第67話 リサを探して
夜は墨を流したように暗かった。
アーガは一人、王都東区に入り組んだ細い路地を駆け回っていた。
高く立ち並ぶ建物によって月明かりは細かく遮られ、石畳の上へ不規則な光と影を落としている。
人気のない路地に、アーガの足音だけが何度も反響した。
息を吸うたび、夜風の冷たさが肺の奥まで入り込んでくる。
それから、さらに半刻ほどが過ぎた。
アーガの靴は泥にまみれ、制服も汗で完全に濡れていた。
次の路地へ曲がろうとした、そのとき。
月明かりの下で、見覚えのある銀色の光が一瞬だけ輝いた。
「あれは……ベルマン家の紋章?」
アーガはすぐに歩調を速めた。
角を曲がった先に、一台の壊れた馬車があった。
客車は四方へ砕け、車輪も外れて道端へ転がっている。
車体に刻まれていた銀色の家紋だけが、月光を受けて冷たく輝いていた。
間違いない。
夕方、リサが乗っていった馬車だった。
「リサ!」
アーガの心臓が大きく跳ねた。
馬車の残骸へ駆け寄ると、そのそばに一人の護衛が倒れていた。
意識を失っている。
胸を覆う鎧は大きくへこみ、顔も血にまみれていた。
アーガはすぐに膝をつき、護衛の首筋へ指を当てる。
脈はある。
腰につけていた箱から中級治癒薬を一本取り出し、慎重に相手の頭を持ち上げた。
瓶の中身を少しずつ口へ流し込む。
「ごほっ……げほっ……」
護衛の喉が何度か動いた。
やがて閉じていた瞼も、わずかに震え始める。
「しっかりしてくれ!」
アーガは低い声で呼びかけた。
「リサを護送していた護衛だろ? 何があったんだ?」
護衛は苦しそうに目を開けた。
月光を受け、瞳孔がわずかに縮む。
「わ、我々は……待ち伏せを……」
声はひどくかすれ、注意しなければ聞き取れないほどだった。
「突然、大勢が現れて……馬車を破壊されました……」
アーガの手に、無意識に力が入る。
「リサは?」
「戦闘が……激しくて……」
護衛は一言発するたび、残った力を使い果たしているようだった。
「リサお嬢様は……ほかの護衛たちと……東へ逃げました……」
アーガはすぐに周囲を見回した。
東側には、商業区へ通じる複雑な路地が広がっている。
護衛の身体を慎重に持ち上げ、道端の木へもたれかからせた。
「治癒薬を飲ませたから、命に別状はないはずだ」
「あとで誰かを呼んでくる。ここで待っていてくれ」
護衛が弱々しくうなずく。
そのときには、アーガはすでに立ち上がり、東へ向かって走り出していた。
月明かりの下を、灰色の稲妻のように駆け抜ける。
暗い路地を一つ、また一つと通り過ぎていった。
道の途中には、何度も戦闘の痕跡が残されていた。
壁へ深く刻まれた剣の傷。
地面に散らばる武器の破片。
まだ乾き切っていない、いくつかの血痕。
それらの小さな手掛かりが、道標のようにアーガを導いていた。
進むほど、心臓の鼓動が速くなっていく。
頭の中では、考えたくもない最悪の光景が何度も浮かんだ。
一つの角を曲がる。
その先には、小さな川を跨ぐ石橋があった。
アーガは速度を落とし、警戒しながら周囲を確認する。
橋の下を流れる水の音が、ほかの物音をすべて覆い隠していた。
両側に立つ高い建物によって、この辺りには月明かりもほとんど届いていない。
アーガは目を細めた。
そのとき、二軒の家の間にある細い隙間で、何かが動いたように見えた。
「リサ?」
慎重に近づいていく。
暗がりの中には、細い人影が身体を丸めるように倒れていた。
金色の長髪だけは、暗闇の中でもはっきりと見える。
アーガはすぐにしゃがみ込んだ。
顔を覆っている髪を、指先でそっと払いのける。
「リサ……!」
間違いなく、彼女だった。
建物の隙間から数本の月光が差し込み、青ざめた顔を照らしている。
アーガはすぐに負傷の状態を確認した。
額には擦り傷がある。
右手首も少し腫れていた。
だが、幸いにも命に関わるような傷は見当たらない。
アーガは大きく息を吐いた。
残っていた最後の中級治癒薬を取り出し、リサの頭をそっと持ち上げる。
「これを飲んでくれ……」
低く囁きながら、薬を少しずつ口へ流し込んだ。
効果はすぐに現れた。
リサの長い睫毛が小さく震え始める。
アーガは彼女の身体を起こし、壁へ楽にもたれかかれるように支えた。
やがて、深い青色の瞳がゆっくりと開く。
その瞬間。
アーガは心臓が一度、鼓動を忘れたように感じた。
「アーガ……あなたなのね」
リサの声は弱々しかった。
それでも、はっきりと聞き取れた。
指が無意識に伸び、アーガの制服の袖をつかむ。
「ああ、俺だ」
緊張のせいで、アーガの声もかすれていた。
「身体は大丈夫か? 何があったんだ?」
リサは身体を起こそうとした。
アーガが慌てて肩を支える。
「私たち……待ち伏せされたの」
呼吸はまだ少し乱れている。
「護衛たちが必死に戦ってくれたけれど、相手の数が多すぎて……」
「女性護衛が先に私をここへ隠して、それから敵を引きつけに行ったわ」
そのとき。
