第 55 話 次の相手はノエル
アーガの視界の端に、淡い青色のスカートが映った。
顔を上げると、琥珀色の瞳と目が合う。
昨日の第一回戦で戦ったシリンだった。
何冊もの分厚い本を抱え、髪の先には朝露の湿り気が残っている。
「アーガ先輩?」
シリンの声は、羽根が床へ落ちるように柔らかかった。
「本当に先輩だったんですね」
アーガは本を閉じ、礼儀として軽くうなずいた。
「おはよう」
シリンはアーガの前に開かれた本へ目を落とし、わずかに目を見開いた。
「先輩も魔法道具に興味があるんですか?」
自分が持っていた『魔法道具の原理』を、静かに机へ置く。
金箔で記された書名が、朝日を受けて輝いた。
「少し見てるだけだよ」
アーガは無意識に鼻へ触れた。
以前、魔動儀を知らなかったことでリサにからかわれたことを思い出す。
「前にグルバート家へ行ったとき、魔動儀すら知らなくてね。ある人から随分と説教されたんだ」
「そうだったんですか」
シリンは口元を手で隠して小さく笑った。
髪につけた銀鈴の飾りが、かすかな音を鳴らす。
「先輩は、本当にいろいろなことを勉強しているんですね」
彼女は少し迷ったあと、指先で本の角を無意識になぞった。
「あの……ここに座ってもいいですか?」
アーガは周囲に並ぶ空席を見渡した。
それでも、特に断る理由はなかった。
「どうぞ」
シリンは慎重にスカートの裾を整え、隣の席へ腰を下ろした。
二人の間に、短い沈黙が流れる。
「先輩……」
シリンが突然口を開いた。
先ほどよりも、少し声が小さくなっている。
「相棒のマーチは、昨日の試合後に先輩へ迷惑をかけませんでしたか?」
アーガの視線は、変わらず本の上にあった。
「少しだけ」
羊皮紙のページを一枚めくる。
「もう気にしてないよ」
「彼は、いつもすぐ熱くなってしまうんです」
シリンはため息をつき、鞄から羽根ペンを取り出した。
筆記帳へ、何かを書き込み始める。
「今度、きちんと注意しておきます」
アーガは曖昧に返事をし、魔力探知装置について書かれた章へ意識を戻した。
陽光が少しずつ机の端まで移動し、シリンの整った筆記を明るく照らす。
そこには、カードの組み合わせに関する式が隙間なく書き込まれていた。
「先輩……」
シリンが再び口を開いた。
今度の声には、わずかな期待が込められている。
「カードの魔力出力について、どうしても分からない部分があるんです」
「普段、たまに先輩の教室へ質問しに行ってもいいですか?」
アーガの指先で、羽根ペンの動きが止まった。
顔を上げ、初めて目の前の二年生をじっくりと見る。
琥珀色の瞳には、少し強すぎるほどの期待が浮かんでいた。
身体も無意識に前へ傾き、重要な返事を待つかのように呼吸まで浅くなっている。
「普段は少し難しいと思う」
アーガは本を閉じた。
「先生たちが毎日、執務室で質問を受けつけているだろ?」
シリンの瞳から、一瞬だけ光が消えた。
しかし、すぐに笑顔を取り戻す。
「そうですよね。残念です」
乱れた髪を耳の後ろへかけ、最初と同じ明るい声へ戻った。
「でも先輩が二年生の校舎で困ったことがあったら、いつでも私を訪ねてくださいね」
アーガはうなずき、再び本を開いた。
シリンもそれ以上は話さず、自分の研究へ静かに戻っていく。
二人はそのまま隣り合って座り続けた。
聞こえるのは、ページをめくる音と、羽根ペンが紙の上を走る音だけだった。
窓の外では、雲の影がゆっくりと動いていた。
図書室を利用する生徒も、次第に増えていく。
鐘楼から十一回の鐘が鳴ると、アーガは本を閉じて立ち上がった。
シリンが顔を上げる。
陽光が睫毛へ落ち、細かな金色の影を作っていた。
「もう行くんですか?」
「うん。午後にも試合があるから」
アーガは本を棚へ戻した。
その場を離れる前に、少しだけ足を止める。
「君の筆記帳、第七ページの三つ目の式だけど、魔力の流れる方向が逆になってるよ」
シリンは目を丸くした。
慌てて筆記帳を開き、該当する箇所を確認する。
頬には、淡い赤みが浮かんでいた。
「あ、ありがとうございます、先輩!」
アーガは軽く手を振り、図書室を出た。
一度深く息を吸い、先ほどの出来事を頭の外へ追い出す。
今、最も気にするべきなのは午後の試合だった。
図書室を出ると、昼の陽光が朝から降っていた細雨をすっかり追い払っていた。
アーガは大きく伸びをする。
ちょうど腹も空腹を訴え始めたため、そのまま食堂へ向かった。
校舎の角を曲がると、見覚えのある金色が目に入った。
リサがプラタナスの木の下へ寄りかかっている。
葉の隙間を通った陽光が、彼女の顔へまだらな影を落としていた。
手の中では、一枚の青いカードを弄んでいる。
アーガが近づいても顔を上げずに尋ねた。
「勉強はどうでしたか?」
「面白いものをいろいろ見つけたよ」
アーガが隣へ並ぶと、二人は自然に歩き始めた。
「『時緩の門』っていう魔法装置があるらしい」
「門の内側にある空間だけ、時間の流れを外の三分の一にできるんだって。訓練には最高の装置だろ」
リサの深青色の瞳が、わずかに大きくなった。
