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第60話 勝負あり

一本の触手が正面から突き出された。


リサは身体を横へずらしてかわし、細剣を返すように振り下ろす。


今度こそ、葉刃が触手の先端を斬り落とした。


しかし、切断面から噴き出した墨が、一瞬でリサの剣身へ降りかかる。


柄が滑った。


リサの手首が、わずかにぶれる。


その一瞬を逃さず、別の触手が足元から飛び出し、彼女のふくらはぎへ巻きついた。


クララの目が輝く。


「捕まえた!」


残る三本の触手も同時に動いた。


一本は手首へ。


一本は腰へ。


そして最後の一本は、剣を握る右腕へ巻きついていく。


リサは床を強く踏み、力ずくで引きちぎろうとした。


だが、触手の表面を覆う粘液は、想像以上に滑りやすい。


剣で斬ろうとしても力を受け流され、蔦を巻きつけても、墨によって表面が滑ってしまう。


クララはすぐに後退し、リサとの距離を広げた。


決して接近を許さないつもりだった。


「ベルマンさん。正面から剣を交えれば、私では勝てないことくらい分かっています」


クララは荒い息を吐きながら言った。


「だから、近づかせなければいいんです」


リサは自分の身体へ巻きついた触手を見下ろした。


その表情に、焦りはなかった。


むしろ、深い水の底へ沈んでいくように、静かになっていく。


「アーガ」


「何だ?」


アーガはエドウィンに押され、後退を続けていた。


左手の短剣で斜めからの一撃をどうにか受け止める。


返事をする声にも、わずかな緊張が混じっていた。


「そっちは、あとどれくらい持つ?」


「たぶん……」


アーガは顔を傾けて剣先をかわした。


数本の髪が斬り落とされ、宙へ舞う。


「あまり長くは持たないな」


「なら、持たせなさい」


リサは深く息を吸った。


次の瞬間、淡い緑色の魔力が足元から湧き上がる。


最初に現れたのは、小さな葉だった。


葉は靴の表面へ張りつき、そのまま足首から上へ這い上がっていく。


やがて蔦のような紋様が、ふくらはぎ、腰、腕へと広がった。


まるで無数の細い枝葉が、リサの身体の上で一着の衣を編み上げているようだった。


クララの表情が変わる。


彼女はすぐに魔力の出力を引き上げた。


四本の触手が一斉に締めつける。


だが、今度はリサの身体まで届かなかった。


緑色の葉が肌の外側で重なり合い、身体に密着する薄い鎧を形成している。


無数の葉脈が編み込まれたような、薄く、しなやかな戦装束。


肩、肘、膝の外側からは、短い棘が生えていた。


触手が力を込めるたび、その棘が表面へ突き刺さり、次々と亀裂を作っていく。


「自然の鎧」


リサが小さく呟いた。


右腕を勢いよく持ち上げる。


腕に巻きついていた触手が、力ずくで押し広げられた。


細剣の上に、再び緑色の葉刃が灯る。


次の一撃で、リサは触手の柔らかい部分を狙わなかった。


斬りつけたのは、触手とクララの魔力をつなぐ根元だった。


ザシュッ!