負傷した足を引きずりながら、リサの女性護衛が路地の奥から歩いてきた。
鎧のあちこちが壊れている。
それでも、その瞳から警戒の色は消えていなかった。
アーガの姿を確認すると、ようやく安堵したように息を吐き、壁へ身体を預ける。
「無事だったのね」
リサの声には、明らかな喜びが混じっていた。
女性護衛は首を横に振る。
「私は大丈夫です……」
息を整えながら続けた。
「あの者たちは、それほど強くありませんでした。ただ、数が多かっただけです」
それからアーガへ目を向ける。
「なぜ、あなたがここに?」
アーガは今夜起きたことを、手短に説明した。
シーリンの裏切り。
凛冬王国が学院の優秀な生徒を狙っていること。
そして、ベルマン家の屋敷へ行ったとき、リサがまだ戻っていなかったこと。
話を聞くにつれ、女性護衛の表情は険しくなった。
彼女は痛みをこらえながら、再び身体を起こす。
「すぐに屋敷へ戻らなければなりません」
「今頃は、こちらを捜すための者たちも派遣されているはずです」
アーガは心配そうにリサを見た。
「歩けるか?」
リサはすでに壁へ手をつき、立ち上がっていた。
足取りにはまだ不安定さが残っている。
それでも、瞳にはいつもの強さが戻っていた。
「このくらい、たいした怪我じゃないわ」
三人は暗い路地を慎重に進み始めた。
女性護衛が先頭に立ち、周囲を警戒する。
アーガは常にリサのすぐ隣を歩いた。
雲の隙間から現れては消える月明かりが、逃げる三人の道をかすかに照らしている。
「どうして馬車が一台もいないの……」
リサが息を切らしながら尋ねた。
声には、隠しきれない疲れがにじんでいる。
アーガは周囲の暗闇へ警戒の視線を向けた。
灰青色の瞳が、月明かりの下で鋭く光る。
「もう夜中の十二時だからな。いなくても不思議じゃない」
声を落として続けた。
「もう少しだ。ベルマン家の屋敷も近いはずだ」
女性護衛は先頭を歩き続けている。
移動するたび、壊れた鎧がかすかな金属音を立てた。
傷そのものは深くないようだ。
だが、多くの血を失ったため、顔色は紙のように白かった。
途中で何軒かの宿へ立ち寄った。
しかし、ほとんどは扉を固く閉ざしている。
明かりのついている宿もあったが、主人は申し訳なさそうに首を振った。
馬はすべて、避難する人々に貸し出してしまったらしい。
雲が月を覆い隠す。
路地は、さらに深い闇へ沈んだ。
リサの身体がふらつく。
そのまま転びそうになったところを、アーガが素早く支えた。
手のひらに触れたリサの手首が、わずかに震えている。
生きている人間とは思えないほど冷たかった。
「本当に歩けるか?」
アーガは小さな声で尋ねる。
そこには、隠しきれない心配が込められていた。
リサは意地を張るようにうなずいた。
結っていた金色の髪は、すでにひどく乱れている。
「大丈夫よ」
しかし、呼吸は明らかに速かった。
額にも細かな汗が浮かんでいる。
三人が路地を抜けようとした、そのとき。
前方に、一人の人影が現れた。
女性護衛は即座に剣を抜き、リサの前へ立つ。
「誰です!」
鋭い声が夜の路地へ響いた。
雲が流れ、再び月明かりが差し込む。
現れた人物の顔が照らされた。
学院の制服を着た少年だった。
その隣には、ベルマン家の衛兵も立っている。
「トール?」
リサは驚いて目を見開いた。
同じクラスの生徒だと気づいたのだ。
アーガも、すぐにその少年を思い出した。
三年生の新学期が始まった日。
リサへ自己紹介をしたものの、まったく相手にされなかった少年。
その後、二人一組の大会でもリサを誘い、再び断られていた。
トールが口を開くより早く、女性護衛が声をかけた。
「トール。あなたにも、リサお嬢様を捜すよう命令が届いたのですね?」
トールはうなずいた。
今の声は、外見から想像できないほど落ち着いていた。
幼い顔立ちとの違いが、ひどく不自然に感じられる。
「夕方、学院が襲撃された直後に連絡を受けました」
「それなら、どうしてすぐにリサお嬢様のところへ来なかったのです?」
女性護衛は不満そうに言った。
「馬車が襲われたとき、私は本当に生きた心地がしなかったのですよ」
「そのときは、すぐに向かうつもりでした」
トールは困ったように笑う。
「ですが、到着した頃には、あなた方もちょうどお嬢様のもとへ集まったところでした」
「護衛も五、六人いましたから、私が密かにお守りする必要はないと判断しました。それで、いったん屋敷へ戻って待機していたのです」
リサは、これまでまともに目を向けたこともなかった同級生を驚いたように見つめた。
「え? あなたは……?」
トールは背筋を伸ばした。
胸へ片手を当て、正式な騎士の礼を取る。
「トール・スコットと申します」
少年のように幼い顔で、静かに告げた。
「実年齢は十八歳です。少々、幼く見えるだけでございます」
その声が、急に厳かなものへ変わる。
「騎士団長の命を受け、この三年間、密かにリサお嬢様を護衛しておりました」




