第66話 緊急事態
「違います、私は……」
シーリンは慌てて首を横に振った。
髪につけた銀色の鈴が、激しく揺れてせわしない音を立てる。
アーガに押さえられた手首は小さく震え、琥珀色の瞳には涙がたまっていた。
マールがゆっくりと近づいてくる。
「あなたの命を救ったわ」
その声は、意外なほど落ち着いていた。
「これで、前に洗面所の前で挑発したことへの謝罪になったでしょう?」
アーガは一瞬、呆気に取られた。
シーリンを押さえる手から、無意識に少しだけ力が抜ける。
「あ……ああ。ありがとう」
その表情には、隠しきれない驚きが浮かんでいた。
以前は自分へ敵意を向けていたマールが、助けてくれるとは思ってもいなかったのだ。
アーガはシーリンを拘束したまま、蜘蛛の糸で壁へ縫いつけられた注射器の前まで連れていった。
片手でシーリンの腕を押さえ、もう片方の手で注射器に絡みついた糸を取り除く。
取り外された注射器の中では、暗い緑色の液体が月光を受け、不気味な光を放っていた。
「自分から話すか」
アーガは注射器をシーリンの目の前へ掲げた。
その声は氷のように冷たい。
「それとも、死ぬか。どっちがいい?」
シーリンの身体から、一瞬で力が抜けた。
糸を切られた人形のように、その場へ崩れそうになる。
「話します……全部、話します……」
声には涙が混じっていた。
「その薬を今の先輩に注射すると、体内の魔力がすべて失われます」
「そのあと、少しずつ筋肉が萎縮して……最後には死にます」
マールが息を呑んだ。
すぐに近くまで歩み寄る。
「そんな薬が本当に存在するの?」
「あります! 本当にあるんです!」
シーリンは必死に説明した。
「学院の生徒を狙うために作られた薬です。学院を卒業するほど成長して、魔力や筋肉を十分に制御できる人なら、効果を受けずに済むこともあるそうです。でも、まだ身体が成長していない生徒なら……」
アーガの手がわずかに震えた。
灰青色の瞳には、信じられないという感情が浮かんでいる。
彼は深く息を吸い、無理やり自分を落ち着かせた。
「なぜ俺を狙った?」
低い声で問いかける。
「いつから計画していたんだ?」
シーリンは顔を伏せた。
「凛冬王国の人たちは、アーガ先輩とリサ先輩の才能が高すぎると言っていました」
声は、蚊の鳴くように小さい。
「このまま成長したら、いずれ自分たちにとって大きな脅威になるって……」
指先が、無意識にスカートの裾を握りしめる。
「だから、私が初めてアーガ先輩と戦ったあと、凛冬王国の人たちが接触してきました」
月光に照らされたシーリンの顔は、紙のように白かった。
「私にたくさんの報酬を与えると言って……それだけじゃなくて、家族を人質に取ったんです」
「彼らが学院を襲撃したあと、もしアーガ先輩が戦いに巻き込まれて死ななかったら、機会を見つけて薬を注射しろと言われました」
マールは少し考え込んだあと、不審そうに尋ねた。
「待って。あいつらは学院の中にまで潜入していたのでしょう?」
「それなら、どうして自分たちで機会を作って、アーガを殺さなかったの?」
「私も同じことを聞きました」
シーリンは泣きながら答えた。
「でも、アーガ先輩はいつもリサ先輩と一緒にいたから……」
「ベルマン家は、密かに何人もの護衛をリサ先輩の近くへ配置していたそうです。中には生徒のふりをして、同じ学院へ通っている人までいるって……」
「だから、簡単には手を出せないと言っていました」
アーガはシーリンを拘束していた手を離した。
決勝戦の観客席を思い出す。
ミロ。
ユノ。
ケイミ。
見慣れた顔が、何人も試合を見守っていた。
だが、そこにシーリンの姿だけはなかった。
「つまり、お前は最初から今日の襲撃を知っていたんだな」
アーガの声が低くなる。
そこには、危険なほど冷たい感情が込められていた。
「だから決勝戦を見ずに、事前に学院の外へ逃げていたのか?」
シーリンは恥じるようにうなずいた。
涙が頬から落ち、瓦礫の上へ小さな染みを作る。
マールが突然、シーリンの胸元をつかんだ。
背中から伸びる蜘蛛の脚が、怒りを示すように大きく広がる。
「全部知っていたのに、何も言わなかったの!?」
「そのせいで、学院では大勢が傷ついた! 命を落とした人だっている!」
声が瓦礫の中へ響き渡った。
「建物もこれだけ壊されて、学院の外にいた人たちまで巻き込まれたのよ!」
「私にどうしろっていうの!」
シーリンも突然、限界を迎えたように泣き叫んだ。
「私の両親が、あの人たちに捕まっているんですよ!」
アーガは一歩後退した。
夜風が黒い髪を乱す。
月光と周囲に残る炎が、顔へ複雑な影を落としていた。
彼は感情を押し殺し、必死に考えを整理する。
そして、シーリンが口にした言葉の中から、ある重要な点を見つけた。
「さっき、俺とリサの才能が高すぎると言ったな」
アーガの表情が変わる。
「それなら、リサも標的なのか?」
シーリンは涙を流しながらうなずいた。
「アーガ先輩が一人、リサ先輩が一人……」
「それから、二年生の首席と、一年生の上位二人」
「標的は全部で五人です」
彼女はマールへ顔を向けた。
「もし今年、四年生が事前に戦闘用カードを選ぶことになっていなければ、マール先輩も標的に含まれていたそうです」
マールは怒りに任せ、近くの瓦礫を蹴り飛ばした。
石が激しく跳ね、周囲へ飛び散る。
「この外道ども……!」
アーガの瞳孔が、大きく縮んだ。
「リサも……」
恐怖のあまり、声が鋭くなる。
「誰だ?」
シーリンへ詰め寄った。
「リサに薬を注射する役目は、誰が担当している!」
「分かりません!」
シーリンは慌てて首を横に振った。
「それは、私が知ることを許されていない情報です……」
アーガはすぐに、地面へ置いていた黒檀の箱と、無事だった薬瓶をまとめた。
それを抱え、走り出そうとする。
だが、数歩進んだところで足を止めた。
振り返り、マールへ声をかける。
「シーリンは任せた、マール」
返事を待つことはなかった。
アーガはすぐに駆け出した。
靴が瓦礫を踏む音が、慌ただしく夜の中へ響く。
心臓が胸を突き破りそうなほど、激しく鼓動していた。
リサは今、どこにいる?
