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第68話 裏切り者

アーガは思わず息を呑んだ。


これまで何度もリサに無視されていた“同級生”が、まさか密かに配置された護衛だったとは思いもしなかった。


月明かりの下で見るトールの目は、獲物を狙う鷹のように鋭い。


教室で見せていた、どこか幼く頼りない雰囲気は完全に消えていた。


リサは信じられないというように首を横へ振る。


「確かに、見た目はすごく若いけれど……」


女性護衛が付け加えた。


「実は、彼以外にも二人おります。一人はお嬢様と同じクラスに、もう一人は隣のクラスに潜んでいます」


「まだいるのか!?」


アーガは驚きの声を上げた。


ベルマン家がリサを守るために敷いていた警戒網は、想像していた以上に厳重らしい。


トールは、傷だらけになった三人を順番に見た。


「その姿は……いったい何があったのですか?」


リサは力なく壁へもたれかかった。


「乗っていた馬車が襲撃されたの……」


トールの表情が、一瞬で険しくなる。


「凛冬王国の連中……本当に人間の屑ですね。こんな卑劣な手まで使うとは」


緊張が緩んだためか。


リサとアーガ、そして女性護衛は、ついに身体を支えきれなくなった。


三人はほとんど同時に、その場へ座り込む。


長時間にわたる逃走と負傷によって、体力はすでに限界だった。


月明かりに照らされた顔は、汗と埃にまみれ、ひどく青ざめている。


トールの隣にいたベルマン家の衛兵が、その様子を見て口を開いた。


「リサお嬢様も見つかったことですし、信号弾を上げましょう」


トールがうなずく。


「そうだな」


衛兵は腰から信号筒を取り出した。


筒口を空へ向け、引き金を引く。


だが、何も起こらなかった。


「あれ?」


もう一度、引き金を引く。


それでも信号弾は発射されない。


何度試しても、弾は筒の中で詰まったままだった。


「撃てない……どうしてだ?」


衛兵は困惑しながら、信号筒を確認する。


トールがわずかに眉を寄せた。


「どうした?」


「分からない。急に動かなくなった」


衛兵は信号筒をひっくり返し、何度も眺めた。


トールが片手を差し出す。


「貸してくれ。俺が見よう」


「ああ、頼む」


衛兵は何の疑いもなく、信号筒を手渡した。


その瞬間。


アーガの頭の中に、いくつもの疑問が一気に浮かび上がった。


灰青色の瞳孔が鋭く収縮する。


トールは、学院が襲撃されて間もなく命令を受けたと言っていた。


だが、その時点ではまだ、襲撃者が凛冬王国の者だと確認されていなかったはずだ。


それにアーガがベルマン家の屋敷でセレ夫人へ事情を説明した際、捜索命令の中で凛冬王国については何も告げられていなかった。


それなのに。


トールは最初から、襲撃者が凛冬王国の人間だと知っていた。


「違う!」


アーガは勢いよくトールへ顔を向け、叫んだ。


月明かりの下。


トールが手にしていた物は、すでに信号筒ではなくなっていた。


暗い緑色の液体を満たした、金属製の注射器。


鋭い針先が、リサの背中へ突き刺さろうとしていた。


「危ない!」


アーガは一切迷わなかった。


リサへ飛びつき、その身体を覆うように地面へ押し倒す。


ブスッ――。


針が、アーガの肩へ深く突き刺さった。


注射器の中にあった暗緑色の液体が、すべて体内へ押し込まれる。


同時に。


女性護衛の折れた剣が、鋭い緑色の光をまとって振るわれた。


刃はトールの胸を切り裂き、骨が見えるほど深い傷を作った。


「くそっ!」


トールは血の噴き出す胸を押さえた。


幼い顔立ちが、醜く歪んでいる。


「お前に刺さるはずじゃなかったのに!」


彼は素早く身体をひねり、衛兵が突き出した長剣を避けた。


そのまま回転する勢いを利用し、強烈な蹴りを放つ。


衛兵の身体が数メートル先まで吹き飛ばされた。


女性護衛の剣が、再び眩い緑色の光を放つ。


負傷しているとは思えない速度で、一気にトールとの距離を詰めた。


長剣が、稲妻のように突き出される。


刃はトールの胸を正面から貫いた。


「がはっ……」


トールの口から血があふれた。


自分の胸から突き出た剣先を、信じられないように見下ろす。


「騎士団長……俺は……」


女性護衛は冷たい表情のまま、剣を引き抜いた。


トールの身体は力を失い、壊れた人形のように地面へ崩れ落ちる。


「リサお嬢様! お怪我はありませんか!?」


女性護衛はすぐに振り返った。


リサは自分を庇っていたアーガの下から、どうにか身体を起こす。


顔は血の気を失っていた。


「私は大丈夫……でも、アーガが……!」


アーガの身体が、突然激しく痙攣し始めた。


皮膚の下を走る血管が、不気味な緑色へ変わっていく。


体内の魔力が、堰を切った濁流のような勢いで失われていた。


それだけではない。


腕や肩の筋肉が、目に見える速度で痩せ細り始めている。


