第 48 話 深夜の罠
扉が閉じた瞬間、アーガは顔を上げてウォーカーを見た。
二人の視線が、廊下で一瞬だけ交わる。
老人の濁った瞳の表面には、極薄い虹色の膜が張っているように見えた。
まるで、沼の水面へ浮かぶ油膜のようだった。
「どうして、ここにいるんですか?」
アーガが尋ねた。
「お前には関係ない」
ウォーカーの声はひどく乾いていた。
「早く部屋へ戻って休みなさい」
アーガは、それ以上問いかけなかった。
どうせ眠れそうにない。
彼は廊下の最も奥まで進み、リサの部屋の扉を叩いた。
扉は、ほとんど間を置かずに開いた。
リサは寝間着姿だった。
金色の長髪は結ばれておらず、肩の上へ緩やかに垂れている。
燭光に照らされた目は冴えており、ずっと眠っていなかったことが分かった。
「あなたも眠れないんですか?」
リサが尋ねた。
アーガは室内を一度のぞいた。
女性護衛は部屋の隅へ座り、目を閉じて休んでいる。
しかし、佩剣は今も手を伸ばせば届く場所に置かれていた。
「うん」
アーガは答えた。
「刺客はまだ城館にいて、いつでも誰かに化けられる。こんな状況で、安心して眠れるわけがない」
リサは裸足のまま羊毛の絨毯を踏み、窓辺へ歩いていった。
無意識に指先で窓枠へ触れたあと、振り返る。
「それなら、少し外を歩きましょう」
「今から?」
「そうです」
リサが身体の向きを変えると、寝間着の裾が軽く揺れた。
アーガは尋ねる。
「今、外へ出られるのか?」
「屋敷から出るわけではありません。周囲を歩くだけです」
リサは平然と答えた。
「敷地の外へ出なければいいでしょう?」
アーガがうなずいた直後、リサはすでに目の前まで来ていた。
そのまま手首をつかむ。
「では、行きましょう――」
彼女の動きが、突然止まった。
リサはアーガの袖口を見下ろしている。
「袖が濡れていますよ」
アーガも視線を下げた。
確かに、礼服の袖口の内側に小さな水染みができていた。
先ほど、濡れた手でロイスに触れられたときについたものだろう。
「本当だ」
アーガは、その跡をしばらく見つめた。
次の瞬間、瞳が鋭く細められる。
何かを思いついたように、口元も少しずつ上がっていった。
「分かった」
「外へ行こう」
女性護衛も、音を立てずに二人のあとへ続いた。
城館を出ると、アーガは最初に東翼の窓の真下を確認した。
赤い湿地には、今も乱れた足跡が大量に残されている。
月光が泥水へ反射し、薄い光の膜を作っていた。
リサの靴が、小石の敷かれた道を踏む。
「刺客も、ずいぶん狡猾ですね」
彼女は言った。
「ベラ様を襲ったとき、最初から最後まで魔法を使わなかった。だから魔動儀にも発見されなかったのでしょう」
アーガは心ここにあらずといった様子でうなずいた。
「そうだな」
「ただ、レイモンさんの話どおりなら、あの能力は暗殺に使っても、地面の枝を長針へ変えたり、別の近接武器を作ったりする程度です」
「それほど大きな効果はなさそうですね」
夜風が吹き抜けた。
リサの金髪が横へ流れ、毛先がアーガの頬を軽くかすめる。
彼女は横目でアーガを見た。
「先ほど、何かに気づいたから急に外へ出る気になったんですか?」
「少しだけ」
アーガは詳しく説明しなかった。
三人はそのまま進み、間もなくロイスが話していた赤土の近くへ到着した。
泥の上には、確かにいくつかの足跡が残っている。
一部は、あとから何度も踏まれて形が崩れていた。
アーガはしゃがみ込み、表面の湿った泥へ指を触れた。
「リサ」
「何ですか?」
「君が一人でここにいて、うっかり赤い泥を服につけたとする」
アーガは、わざと強調した。
「一人だけだった場合、どうする?」
リサは、ほとんど考えずに答えた。
「まず泥を払い落とします」
「そのまま宴へ戻ったら、靴や裾が赤い泥だらけになってしまいます。あまりにも失礼でしょう」
「目立つ泥だけでも先に落として、外から見て分からないようにします」
「そのあと城館の化粧室へ行き、靴と裾を丁寧に洗いますね」
話を聞き終えたアーガは、突然笑い出した。
リサは眉をひそめる。
「何ですか?」
「私の答えが変でしたか?」
「いや」
アーガは立ち上がった。
「何でもない」
リサは不満そうに唇を尖らせた。
「本当に変な人ですね。まあ、話したくないなら構いませんけど」
アーガは指についた泥を払った。
「今はロイスさんが疑われてるから、少し心配なんだ」
リサはうなずいた。
