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第 58 話 ノエル

「お前が家のためにどれだけ頑張ってきたか、俺は知ってる!」


アーガはノエルの腕をつかみ、背負い投げで床へ叩きつけた。


「リサが初めてうちの家に喧嘩を売ってきたときだって、俺が怪我をしたあと、父さんに俺のしたことをきちんと伝えてくれた!」


「貴族と付き合って人脈を広げてるのも、全部家のためだろ!」


ノエルの肩を床へ押さえつける。


「普段はそんなに冷静なのに、どうしてこのことだけは、俺に相談しようとしなかったんだよ!」


ノエルの抵抗が、突然止まった。


しかしすぐにアーガを振り払い、立ち上がると、顔を歪めて拳を振るう。


「それなら……どうしてお前の方から、俺に話しかけなかったんだ……!」


「何度も話しかけた!」


アーガも怒鳴り返す。


「でも挨拶するたびに、お前は冷たい顔をしてただろ! あれでどうやって話を切り出せっていうんだよ!」


ノエルの表情が大きく歪んだ。


我を忘れたように拳を振り回す。


だが、もう動きには何の型もなかった。


アーガは隙を見抜き、強く踏み込む。


渾身の拳を、ノエルの顔へ叩き込んだ。


ドン!


ノエルはそのまま床へ倒れ、完全に意識を失った。


アーガは荒い息を吐きながら立ち上がる。


そして気絶した兄へ向かって叫んだ。


「お前が俺に勝てるわけないだろ、この馬鹿二兄!」


言い終えると、一度も振り返らずに闘技台の外へ向かった。


血まみれの拳が、わずかに震えている。


リサは何も言わず、そのあとを追った。


退場通路へ入ると、一枚のハンカチを差し出す。


アーガは受け取って初めて、自分の指の関節がすでに血まみれになっていることに気づいた。


審判は、そこでようやく我に返った。


「勝者――アーガ、リサ両名による『金色の剣刃』!」


観客席から、遅れて大きな歓声が湧き上がった。


それでもアーガは足を止めなかった。


長い通路を歩き続ける。


照明に照らされた影が後ろへ長く伸び、まるで長年胸に積もっていた感情を、すべて置き去りにしようとしているかのようだった。


試合会場を出た直後、アーガの視界が急に暗くなった。


足から力が抜け、危うく膝をつきそうになる。


リサが素早く肩を支えた。


腕から伝わってきた温もりに、アーガはわずかに目を見開く。


「医務室へ行きましょう」


リサの声は普段より柔らかかった。


しかし、支える腕の力には拒否を許さない強さがあった。


アーガはうなずき、彼女に支えられながら長い廊下を進んだ。


陽光が廊下のステンドグラスを通り、二人の身体へ色とりどりの影を落とす。


「手加減したことは、まだいいです」


リサが突然口を開いた。


声には、明らかな不満が含まれている。


「でも、どうして攻撃まで避けなかったんですか?」


アーガは首を横に振った。


「もう何年もこうだったから……そろそろ、きちんと決着をつけたかったんだ」


リサの指先に、わずかに力が入った。


「今回だけですからね」


一度言葉を止め、急に声を冷たくする。


「次にまた自分の身体を粗末にしたら、その前に私があなたを倒します」


「はいはい。分かったよ」


アーガは小さく笑った。


医務室へ入ると、消毒薬の匂いが鼻をついた。


アーガが病床へ腰を下ろした直後、ミロと一年生のユノが慌ただしく飛び込んできた。


「大丈夫か?」


ミロの太い腕には、まだ訓練場の泥がついている。


ユノは不安そうに指を絡ませた。


「と、特効薬を調合しましょうか?」


「大丈夫。心配してくれてありがとう」


アーガは、どうにか笑みを作った。


そのとき、医務室の扉が再び開いた。


入ってきたのはカイミだった。


その後ろには、図書室で会ったシリンもいる。


さらに意外なことに、廊下にはアーガが名前すら知らない生徒たちまで集まっていた。


窓の外から、恥ずかしそうに顔だけをのぞかせている者もいる。


「これは……」


アーガは言葉を失った。


リサは腕を組んで横に立ち、からかうような笑みを浮かべている。


「本当に人気者だったんですね」


「君が同じ怪我をしたら」


アーガは困ったようにこめかみを揉んだ。


「こんな程度じゃ済まないと思うけど」


間もなく、医務室の中には次々と人が集まり、周囲はすっかり騒がしくなった。


アーガはついに耐えきれず、病床から身体を起こした。


「俺は大丈夫です!」


「本当に大丈夫ですから! 心配してくれてありがとうございます! みんな戻ってください!」


生徒たちは名残惜しそうにしながら、ようやく去っていった。


最後の足音が廊下の奥へ消えると、アーガは力が抜けたように枕へ倒れ込んだ。


長く息を吐く。


医務室は、ようやく静けさを取り戻した。


窓の外から、ときおり鳥の鳴き声だけが聞こえる。


アーガは目を閉じた。


張り詰めていた神経が、少しずつ緩んでいく。


いつの間にか、リサは病床の隣にある椅子へ座っていた。


一冊の魔法書を静かにめくっている。


金色の毛先が陽光を受け、柔らかな光をまとっていた。


その瞬間、すべての騒ぎも争いも、遠くへ消えていったように感じられた。


————


医務室のカーテンが、微風に揺れていた。


陽光が床へまだらな影を落としている。


アーガは寝台の背へ身体を預け、本を読んでいた。


扉が静かに開かれる。


眩い陽光を受けた金髪を輝かせながら、リサが一枚の羊皮紙を手に入ってきた。