一本の触手が、その場で魔力の粒子となって崩れ落ちる。


クララの顔から血の気が引いた。


衝撃を受けたように、二歩後退する。


「なんて魔力量……こんなことまでできるなんて」


クララは唇を震わせた。


「さすがは、大アルカナのタロットカード……」


リサが顔を上げる。


深い青色の瞳は、氷のように冷たかった。


「確かに、あなたは厄介ね」


その言葉が終わるのと同時に、リサは床を蹴った。


加速魔法のような爆発的な速さではない。


それでも、自然の鎧をまとった動きは、先ほどまでよりもはるかに安定していた。


左右から触手が振るわれる。


一本が肩へ命中した。


だが、自然の鎧の表面に浅い黒い跡を残しただけだった。


リサは攻撃を正面から受け止め、その勢いを利用してさらに踏み込む。


細剣の先端が、真っすぐクララへ迫った。


クララは慌てて大量の魔力を注ぎ込む。


触手の先端から、墨が一気に噴き出した。


黒い霧が爆発するように広がり、闘技場の半分近くを覆い隠した。


同じ頃。


アーガとエドウィンの戦いも、最も危険な局面を迎えていた。


エドウィンの剣は、時間が経つほど速くなっている。


硬化魔法の影響によって、正面から武器をぶつけ合えば、常にエドウィンの方が有利だった。


アーガの二刀は素早く、変化にも富んでいる。


しかし、あの長剣と正面から衝突した瞬間、強烈な衝撃によって構えを崩されてしまう。


何度も剣を交えた結果、アーガの肩、腕、額には、すでにいくつもの傷が刻まれていた。


額から流れた血が眉を伝い、目尻へ落ちてくる。


視界がわずかにかすんだ。


「もう、俺の動きについてこられていない」


エドウィンが言った。


アーガは長剣を受け止める。


右腕には、ほとんど感覚が残っていなかった。


「奇遇だな。俺もそう思ってたところだ」


エドウィンは挑発に反応しなかった。


一歩踏み込み、間合いの中心を奪う。


長剣が頭上から振り下ろされた。


アーガは身体を横へ動かした。


しかし、靴底が床に飛び散った墨を踏んでしまう。


回避が半歩遅れた。


剣先が肩をかすめる。


制服が裂け、その下からすぐに血がにじみ出した。


「ぐっ……」


アーガは低く呻き、足元をふらつかせる。


エドウィンの目が鋭くなった。


長剣を横へ倒し、そのまま硬化した剣身をアーガの右手の短剣へ叩きつける。


ガァン!


