第 57 話 お前の影の中で
フーカは、アーガとリサの距離を絶えず見つめていた。
二人が近づくたび、指先から伸びる紫色の線が、極めて厄介な角度から放たれる。
正面から当てようとしているのではない。
二人の位置を、強制的に変えさせているのだ。
一度。
二度。
三度。
紫色の線が、目に見えない蛇のように闘技台を走り回る。
アーガは、ノエルの分身の脇から飛んできた紫色の線を身体を傾けて避けた。
胸の中に、わずかな警戒が生まれる。
(こいつ、ただ後ろに隠れているだけじゃない)
フーカ自身の実力は、確かに高くない。
動きも遅く、正面から戦えばリサの攻撃を三度も耐えられないだろう。
しかし、自分の魔法が届く距離と、発動するタイミングを正確に把握していた。
ノエルが分身で視界を遮り、フーカはその陰から紫色の線を放つ。
そのためアーガとリサは、常に意識の一部をフーカへ向けなければならなかった。
一度でも失敗すれば、つながれてしまう。
「リサ、左!」
アーガが叫ぶと同時に、右の掌へ炎が灯った。
「炎魔法!」
火球が地面すれすれを転がり、リサの左側で炸裂する。
陰から近づいていたノエルの分身が、炎に追い立てられて姿を現した。
リサは振り返ることすらしなかった。
細剣を背後へ突き出し、葉の刃で分身の胸を正確に貫く。
分身が霧となって消えた。
闘技台に残っているのは、ノエル本人と分身一体だけ。
戦況は、完全にアーガたちへ傾いていた。
リサもそれを察した。
突然進路を変え、ノエルを追うのをやめる。
足を踏み替え、そのままフーカへ一直線に駆け出した。
フーカの顔色が、ついに変わった。
右手を勢いよく振り、三本の紫色の線を同時に放つ。
一本は正面を塞ぎ、一本は右側から回り込み、残る一本は地面を這ってリサの足元へ向かった。
それでもリサは止まらない。
左足で一本の蔓を踏む。
次の瞬間、蔓が勢いよく跳ね上がり、彼女の身体を丸ごと空中へ押し上げた。
三本の紫色の線は、すべて足元を通り過ぎる。
「茨の槍」
空中にいる間に、リサは左手を前へ向けていた。
闘技台の縁から、太い茨が何本も勢いよく伸び上がる。
先端が槍の形へ変わり、風を切り裂きながらフーカへ突進した。
フーカは慌てて後退する。
ノエルの最後の分身が、すぐに彼の前へ割り込んだ。
茨の槍に正面から貫かれ、黒い霧となって弾ける。
ノエル本人も救援へ向かおうとした。
しかし、その前にはすでにアーガが立っていた。
二本の刀を交差させる。
刃には、淡い磁力の光がまだ残っている。
「お前の相手は俺だ」
ノエルは歯を食いしばり、短剣を逆手に持って突進した。
その頃、リサはすでに地面へ降りていた。
足元から伸びた蔓が生き物のように広がり、一瞬でフーカの足首へ絡みつく。
フーカが俯いて振りほどこうとしたときには、リサの剣先が喉元からわずか半寸の位置で止まっていた。
淡緑色の葉の刃が、小さく震えている。
あと少し前へ出れば、勝負は決まる。
「終わりです」
リサが告げた。
フーカは顔を上げる。
その顔は青ざめていたが、口元には突然、わずかな笑みが浮かんだ。
リサの瞳が細くなる。
紫色の線が、フーカの袖口から飛び出した。
ほとんど腕へ触れるほどの至近距離だった。
それでもリサは避けた。
身体を強引にひねり、金色の馬尾が空中へ弧を描く。
紫色の線は肩をかすめるように通り過ぎ、彼女へ触れることはなかった。
観客席から、一斉に非難の声が上がった。
「卑怯すぎるだろ!」
「もう負けてたじゃないか!」
同時に、リサは剣の柄をフーカの胸へ強く叩き込んだ。
ドン!