「新しい対戦表が出ました」


羊皮紙を広げ、口元をわずかに上げる。


「私たち、また不戦勝です」


アーガは本を閉じ、驚いたように眉を上げた。


「そんな偶然があるのか? ずいぶん運がいいな」


リサは小さく笑った。


深青色の瞳に、いたずらっぽい光が浮かんでいる。


「偶然ではありません」


病床へ近づき、アーガの耳元へ顔を寄せた。


「担当の人へ話を通して、私たちを不戦勝にしてもらったんです」


アーガの耳先が、一瞬で赤くなった。


反射的に少し後ろへ身体を引く。


「えっと……じゃあ、前のときも……?」


「前回は違います」


リサは身体を起こし、両腕を組んだ。


「前回は本当に運です。でも今回は……」


もう一度少し近づき、声をさらに小さくする。


「私が不戦勝にしてもらいました」


アーガは落ち着かない様子で頭をかいた。


「そ、そうなんだ」


「ほかに何があるんですか?」


リサは窓辺へ向かった。


陽光が細い身体の輪郭を浮かび上がらせる。


「次の試合は午後でした。そこまでに、その怪我が完全に治るはずがありません」


「魔力なら、どうにか大半は回復したでしょうけど」


アーガは包帯だらけの両手を見下ろした。


指を軽く動かすと、関節から刺すような痛みが走る。


リサの背中を見つめて言った。


「ありがとう」


リサは振り返らなかった。


ただ、小さく「ええ」とだけ答えた。


陽光が金髪を通り抜け、医務室の床へ細かな光を落としていた。


その午後、アーガは静かに病床で休み続けた。


窓の外では、太陽が傾くにつれて木々の影もゆっくりと動いていく。


医務室には薬草の爽やかな香りが満ちていた。


ときおり看護師が傷の具合を確認し、足音を立てないように部屋から出ていった。


夕方になると、夕陽が部屋全体を暖かな橙色へ染めた。


アーガが腕を動かそうとしていると、突然扉が開いた。


顔を上げる。


入口にはノエルが立っていた。


顔にはまだいくつかの痣が残っている。


しかし、その瞳は以前よりずっと落ち着いていた。


二人はしばらく見つめ合った。


部屋には、何とも言えない沈黙が流れる。


「二兄」


先に口を開いたのはアーガだった。


自分で思っていたより、声は落ち着いている。


「また不戦勝だったらしいな?」


ノエルは近くの椅子を引き寄せ、そのまま腰を下ろした。


木製の脚が床を擦り、小さな音を立てる。


口調からは感情を読み取れなかった。


ただ、視線はアーガの包帯を巻いた指へ一瞬だけ止まった。


アーガは本を閉じた。


ページが、かすかな音を立てる。


「うん。運がよかった」


短く答えた。


窓から差し込む光が、灰青色の瞳へ細かな金色を映している。


ノエルは小さく鼻を鳴らし、襟元を整えた。


「前も運で、今回も運なのか?」


声には多少の疑いがあった。


だが、以前のような鋭い敵意はもうない。


二人の間の沈黙も、以前ほど息苦しいものではなかった。


医務室には心を落ち着かせる薬草の香りが漂っている。


遠くからは、放課後を迎えた生徒たちの笑い声が聞こえていた。


静かな空間に、わずかな生活の気配が混じっている。


アーガは指を軽く動かした。


関節には、まだ微かな痛みが残っている。


それでも朝と比べれば、ずっとよくなっていた。


「その手……」


ノエルが突然口を開いた。


すぐに言葉を付け足す。


「明日の試合に影響させるなよ」


「明日には包帯を外せるって」


アーガはノエルの顔に残る痣を見た。


どれも、自分が闘技台でつけた傷だった。


「それより、そっちは……」


「大したことない」


ノエルは無意識に頬へ触れた。


「どうせ俺は、明日もう試合がないからな」


アーガは思わず笑った。


「そうだな。兄さんは頑丈だし」


「また殴られたいのか?」


ノエルは睨んだ。


しかし、その瞳にはもう以前のような陰りがない。


立ち上がると、窓辺まで歩き、外の景色を眺めた。


夕陽が横顔へ柔らかな金色をまとわせる。


「きちんと休めよ」


アーガはうなずいた。


それ以上は何も言わなかった。


ノエルにとって、これだけでも珍しいほど素直な言葉だと分かっていたからだ。


ノエルの表情が、わずかに緩んだ。


アーガへ背を向けたまま言う。


「俺はずっと……お前が俺の気持ちなんて、何も気にしていないと思っていた」


「そんなわけないだろ」


アーガは苦笑した。


「どう話しかければいいのか、分からなかっただけだ」


「話をしようと思っても、兄さんはいつも冷たい顔でどこかへ行くし」


「……悪かった」


ノエルの声は、とても小さかった。


「俺も……悪かったよ」


アーガは答えた。


「あのことは、今度家に帰ったとき、俺から父さんと母さんに話す」


再び沈黙が訪れる。


しかし今度は、少しも不快ではなかった。


ノエルは振り返った。


背後から差し込む夕陽によって、その姿は影のように縁取られている。


「そうか。それじゃ、俺はもう行く」


扉へ向かい、取っ手へ手をかけたところで一度止まった。


「明日……無様に負けるなよ」


ノエルが扉を開けて出ていく。


医務室の扉は、小さく軋む音を立てて再び閉じた。


アーガは、その扉をしばらく見つめていた。


窓の外では、夕陽がすでに地平線の向こうへ完全に沈んでいる。


暮れ始めた空に、最初の星が静かに輝き始めていた。


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