「そうですね。以前は仕事上の関係だったとしても、それなりに付き合いはあったのでしょう?」
彼女は城館の方角を見た。
「私は、早く事件が解決してほしいです。この状況では、明日も出発できそうにありませんから」
アーガの動きが突然止まった。
「待って」
急に声を上げられ、リサは少し驚いた。
「どうしたんですか?」
「今、何て言った?」
「明日は出発できそうにない、と言いました」
「違う。その前」
リサは少し考えた。
「以前は、仕事上の関係だった?」
アーガは、すぐには答えなかった。
その場に立ったまま、表情が徐々に険しくなっていく。
「おかしい……」
「何がですか?」
「そういえば、前に誰かが、妙なことを言っていた気がする」
アーガの指が、無意識に腰の剣の柄を叩いた。
濡れた袖口。
赤い泥が付着していた場所。
そのときは誰も気に留めなかった言葉。
そして先ほど、レイモンから聞いた情報。
それらが頭の中で少しずつつながっていく。
数秒後、アーガはようやく顔を上げた。
「分かった」
リサはすぐに隣へ寄った。
「刺客が誰なのか、分かったんですか?」
「俺の考えが正しければ、刺客はすでにその人物へ化けている」
「教えてください」
リサの目に、たちまち期待が浮かんだ。
「もう分かったのなら、早く教えてください」
「あとで教える」
アーガは城館の三階へ目を向けた。
「ただ、正体を暴く前に、少し準備が必要だ」
————
午前四時。
グルバート邸は、深い静寂に包まれていた。
長い廊下に設置された魔法灯は、かすかな光しか放っていない。
ベラの部屋の前を守る兵士たちは、今も長戟を握り、時折左右へ視線を走らせていた。
辺りには、ほとんど物音がない。
やがて、廊下の奥から足音が聞こえてきた。
カツン。
一つの人影が、扉の前で止まる。
「扉を開けろ。中へ入る」
二人の兵士は、すぐに長戟を交差させて進路を塞いだ。
「閣下、それは少々困ります」
「ふざけるな!」
来訪者は勢いよく衣服をめくり、傷一つない腹部を見せた。
「まだ私を疑っているのか? 身体には新しい傷などない!」
先頭の兵士は長戟を強く握った。
それでも、口調には迷いが残っている。
「ですが、ヴィルヘ伯爵から、何人たりともベラ様の部屋へ勝手に入れてはならないと命じられております」
「城館中を捜したのに、刺客の姿は見つからなかった」
来訪者の声が次第に重くなる。
「奴は外の兵士へ姿を変えて、すでに逃げたに決まっている」
「私は、ただもう一度ベラ様の顔を見たいだけだ。何が問題なんだ?」
兵士たちは互いに顔を見合わせた。
「しかし……」
先頭の兵士は明らかに困った様子だった。
最後には長戟を下ろす。
「どうか、すぐにお戻りください」
扉がゆっくりと開かれた。
部屋の中に明かりはなく、窓から入るわずかな月光だけが寝台の近くを照らしている。
ベラは静かに横たわっていた。
顔色は今も青白い。
身体の大半は布団に覆われている。
外へ出ている包帯からは、もう血がにじんでいなかった。
傷は明らかに回復へ向かっていた。
来訪者が部屋へ入る。
その背後で、木製の扉が閉じられた。
カチリ。
鍵がかかった瞬間。
彼の顔から、焦りと心配の表情がすべて消えた。
代わりに浮かんだのは、冷たく歪んだ笑みだった。
音もなく寝台へ近づき、袖の中から毒を塗った短刀を取り出す。
幽緑色の毒液が、刃の表面を覆っていた。
月明かりが鋭い刃で反射し、ちょうどベラの首元へ落ちる。
「死ね」
《夜鴆》の声は、とても小さかった。
短刀が勢いよく振り下ろされる。
ブスッ――
刃は難なく布団を貫いた。
しかし、手へ返ってきた感触は異様に柔らかい。
血肉ではない。
《夜鴆》の動きが止まった。
すぐに布団をはぎ取る。
寝台へ横たわっていたのは、ベラではなかった。
綿と木枠で作られた人形だった。
顔には硬い笑みが描かれている。
今も真っすぐ《夜鴆》を見つめ、愚かさを嘲笑っているかのようだった。
パッ!
室内に設置されたすべての水晶燭台が、同時に点灯した。
強烈な光が、一瞬で暗闇を消し去る。
ほとんど同時に、扉が外側から蹴り破られた。
アーガが最初に敷居を越える。
その後ろにはヴィルヘ、レイモン、ウォーカー執事、ガレス副官、ロイスが続いていた。
リサと女性護衛も扉の脇へ立ち、《夜鴆》の逃げ道を完全に塞いでいる。
アーガは、寝台のそばに立つ男を見た。
「やっぱり、あなただったんだな。カーン」