「あれですか……」
指先で無意識に一房の金髪を巻く。
「確かに、とても不思議な装置ですね。でも世界中にも数えるほどしかなくて、この王国にも二台しかないと聞きました」
「二台?」
アーガは彼女の言葉を引き継いだ。
二人は同じタイミングで、道にできた水たまりを跨いだ。
「どこにあるか知ってる?」
「噂で聞いただけです」
リサは首を横に振った。
陽光が睫毛の上で跳ねている。
「王家か、どこかの大貴族が所有しているのではないでしょうか」
そこで突然、話題を変えた。
「先ほど、面白いものをいろいろ見つけたと言いましたよね」
「『時緩の門』以外には何がありましたか?」
アーガは答えようとしたが、何かを思い出したように鼻へ触れた。
「いや……実は、あまり集中できなかったんだ」
「シリンがわざわざ隣に座ってきて、何となく落ち着かなくてさ」
リサの足が、突然止まった。
細剣の鞘が石段へ当たり、カツンと音を立てる。
「は?」
声が急に高くなった。
「すぐ隣に座ったんですか?」
「怪しいとは思わなかったんですか?」
「別に……」
アーガは彼女の反応に驚いた。
少し気まずそうに付け加える。
「俺は学院では、昔からそれなりに人気があったし……異性から話しかけられるくらい、普通じゃないか?」
「は?」
リサは、信じられない話を聞いたような顔をした。
「私は知りませんけど?」
二人が食堂へ入ると、料理の香りが正面から漂ってきた。
アーガは盆を取りながら説明する。
「一応、ずっと学年一位だし、入学した頃は新聞の一面にも載ったんだぞ」
肩をすくめた。
「君が知らないのは、一年生と二年生の頃、俺のことをまったく気にしてなかったからだろ」
リサの金髪が、陽光を受けて細かく輝いている。
彼女はわずかに目を細めた。
「なるほど……」
しかし、声には疑いが満ちていた。
「それでも信じられません」
「おい!」
アーガは不満そうに、皿へ焼き肉を一切れ載せた。
「俺だって、それなりに人気があるんだよ」
「それなら、どうして同じ机に座っていたときは、まったくそんな様子がなかったんですか?」
リサは最後に残った菓子を正確につかみ取った。
口元には、からかうような笑みが浮かんでいる。
「あの頃には、もう三年生だっただろ」
アーガは中身のなくなった料理用の挟みを見た。
「新聞の一面に載ってから、二年も経ってたんだ。もう話題性なんてなくなってたよ」
少し考えてから続ける。
「三年生が始まった頃は、グルバート家の暗殺事件を解決したことで、また少し注目されたけど」
「でも、それほど大きな事件でもなかったし、当時は俺も忙しかった」
「妙な目的で近づいてくる人への対応にも慣れてたから、軽く挨拶するくらいで終わらせてたんだ」
リサは考え込むようにフォークを軽く噛んだ。
「へえ……まったく、そうは見えませんね」
彼女は食堂の中を見渡した。
何人かの下級生の女子が、遠くからこちらを盗み見ている。
リサが視線を向けると、全員が慌てて顔を伏せた。
「意味のない付き合いは好きじゃないんだ」
アーガは最後にそう言い、切り分けた牛肉を口へ運んだ。
二人は静かに昼食を取った。
窓の外では、雲の影がゆっくりと流れている。
食事を終えると、中央広場に設置された対戦表の前へ向かった。
巨大な羊皮紙には、敗退した組の名前へ赤い線が引かれていた。
現在残っているのは、十三組だけだった。
「また一組が不戦勝になるのか……」
アーガが言い終えた直後、係員が新しい対戦表を持って現れた。
掲示板へ丁寧に貼りつける。
二人が近づいて確認すると、次の対戦相手の欄には、はっきりと名前が書かれていた。
ノエル・ラインハルト。
フーカ・クライスト。
「ノエル?」
リサが先に声を上げた。
眉が強く寄せられている。
アーガも驚いた表情を浮かべた。
「まだ勝ち残ってたのか?」
顎へ手を当て、考え始める。
「相棒がかなり強いのかな。でも同学年で一番強いのは俺たち二人のはずだ」
「いくら相棒が強くても、ノエルを連れてここまで勝ち続けるのは難しいと思うけど……」
リサの細い指が、対戦表に並ぶ名前をなぞった。
見覚えのない名前の上で止まる。
「アーガ、見てください」
「私の記憶では、同学年に『フーカ・クライスト』という生徒はいなかったと思います」
アーガも記憶を探ったあと、首を横に振った。
「俺も知らない……待って、クライスト?」
「確か、王都の大貴族にそういう姓があったような」
「思い出しました」
リサの深青色の瞳に鋭い光が宿った。
「四年生です。去年、王都の社交期に一度会いました」
「クライスト侯爵家の次男です」
アーガは苦笑した。
「さすがノエルだな。今までの社交も無駄じゃなかったらしい」
「こんな貴族と組めるなんて。それも四年生か」
対戦表を見つめる声が、少し慎重なものへ変わった。
「今回は、簡単な相手じゃなさそうだ」
「先に二人の戦い方を調べた方がいい」
リサはうなずき、広場に集まる生徒たちを見渡した。
「二人の試合を見た人がいないか、聞いてきます」