右手の短剣が弾き飛ばされた。


剣は空中で何度も回転しながら、闘技場の端へ落ちていく。


観客席から再び大きな声が上がった。


「剣が飛ばされた!」


「アーガが危ない!」


エドウィンはクララの方を見なかった。


リサの動きにも注意を向けていない。


すべての意識を、目の前にいるアーガへ集中させていた。


短剣を一本失った。


右肩も負傷している。


おまけに足元には、滑りやすい墨まで残っている。


この剣術勝負は、すでに決着した。


エドウィンは一歩前へ出た。


長剣の先端を、アーガの胸元へ突きつける。


「終わりだ」


アーガが顔を上げた。


額から流れた血が片方の目へ入り、その姿はひどく満身創痍に見える。


それでも。


アーガは笑った。


エドウィンの胸に、突然嫌な予感が走る。


次の瞬間。


目の前にいたアーガの身体が、かすかに揺らいだ。


風に吹かれた水面の影のように、輪郭が崩れていく。


エドウィンは反射的に足を止めた。


だが、もう遅かった。


黒い墨の霧の向こうから、一つの影が低い姿勢で飛び出した。


本物のアーガだ。


彼は墨の霧を利用し、エドウィンの死角を回り込んでいた。


身体中に傷を負い、額からは今も血が流れている。


左手には、残った一本の短剣。


そして右手のひらには、赤い炎が灯っていた。


「加速魔法」


アーガの姿が、一筋の残像となる。


クララは触手でリサを押し返し、再び距離を取ろうとしていた。


その背後から、焼けつくような風が吹きつける。


クララは勢いよく振り返った。


すでにアーガが、すぐ後ろまで迫っていた。


「火炎魔法」


短剣の刃に沿って、炎が燃え上がる。


一瞬のうちに、赤く輝く炎の剣が形作られた。


アーガは刃をクララの身体へ向けなかった。


炎をまとった剣の峰を使い、横薙ぎに振るう。


クララの背後にある触手が、本能的に主人を守ろうと動いた。


だが、炎は触手にとって最も相性の悪い攻撃だった。


青黒い触手が火へ触れた瞬間、表面の粘液がジュッと音を立てる。


触手全体が、苦しむ生き物のように大きく縮んだ。


アーガは一気に距離を詰めた。


「悪いな」


炎の剣の峰が、クララの肩口へ命中する。


直後、爆発するような熱風が広がった。


クララの身体は地面から浮き上がり、そのまま大きく後方へ吹き飛ばされる。


床へ倒れたクララには、もう立ち上がる力が残っていなかった。


審判が即座に片手を上げる。


「クララ、戦闘不能!」


観客席が一瞬だけ静まり返った。


次の瞬間、闘技場全体が爆発したような歓声に包まれる。


「今のは分身だったのか!?」


「あいつ、いつの間に覚えたんだ!」


「前の試合でノエルが使ったのを見たからじゃないか?」


「これが『鏡像』か! さすが黄道十二宮、蠍座のカードだ!」


エドウィンも、ようやく何が起きたのか理解した。


振り返る。


先ほど自分が剣を弾き飛ばしたはずの「アーガ」は、すでに淡い黒色の影となって崩れ始めていた。


本物のアーガは闘技場の反対側に立っている。


肩を大きく上下させ、苦しそうに息をしていた。


短剣を包んでいた炎も、少しずつ消えていく。


「お前……」


エドウィンの表情が、初めて大きく変わった。


アーガは額の血を手の甲で拭った。


だが、血は消えるどころか、顔中へさらに広がってしまう。


「本当に負けるところだった」


少しかすれた声で言った。


「剣術じゃ、やっぱりお前の方が上だよ」


エドウィンは何も答えなかった。


長剣を強く握り、アーガへ向かって駆け出そうとする。


しかし、その前に淡い緑色の影が立ち塞がった。


リサだった。


アーガとエドウィンの間に立ち、自然の鎧をまとったまま細剣を構えている。


葉のような紋様が腕から剣の柄まで伸びていた。


頬には黒い墨が付着し、金色の髪も乱れている。


それでも、その目は変わらず冷静だった。


「あなたの相手は、私よ」


エドウィンはわずかに沈黙した。


それから長剣を持ち上げる。


「なら、先にお前を倒す」


硬化魔法が再び発動する。


剣身が重々しい鉄灰色の光に包まれた。


エドウィンは床を踏み込み、一気に距離を詰める。


振り下ろされた長剣が、強烈な風を巻き起こした。


リサは避けなかった。


細剣を持ち上げ、正面から受け止める。


ガァン!


重い衝突音が響いた。


周囲の空気まで震えたように感じられる。


リサの足元で、木製の床に細い亀裂が走った。


だが、彼女は一歩も後退しなかった。


自然の鎧の肩と腕に、細かな緑色の紋様が浮かび上がる。


長剣から伝わった衝撃が、鎧を通して全身へ少しずつ分散されていった。


エドウィンの目が見開かれる。


リサはその一瞬を逃さなかった。


左手を床へ向ける。


何本もの蔦が、エドウィンの足元から飛び出した。


エドウィンの反応は速かった。


すぐに後方へ下がる。


しかし、蔦の一部が剣の柄と手首へ巻きついた。


エドウィンは腕へ力を込める。


硬化された刃が蔦を斬り裂いた。


だが、その間にリサはすでに懐へ入り込んでいる。


細剣に沿って、葉刃が伸びた。


紙のように薄く、それでいて鋭い緑色の刃。


一撃目。


リサはエドウィンの右肩を突いた。


エドウィンは長剣を持ち上げ、攻撃を防ぐ。


二撃目。


細剣の軌道が瞬時に変わり、手首を狙った。


硬化魔法へ魔力を送り込むエドウィンの呼吸と動きが乱れる。


そして三撃目。


リサは剣先を下から跳ね上げ、長剣の鍔に近い部分へ正確にぶつけた。


キィン!


エドウィンの剣が、ついに大きく横へ逸れる。


「終わりよ」


リサが細剣を返した。


葉刃がエドウィンの手の甲すれすれを通過する。


エドウィンは反射的に柄から手を離した。


長剣が空中へ弾き飛ばされ、闘技場の床へ深々と突き刺さる。


剣身が、低い音を立てながら震え続けていた。


次の瞬間。


リサの細剣の先端が、エドウィンの喉元で止まる。


エドウィンはその場に立ち尽くした。


胸が大きく上下し、額から一滴の汗が流れ落ちる。


場外で医療班に支えられているクララを見る。


次に、傷だらけになりながらも立ち続けているアーガへ視線を向けた。


最後に、ゆっくりと片手を上げる。


「……降参だ」


審判の声が、闘技場全体へ響き渡った。


「試合終了!」


一度言葉を切り、勝者へ片手を向ける。


「勝者、アーガ・ラインハルト、リサ・ベルマン――『黄金の刃』!」


歓声が大きな波となって押し寄せた。


アーガはようやく息を吐く。


全身から力が抜け、その場へ座り込みそうになった。


何も握っていない右手を見下ろし、続いて闘技場の端へ飛ばされた短剣を見る。


「また剣を飛ばされたな……」


リサは自然の鎧を解除した。


身体を覆っていた緑色の葉が、一枚ずつ光の粒となって消えていく。


彼女はアーガの前まで歩いてくると、額から流れる血を拭った。


アーガはため息をつく。


まだ自分で歩けると言おうとした。


だが、足を一歩動かした瞬間、先ほど床へ飛び散った墨を踏みそうになる。


身体が横へ傾いた。


リサが素早く腕をつかむ。


二人の視線が、一瞬だけ重なった。


アーガは気まずそうに笑う。


「最後の最後まで、タコの魔法に邪魔されたな」


リサは呆れたように彼を睨んだ。


アーガは顔を上げる。


今も歓声を上げ続けている観客席。


医療班に支えられ、立ち上がったクララとエドウィン。


その姿を順番に眺め、静かに息を吐いた。


「勝ったな」


リサは少しだけ沈黙した。


やがて、その口元がわずかに持ち上がる。


「ええ。勝ったわ」


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