第 49 話 正体を現した夜鴆
《夜鴆》は反射的に後ずさり、背中を彫刻の施された寝台の柱へぶつけた。
今もカーンの整った顔をしている。
しかし、先ほどまでの余裕は完全に消えていた。
「ば、馬鹿な!」
指先をわずかに震わせながら、それでも必死に言い訳を続ける。
「私は刺客の真似をして、ベラに警戒心を持たせようとしただけだ。それの何が悪い?」
ガレスが人々の後ろから前へ出た。
革製の手袋をはめ、寝台の人形にできた傷口から、綿を少しだけつまみ上げる。
幽緑色の毒液が手袋を伝って落ちた。
床へ触れた瞬間、黒く焦げた小さな穴ができる。
「《夜鴆》の毒を使って、警戒心を鍛えるつもりだったと?」
ガレスは冷たく笑った。
「実に思いやりのある夫だ」
ヴィルヘは拳を強く握り締めていた。
指にはめられた翡翠の指輪が、掌へ食い込みそうになっている。
「アーガ、これはどういうことだ?」
自分の娘婿とまったく同じ姿をした男を睨みつける。
「お前の言ったとおり、刺客は本当にカーンへ化けていた」
アーガは一歩前へ出た。
「この『カーン』が、俺たちが最初にベラ様の部屋へ到着したとき、口にするはずのない言葉を言ったからです」
彼は、わざと『カーン』という名を強調した。
「あのとき、ベラ様の身体はすでに包帯で覆われていました。外から見ただけでは、どれほど傷を負っているか分からなかったはずです」
「ですが、あなたはベラ様を見た瞬間、こう言った」
「『可哀想な妻……どうしてこんなにたくさん傷つけられたんだ』と」
偽のカーンが眉をひそめる。
「それは、身体中にあれほど血がついていたから――」
途中で、声が止まった。
アーガはそのまま続ける。
「熟練した刺客は、できるだけ早く標的を殺そうとします」
「最初の一撃で急所を外したとしても、その後は心臓や喉など、致命傷になる場所を狙うはずです」
アーガは、さらに一歩近づいた。
「なのに、あなたはベラ様が多くの傷を負っていると、最初から思い込んでいた」
「どうして、重い傷を二つか三つ負っただけだとは考えなかったんです?」
偽のカーンは、すぐに反論した。
「《夜鴆》は貴族の子供を苦しめることを好む。だから私は――」
そこまで口にした瞬間、本人の身体が固まった。
部屋にいた者たちの表情も、一斉に変わる。
「そのとおりです」
アーガは彼を見た。
「あの時点で、刺客が《夜鴆》だと知っていたのはレイモンさんだけでした」
「レイモンさんは、まだ大広間で刺客の正体を明かしていませんでした」
「《夜鴆》が貴族の子供を苦しめて殺すことも、誰にも説明していなかった」
「それなのに、あなたは先に知っていた」
ウォーカー執事が、すぐに別の疑問へ気づいた。
「だが、もし本当に《夜鴆》なら、なぜ腹部を確認したときに傷がなかった?」
「赤い泥もだ。刺客が北側の窓から飛び降りたのであれば、必ず湿地へ着地する」
「この男には、赤い泥など一つもついていなかった」
「《夜鴆》は空を飛べません。外から直接、城館の中へ戻ることなどできないはずです」
アーガはウォーカーへ顔を向けた。
「簡単なことです」
「《相似変形》を使い、傷口を負傷した皮膚と同じ色へ変えた」
「流れ出た血と、身体についた赤い泥は、涙へ変えたんです」
部屋の中で、一斉に驚きの声が上がった。
レイモンも、すぐに理解する。
「だから大広間へ戻ってから、ずっと壁際でうずくまって泣いていたのか」
「涙は服や腹部の近くへ落ちていた」
「誰もがベラ様を心配して泣いていると思い、疑おうとはしなかった」
彼は長剣を握り締め、すでに足元を戦闘の構えへ変えていた。
ヴィルヘの表情が、次第に険しくなる。
「ベラを襲ったとき、奴には殺意があった。だが魔法は使っていなかったため、魔動儀は反応しなかった」
「カーンへ化けたときは魔法を使ったが、その瞬間には誰かを殺すつもりがなかった」
「だから、そのときも魔動儀には探知されなかったということか」
「なるほど」
偽のカーンの顔色は、ますます悪くなっていた。
それでも、まだ認めようとはしない。
「すべて憶測だ」
「私がその能力を持っていると、どうやって証明する?」