ベルマン家の屋敷は、本当に安全なのか?
彼女を守っているという者たちの中に、凛冬王国の人間が紛れ込んでいる可能性はないのか?
月光の下。
アーガの姿が、瓦礫の間を駆け抜けていく。
刺客より先にリサを見つけなければならない。
そうでなければ、すべてが手遅れになる。
◇ ◇ ◇
アーガが学院の正門を飛び出した頃には、夜もすっかり深まっていた。
王都の大通りを全力で走る。
激しい運動によって、肺が焼けるように痛んだ。
通りには不安に駆られた市民と、巡回する衛兵たちがあふれている。
崩れた建物の瓦礫が道を塞ぎ、真っすぐ走ることさえ難しかった。
二十分近く走ったところで、ようやく街角を通りかかった一台の馬車を止めることができた。
御者は、顔中に深いしわの刻まれた老人だった。
息を切らしているアーガを見ると、明らかに警戒した表情を浮かべる。
「ベルマン家の屋敷まで! 急いでくれ!」
アーガは金貨を一枚投げた。
声はひどくかすれている。
「最速で行ってくれたら、もう一枚払う!」
金貨が月光を反射し、輝く軌跡を描いた。
御者はそれを片手で受け取る。
すぐに馬車の扉を開けた。
「乗れ!」
馬車は夜の王都を疾走した。
車輪が瓦礫や小石を踏む音は、アーガの激しい鼓動に似ていた。
彼は何度も窓の幕をめくり、外の様子を確認する。
待っている一秒一秒が、拷問のように長く感じられた。
やがて、ベルマン家を象徴する銀色の門が視界へ入る。
アーガは馬車が完全に止まるよりも早く、地面へ飛び降りた。
「止まれ!」
完全武装した二人の護衛が、即座に長槍を交差させる。
「ここはベルマン家の屋敷だ。部外者が勝手に立ち入ることは許されない!」
アーガは肩を激しく上下させながら説明した。
「俺はアーガ・ラインハルト! 聖イース学院の三年生で、リサの同級生です!」
息を吸うことさえ苦しい。
それでも声を張り上げた。
「緊急事態なんです!」
「こんな夜中に貴族の屋敷へ押しかけるとは、ずいぶんな度胸だな!」
護衛は聞く耳を持たなかった。
長槍を一歩前へ突き出す。
「今すぐ立ち去れ!」
アーガは後退しなかった。
鋭い槍先が、喉のすぐ前まで迫る。
「リサはいるのか!」
屋敷へ向かって叫んだ。
「リサ! 俺だ、アーガ・ラインハルトだ!」
「凛冬王国の連中が、密かにお前を殺そうとしている!」
「無礼者!」
護衛が怒鳴った。
槍の柄が横薙ぎに振るわれ、アーガの身体へ直撃する。
アーガは地面へ倒れ込んだ。
直後、冷たい槍先が喉元へ突きつけられる。
「これ以上騒ぐというのなら――」
「やめなさい」
門の内側から、冷たく澄んだ女性の声が聞こえた。
月明かりの下。
気品のある貴婦人が、ゆっくりと門の外へ歩み出てくる。
リサとよく似た金色の髪。
しかし、その目には彼女以上の鋭さと威厳があった。
「奥様!」
二人の護衛はすぐに槍を引き、頭を下げる。
貴婦人は地面に倒れているアーガへ視線を向けた。
「あなたがアーガ?」
アーガは痛みをこらえながら立ち上がる。
衣服についた土埃を、手で軽く払った。
「はい、奥様」
「私はリサの母、セレ・ベルマンです」
静かな声だった。
しかし、言葉の一つ一つに、人を圧倒する力が込められている。
「先ほど、凛冬王国が私の娘を密かに殺そうとしていると言いましたね」
鋭い目が、アーガを見据えた。
「詳しく説明しなさい」
アーガはシーリンの証言と、先ほど自分が襲われた経緯を手短に説明した。
話が進むにつれ、セレ夫人の表情は少しずつ険しくなっていく。
披肩を押さえていた指にも、強い力が込められた。
「やはり……」
彼女は低い声で呟く。
「リサが、まだ屋敷へ戻っていないのです」
セレ夫人は突然振り返った。
背後に控えていた執事へ、鋭い命令を下す。
「すぐに捜索の人員を増やしなさい!」
「学院から屋敷へ戻るまでの道を、一本残らず調べるのです!」
その声に、焦りが混じった。
「必ずリサを見つけなさい!」