フーカの身体が吹き飛び、闘技台へ激しく倒れ込む。
胸を大きく上下させながらも、顔の笑みは完全には消えていなかった。
リサは眉をひそめて彼を見下ろす。
自分を囮にして、アーガへ線をつなげようとしたのだろう。
だが、それでは意味がない。
そう考えた直後、リサは違和感に気づいた。
フーカは彼女を見ていなかった。
視線はリサの向こう側、背後へ向けられている。
リサは勢いよく振り返った。
闘技台の反対側。
アーガはその場で立ち止まり、二本の刀を身体の横へ下ろしていた。
向かいにいるノエルも、動きを止めている。
ほとんど見えないほど細い紫色の線が、アーガの胸元から伸びていた。
もう一端は、ノエルへつながっている。
リサの表情が明らかに変わった。
「《共有魔法》は、術者以外の二人をつなぐこともできるんですか……?」
ノエルは、自分の手の甲へ急速に広がる魔力の紋様を見下ろした。
最初は呆然としていた。
やがて肩が震え始める。
恐怖ではない。
興奮だった。
呼吸が荒くなり、瞳が少しずつ輝いていく。
長い間求め続けていたものを、ついに手に入れたかのようだった。
消耗によって乱れていた魔力が、再び全身へ満ちていく。
それどころか、試合開始時よりも強くなっていた。
「これが……お前の魔力か?」
ノエルは顔を上げた。
口元に浮かぶ笑みを、抑えきれなくなっている。
アーガは胸元の紫色の線を見下ろし、わずかに眉を寄せた。
自分の魔力が、線の先から引かれていることが分かる。
完全に奪われているわけではない。
まるで二人が、突然同じ池へ足を踏み入れたような感覚だった。
ノエルはアーガ側の水流を利用できる。
同時にアーガも、ノエルから伝わる乱れた、焦りに満ちた波動を感じ取っていた。
床へ倒れたフーカが咳き込んだ。
かすれた声には、得意げな響きがある。
「誰が……《共有魔法》は、術者と相手しかつなげないと言った?」
「この線は、第三者が切断できます」
リサは細剣を握り直し、すぐに一歩踏み出した。
「私が――」
「来ないで」
アーガが突然言った。
「アーガ・ラインハルト」
ノエルは一語ずつ、噛み締めるように告げた。
「俺とお前の決着を、今日ここでつける」
リサは歯を食いしばった。
まだ前へ出ようとしている。
ノエルがアーガへ何をするか分からず、不安だった。
しかしアーガは振り返らない。
右手をゆっくり持ち上げると、二本の刀が陽光を受けて冷たく輝いた。
「リサ、来なくていい」
落ち着いた声で告げる。
「ここは俺に任せて」
リサは少し考えたあと、心配そうな表情でため息をついた。
「……分かりました」
その後は、派手な魔法もなかった。
相手の隙を突く戦術もない。
残ったのは、最も原始的な殴り合いだけだった。
拳と拳がぶつかる鈍い音が、闘技台へ響き渡る。
一撃ごとに、兄弟の間で積もり続けた長年の感情が込められていた。
「アーガ・ラインハルト! 全部お前のせいだ!」
ノエルが怒鳴った。
「はあ? むしろ俺が聞きたいよ!」
アーガは肘でノエルを押し戻した。
「どうして……そこまで俺を憎むんだ?」
ノエルは口の中の血を吐き捨て、反対の拳でアーガの頬を殴った。
「お前が、本来俺のものだったすべてを奪ったからだ!」
アーガはよろめきながらも踏みとどまり、口元の血を拭った。
「俺は奪おうとしたことなんて――」
「黙れ!」
ノエルが叫びながら飛びかかる。
二人は絡み合ったまま、闘技台の上を転がった。
激しい取っ組み合いによって、床板が耐えきれないような軋み声を上げる。
観客席は静まり返っていた。
全員が息を殺し、凄惨な兄弟対決を見つめている。
リサも拳を強く握り締めていた。
爪が掌へ深く食い込んでいる。
再び距離を取ったとき、二人の身体はすでに傷だらけだった。
アーガはまだましだったが、ノエルは片目が腫れ上がり、ほとんど開かなくなっている。
突然、アーガは左手の刀をノエルへ投げた。
刀身が空中へ銀色の弧を描く。
「来いよ」
もう一本の刀を構え、切っ先をわずかに下げた。
ノエルは飛んできた刀を受け取り、冷たく笑った。
「望むところだ」
二つの刃が激突し、火花が飛び散る。
それでも、二人の会話は止まらなかった。
「物心がついた頃から――」
ノエルが横薙ぎを放ち、アーガを後退させる。
「俺の耳に入るのは、お前を褒める言葉ばかりだった!」
「『アーガ様は幼いのに聡明だ』」
「『アーガ様は努力家で、勉学にも熱心だ』ってな!」
アーガは攻撃を受け流し、反対に鋭い突きを返した。
「でも父さんも母さんも、俺たちを差別したことなんてないだろ!」
「むしろ、お前のことを気にかけていたくらいだ!」
「そんな気遣いなんていらない!」
ノエルの怒号とともに、剣の勢いがさらに鋭くなる。
「俺が外で遊んでいるたび、友達の親はお前のことを聞いてきた!」
「幼いのに家へこもって魔法書を読んでいる、立派な弟だとな!」
「一緒に魔法を習っていたときだって――」
「不満なら努力すればよかっただろ!」
アーガは突然力を込めた。
刀が完璧な弧を描き、ノエルの剣を大きく跳ね飛ばす。
「家族も先生も、俺たちへの接し方を変えたことなんてない!」
刀の切っ先を、ノエルの喉元へ突きつけた。
「兄さん。自分で勝手に卑屈になっていただけだ!」
「お前に何が分かる!」
ノエルの目が真っ赤に染まった。
「俺が欲しかったのは、普通の子供時代だった!」
「一日中、お前の影の中で生き続けることじゃない!」
ノエルはアーガの刀を強く払い、雨のように拳を振り下ろした。
「それに、そもそも……お前は本当に……」
最後の言葉は、急に小さくなった。
「父さんと母さんの、本当の子供なのか?」
アーガは心の中で息を呑んだ。
これまで長い間、その問題へ真正面から向き合ったことはなかった。
珍しく動揺し、何を言えばいいのか分からなくなる。
やがて自分の刀も脇へ投げ捨て、ノエルの拳へ正面から飛び込んだ。
そのまま襟を強くつかむ。
「俺が本当の子供かどうか、お前はどう思ってるんだよ!」
声はかすれていた。
「不満があるなら、はっきり言えよ!」
「毎日不機嫌そうな顔をして、父さんや母さんにも相談しない。俺にも何も言わない!」
「何も話さなかったら、どうやって解決するんだよ!」
闘技台の上で、兄弟は再び取っ組み合いになった。
場外に立つリサの深青色の瞳には、複雑な感情が浮かんでいる。
観客席は、物音一つしないほど静かだった。
二人の会話までは聞き取れない。
それでも誰もが息を殺し、予想もしなかった展開を見守っていた。