「血や泥を涙へ変えるなど、できるはずがない。馬鹿げている!」
アーガは冷笑した。
「あなたは、自分が刺客ではないと必死に証明したかった」
「だからベラ様が傷ついたあと、わざとひどく悲しんでいる姿を見せ、壁を強く殴った」
「ですが、壁を殴った衝撃で、涙へ変えていた赤い泥の一部が服から落ちた」
「あなたの能力の範囲を離れた泥は、元の姿へ戻り、大広間の隅へ落ちたんです」
偽のカーンの口元が、わずかに引きつった。
アーガはウォーカーへ視線を向ける。
「自分が痕跡を残したことには、すぐに気づいたはずです」
「機会を見つけて、処理しようともした」
「ですが、大広間にはずっと人がいました」
「その後も俺やリサ、ロイスさんが近くを歩いていたため、目立つ行動を取ることができなかった」
「だから、あの赤い泥は今まで残っていたんです」
偽のカーンは数秒間、何も言わなかった。
やがて両手を持ち上げ、ゆっくりと拍手を始める。
「見事だ」
笑い声を漏らした。
「実に見事な推理だ」
カーンの整った顔が、ゆっくりと歪み始めた。
皮膚が高温で溶かされた蝋のように下へ流れていく。
長い黒髪は徐々に短くなり、顔立ちも少しずつ青白く、陰気なものへ変わった。
間もなく、《夜鴆》は本来の姿を現した。
鎖骨の近くには、焼きごてでつけられた古い傷痕がある。
襟の下からは、腐って変色した灰色の牙を描いた刺青がのぞいていた。
ヴィルヘが勢いよく一歩前へ出る。
「カーンはどこだ?」
《夜鴆》の口元に、残忍な笑みが浮かんだ。
「死んだ」
あまりにも気軽な口調だった。
「お前たちが婚礼の準備で忙しくしている間に、俺が先に送ってやった」
《夜鴆》は小さく首を傾げた。
「どうせ、あいつも善人じゃなかったがな」
ヴィルヘの身体が、大きく揺れた。
顔から一瞬で血の気が失われる。
額と首筋には、青い血管が何本も浮かび上がった。
「捕らえろ!」
ヴィルヘの怒号が、部屋中へ響き渡った。
ガレスが右側から飛び出す。
手にした短剣が、冷たい光を描いた。
レイモンは正面にあった樫の机を身体ごと粉砕し、長剣で《夜鴆》の喉を狙う。
《夜鴆》は素早く後方へ跳んだ。
外套が広がると同時に、大量の紫色の粉末が手から撒き散らされる。
粉は一瞬で部屋中へ広がった。
「俺からの最後の贈り物を楽しめ!」
その姿は、瞬く間に煙の中へ消える。
「逃がすか!」
レイモンの全身から、魔力が一気に膨れ上がった。
両手で長剣を握り、力任せに横へ振り抜く。
強烈な剣気が、瞬時に部屋全体を通過した。
紫色の煙は気流によって、すべて窓の方角へ押し流される。
同時に、カーテン、木製の机、壁面へ一直線の切断痕が刻まれた。
「今度こそ、どこへ逃げるつもりだ!」
レイモンは叫びながら窓へ突進した。
《夜鴆》は、ちょうどステンドグラスを突き破ったところだった。
身体の半分が、まだ窓の外へ出たばかりである。
レイモンも続いて窓から飛び出し、空中で《夜鴆》の襟をつかんだ。
そのまま長剣を下へ突き出す。
ブスッ!
剣先が、《夜鴆》の両脚を立て続けに貫いた。
《夜鴆》は悲鳴を上げ、完全に抵抗する力を失う。
レイモンは彼をつかんだまま地面へ着地し、再び身体を持ち上げた。
「今度は、ベラ様を盾にできないぞ」
レイモンは冷たく見下ろした。
「まだ逃げ切れると思っていたのか?」
《夜鴆》は間もなく、逆さ吊りのまま大広間へ連れ戻された。
血が髪の先から絶えず滴り落ち、絨毯の上には暗赤色の跡が長く続いている。
数人の兵士が前へ出て、魔力封じの枷をつけて連行しようとした。
しかしヴィルヘが突然駆け寄り、《夜鴆》の襟をつかんだ。
「カーンは、本当に死んだのか?」
声はひどくかすれ、元の声とは思えないほど変わっていた。
《夜鴆》は血に染まった唇を歪める。
「すぐに会えるさ」
「地下でな」
ヴィルヘは、彼を激しく睨みつけた。
やがて、ゆっくりと手を離す。
「地下牢へ入れろ」
血まみれの《夜鴆》を見下ろした。
手にはめられた翡翠の指輪には亀裂が走り、その傷が朝の光を受けて、はっきりと浮かび上がっていた。
「私が自ら尋問する」