「アーガ! アーガ!」


リサは震える腕でアーガの頭を抱き起こした。


大粒の涙が次々とこぼれ落ち、青ざめた頬へ降り注ぐ。


細い指が制服の襟を強くつかんだ。


指の関節が白くなるほど、力が込められている。


「この馬鹿! 誰が……誰がこんなことをしろって言ったのよ!」


アーガの睫毛が、かすかに震えた。


月光に照らされた灰青色の瞳は、すでに焦点を失い始めている。


それでも、口元には弱々しい笑みが浮かんだ。


唇の端から血が流れる。


その血さえも、不自然な緑色を帯びていた。


「リサ……」


声は、耳を近づけなければ聞こえないほど小さい。


だが、これまでにないほど優しかった。


「リサ……俺、もう駄目かもしれない……」


「死ぬなんて許さない!」


リサの涙が、アーガの顔へ落ちる。


「一年生のとき、私があなたに剣術の授業を受けさせたでしょう!」


「いつかまた、一対一で決闘するって言ったじゃない!」


声が震えた。


「今死んだら、私は誰と決闘すればいいのよ!」


女性護衛はアーガの身体を調べていた。


その表情は、かつてないほど険しい。


「毒の回りが速すぎます……」


アーガは必死に片手を持ち上げた。


震える指先が、リサの頬へそっと触れる。


涙を一滴、拭い取った。


「覚えてるか……?」


途切れそうな声で続ける。


「地下迷宮へ行ったとき……リサ、すごく無茶してたよな……」


「最初は、翼竜と一人で戦おうとしてたし……」


「この馬鹿!」


リサは冷たくなり始めたアーガの手を、両手で強く握った。


「ここで死んだら、一生許さないから!」


突然、アーガが激しく咳き込んだ。


口元から、さらに多くの血があふれ出す。


瞳孔が少しずつ開き、呼吸も途切れ途切れになっていった。


「リサ……」


「最初に会った頃は……正直、近づきにくいやつだと思ってた……」


アーガは苦しそうに息を吸った。


「でも……一緒にいるうちに分かったんだ……」


「お前って、本当はすごく……可愛いところがあるんだな……」


(リサ……)


(いつの間にか……)


(お前と一緒に授業を受けたり、訓練したりする毎日が……すごく好きになってた……)


アーガは再び手を上げようとした。


リサの顔へ触れたかった。


「太陽の下で……金色の髪がきらきら光ってるのを見るたびに……」


(本当に、ここで死ぬのか……)


(前の人生に比べれば……)


(今回は……悪くなかったな……)


リサの目から、堰を切ったように涙があふれ出した。


アーガの手を強くつかみ、自分の頬へ押し当てる。


「馬鹿……」


声が完全に震えていた。


「ちゃんと生きなさいよ……」


「これから毎日、私に言えばいいでしょう……!」


アーガの手から、少しずつ力が失われていく。


やがて完全に動かなくなった。


瞼も静かに閉じられる。


「アーガ?」


返事はない。


「アーガ!」


リサは何度も名前を呼び、必死に身体を揺すった。


「起きて! アーガ!」


そのとき。


リサの指先が、アーガの胸元にある硬い物へ触れた。


制服の内側に、はっきりとした膨らみがある。


リサは震える手で制服を開き、内ポケットから装飾の施された小さな金属箱を取り出した。


女性護衛がすぐに身を乗り出す。


「早く開けてください!」


リサは慌てて蓋を開いた。


箱の中には、色の異なる五本の薬瓶が整然と並んでいた。


「これは……?」


涙で視界が滲み、はっきりと見えない。


女性護衛が薬を確認し、驚きの声を上げた。


「魔力を回復させる物と、身体を強化する薬です!」


すぐに叫ぶ。


「早く! すべて飲ませてください!」


リサは震える手で薬瓶をつかんだ。


一本目。


二本目。


残りの薬も、次々とアーガの口へ流し込んでいく。


一部の薬液は唇の端からこぼれ、月光の下で奇妙な蛍光色を放った。


やがて五本すべてを飲ませ終える。


しばらくすると、アーガの激しい痙攣が少しずつ弱まっていった。


皮膚の下に広がっていた緑色の筋も、途中で進行を止める。


不規則だった呼吸も、わずかに安定し始めた。


女性護衛が急いで脈を確認する。


「毒の進行が止まりました!」


リサはアーガの青ざめた顔を、瞬きもせず見つめ続けた。


だが、少年が目を覚ます様子はない。


かすかな呼吸だけが、まだ生きていることを示していた。


「どうして……目を覚まさないの……?」


リサの声は、今にも壊れそうだった。


女性護衛は重い表情で首を横へ振る。


「毒が強すぎました」


「命をつなぎ止められただけでも、奇跡に近いでしょう」


周囲を見回し、すぐに続けた。


「一刻も早く、安全な場所へ運んで治療しなければなりません」


リサは何度も慌ててうなずいた。


女性護衛はアーガの身体を背負い、立ち上がる。


リサもふらつきながら、その後ろを追いかけた。

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