙が少しずつ晴れていく。


モルハンは窪みの底で身体を丸めていた。


黒い仮面には亀裂が入り、身体もほとんど動かせないようだった。


セシはゆっくりと地上へ降り立った。


ムハンへ顔を向ける。


「急所は外しています。連行してください」


ムハンはすぐに衛兵たちを率い、窪みの周囲を取り囲んだ。


しかし彼らが近づくと、モルハンは無理やり身体を起こした。


服の内側から短剣を抜き取る。


「近づくな!」


だが、ムハンは二度目の抵抗を許さなかった。


一歩踏み込み、下から剣を振り上げる。


短剣が弾き飛ばされた。


続けてモルハンの膝裏へ足を払う。


モルハンは再び地面へ倒れ、腕を背中側へねじり上げられた。


数人の衛兵がすぐに身体を押さえつける。


そして、両手首へ禁魔の手枷をはめた。


手枷が閉じた瞬間、モルハンの身体から漏れていた魔力が急速に消えていく。


これでもう、魔法を使うことはできない。


「放せ! この野郎ども――」


近くにいた衛兵が布を取り出し、そのままモルハンの口へ押し込んだ。


残りの罵声が、意味の分からない呻き声へ変わる。


見守っていた人々から、大きな歓声が上がった。


魔晶石を奪われた商人も急いで駆け寄り、モルハンの服から自分の品を取り戻した。


それから何度もセシへ頭を下げる。


「本当にありがとうございます、ウィンスロー殿。あなたがいなければ、この魔晶石は二度と戻ってこなかったでしょう」


「大したことではありません」


セシは短く答えただけだった。


その視線は今も、衛兵たちに押さえられているモルハンへ向けられている。


アーガは宿の入口に立ち、先ほどの戦いを頭の中で振り返っていた。


最初に、倒れた木々へ印をつけた。


次に磁力を利用して、街道から障害物を取り除いた。


そして最後には、モルハンの逃げ道を封じ、その動きを完全に支配した。


セシの一つ一つの行動には、明確な意図があった。


彼女の魔法は、直接相手を傷つけるためのものではない。


異なる磁極が引き合い、同じ磁極が反発する性質を利用し、対象の位置と速度を自在に操っていた。


本当に強い魔導師とは、単に強大な力を持つ者ではない。


自分の能力を、どのように使うべきか知っている者なのだ。


アーガは無意識に、腰に下げたカードケースへ触れた。


基礎カードは、魔法の入口にすぎない。


そのことを、初めてはっきりと実感した。

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